第35話 完全共鳴
――どくん。
――どくん。
生き物のように不気味な脈動を繰り返す、禍々しい黒い核。
地下空洞の中央、世界の命脈とも言える巨大な精霊鉱脈へと、まるで寄生虫のように悍ましく絡みつく黒い塊がそこにあった。
鼓動のたびに、大気がビリビリと肌を刺すように震える。
鼻を突くのは、吐き気がするほど濃密でドロリとした負の魔力だ。
怒り、絶望、悲しみ、嫉妬、後悔――。
人間が心の奥底に澱のように溜め込む負の感情が、黒い泥となって渦を巻き、侵食し尽くそうとしていた。
「っ……!」
リンネは思わず足を止めそうになる。
押し寄せる圧倒的な悪意の津波に、全身の毛が逆立ち、本能が全力で警鐘を鳴らしていた。
(近づくな。触れるな。あれは――お前を喰らい尽くす絶望だ)
脳内で狂ったように鳴り響く警告。
恐怖で足が竦みかける。
だが、その恐怖を切り裂くように、彼女の前を走る青白い光が揺らめいた。
光の主が、ふっとリンネを振り返る。
「……あなた」
それは、出会った頃のような小さな子犬の姿ではなかった。
今や大型犬ほどまでに大きく成長した身体。
その青白い毛並みは、深い闇の中でも柔らかく神聖な輝きを放ち、宿る瞳には確かな知性と、リンネへの深い信頼が灯っている。
それでも。
自分を見る時の、どこか甘えるような温かい眼差しだけは、出会ったあの日のままだ。
『だいじょうぶ』
青白い尻尾が、ゆっくり一度だけ揺れた。
「……ふう」
その姿を目にした瞬間、リンネの胸の奥につかえていた強張りが、すっと解けていく。
小さく息を吐き出し、自らの頬を軽く叩いて気合を入れ直した。
(逃げない。今度こそ……絶対に。私が守りたいものから、もう目は逸らさない!)
その決意を阻むように、背後から鼓膜を震わせる轟音が響き渡った。
「おおおおおっ!」
ルークたちが、背後から迫り来る黒い腕の群れを必死に食い止めつつ、道を切り開いていた。
銀光が一閃。
ルークの放つ鋭い斬撃が黒い腕を無数に斬り飛ばすが、切り口からはすぐに黒い泥が湧き出し、次の瞬間には何事もなかったかのように再生していく。
「くそっ、キリがないな……!」
若き騎士の焦燥の混じった叫び。
すかさず、背後で黄金色の複雑な魔導術式を展開しながら、セレストが凛とした声を張り上げた。
「止まるな! あの子たちを核まで届けるのよ!」
リンネは前を向く。もう、迷いはなかった。
一歩、また一歩と黒い核へ近づくたびに、脳裏へ悍ましい精神汚染の声が流れ込んでくる。
『さみしい』
『くるしい』
『たすけて』
『もっと……もっと力を……!』
『いやだ』
『ひとりはいやだぁぁぁぁ!』
あまりの悲痛さとドス黒さに、胸がギリギリと締め付けられるように痛む。
黒化精霊鉱は、人間の負の感情を際限なく取り込む性質を持つ。
だからこそ、これほどまでに肥大化し、終わりのない増殖を続けるのだ。
その時、わんこ精霊がリンネを庇うように前へ一歩踏み出した。
その青白い光が、一層強く、眩しく輝き始める。
同時に、リンネの頭の中へ、どこまでも純粋で温かい声が響いた。
『――いっしょ』
リンネの鼓動と、わんこ精霊の鼓動が、少しずつ重なっていく。
魔力ではない。
心そのものが、静かに同じリズムを刻み始めていた。
「……うん。一緒だよ」
リンネは静かに、愛おしさを込めて頷いた。
前世の、あの最期の日。
冷たくなっていく愛犬をただ抱き締めながら、自分はずっと後悔の念に苛まれていた。
(守ってあげられなかった。もっと一緒にいたかった。独りきりで逝かせたくなかった――)
だけど、この子は世界の壁を越えて、また自分を見つけてくれたのだ。
だから、今度は絶対に手を離さない。
リンネは両手をそっと黒い核へと向けた。
「届いて……!」
自身の魔力を一気に解放し、わんこ精霊の光へと重ねていく。
青白い光の波が、黒い空間へと波及していく。
だが、敵もただでは倒れない。
次の瞬間、黒い核が激しい拒絶の意志を持って反発した。
――ゴォォォォォッ!!
「くっ……!?」
吹き荒れる負の嵐。
リンネの華奢な身体を後ろへと吹き飛ばそうとする。
それと同時に、堰を切ったようにドロリとした負の感情がリンネの精神へと直接流れ込んできた。
苦しい、怖い、寂しい、悲しい、絶望――!
まるで頭が内側から割れそうなほどの激痛と精神的負荷に、リンネの視界が歪む。
(私、また飲み込まれちゃうの……?)
意識が闇に沈みかけた、その瞬間だった。
ふわりと、あまりにも温かい温もりが背中に触れた。
わんこ精霊だった。
大型犬ほどの大きな青白い身体が、リンネの背中にぴたりと寄り添い、彼女を支えている。
そして、ふたたび心に真っ直ぐな言葉が届く。
『――ひとりじゃない、いっしょ』
その言葉が、リンネの心の最も深い場所を震わせた。
視界が急激にはっきりして、目から大粒の涙が溢れ落ちる。
「……っ、あ」
ずっと、ずっと、自分は独りぼっちだと思っていた。
孤独に死んだ前世でも。
この見知らぬ世界に生まれ変わった今世でも。
けれど、それは間違いだった。
温かく迎えてくれたオルガやラウノの街の人たちがいる。
背中を預けてくれるセレストがいる。
不器用だけど真っ直ぐに守ろうとしてくれるルークがいる。
そして――今、私を支えてくれているこの子がいる。
あの日からずっと止まっていた前世の時間が、今、猛烈な勢いで動き出していくのを感じた。
背後ではなお、ルークたちが命懸けで黒い腕を押し返していた。
誰一人、振り返らない。
ただリンネだけを信じて、戦い続けてくれている。
リンネは深く、深く息を吸い込んだ。
もう、その指先に震えはない。
凛とした瞳で核を見据え、両手を突き出す。
「その悲しみは違う。その後悔は違う……!」
あふれる涙を拭い、リンネは力強く声を張り上げた。
「そんなものにすがって、誰かの痛みを歪めないで! その人たちが本当に望んだ気持ちじゃない……!」
そして、まっすぐに黒い核を見据え、切実な願いを込めて告げる。
「――返して」
「誰かの大切な気持ちを、そんな悍ましいことのために使わないで!!」
応じるように、わんこ精霊が天に向かって雄叫びを上げた。
リンネの純粋な魔力と、高位精霊の聖なる光が完璧に混ざり合い、膨れ上がっていく。
リンネの魔力でもない。
わんこ精霊の力でもない。
二つの魂が重なった、その瞬間だった。
――完全共鳴。
もう、ひとりではない。
二つだった鼓動は、一つの奇跡となる。
世界は、青白い光に呑み込まれた。




