第34話 きみを、もう一度
視界のすべてが、身体に突き刺さるような青白い光に塗りつぶされていく。
網膜を焼き尽くさんばかりの輝き。
けれど不思議と、恐怖や痛みは微塵もなかった。
(……温かい)
それはまるで、極寒の雪山で極上の毛布にくるまれたかのような、あるいは――ずっと昔に知っていた、胸の奥へとじんわり染み込んでくるような、どうしようもなく懐かしい温度だった。
リンネは眩しさに思わず目を細める。
光の渦の中心で、わんこ精霊の姿が陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。
大型犬ほどの大きさへと成長した身体。神々しい青白い毛並み。自分を真っ直ぐに見つめる、一点の曇りもない漆黒の瞳。
しかし、その美しい輪郭が、境界線を失ったかのように少しずつ崩れ始めていた。
サラサラと、淡い光の粒子となって空気へと溶けていく。
「待っ――」
嫌だ。
リンネは本能的な恐怖に駆られ、咄嗟に手を伸ばした。
けれど、指先は虚しく光の粒子をすり抜けるだけで、どうしても届かない。
その触れ合いをきっかけに――脳裏の奥底へ、濁流のような映像が直接流れ込んできた。
冷たい床。
消え入りそうな呼吸。
私は何度も名前を呼んだ。
『ごめんね……っ』
最期まで尻尾を振ろうとしてくれた、小さな家族。
『神様。もし奇跡があるなら……もう一度だけ、この子に会わせて』
だから、知っている。
この胸を包み込む、ひだまりのような温もりを。
何があっても私を守ろうとする、この健気で一途な意志のカタチを。
ずっと。
世界の壁を越えてなお。
魂の深いところで、私はこの温もりを覚えていたんだ――。
『――みつけた』
脳裏に響く声。
それは今までのどんな時よりも、愛おしげに、嬉しそうに、まるで長い旅路を終えた子供のように優しく微笑んでいた。
リンネの目から、大粒の涙がハラハラと零れ落ちる。
「……ほんとに? 本当に,あなたなの……?」
信じたい。
でも、信じるのが怖かった。
もし違っていたら。
この奇跡まで失ってしまいそうで。
精霊と犬は違う。そんな都合のいい奇跡なんて、あるわけがないと、心のどこかで否定しようとする。
でも。
思い返せばこの子は最初からずっと、私を探し当てたかのように寄り添ってくれていた。
怖くて震える夜も、寂しい時も。
いつだって、命を賭して私を守るみたいに――。
青白く輝く光の粒子が、名残惜しそうにそっとリンネの頬へと擦り寄る。
まるで、かつてのようにペロペロと頬を舐めて、私を慰めてくれるかのように。
――その瞬間。
地下空洞の静寂を完全に打ち破り、巨大精霊鉱脈が文字通りの完全暴走を起こした。
――ゴォォォォォッッ!!!
爆音と共に、おぞましい黒い魔力の奔流が間欠泉のように噴き上がる。
グラグラと地下空洞全体が激しく鳴動し、天井の岩盤が耐えきれずに次々と崩落し始めた。
「リンネさんっ! 危ない、こっちへ!」
ルークの悲痛な叫び声が響く。
だが、リンネの足は一歩も動かなかった。
目の前でゆらめく青白い光が、胸が締め付けられるほどに愛おしくて、離れたくなかった。
すると、その拒絶に呼応するように、わんこ精霊がゆっくりと振り返った。
光だけになりつつあるその身体が、真っ直ぐにリンネの瞳を見つめる。
そして――空間全体に響き渡るほどの明確な意志で、静かに告げた。
『あるじ、まもる』
『こんどこそ』
直後、青白い光が太陽のごとく爆発した。
凄まじい純粋魔力の衝撃波が地下空洞全体へと波及していく。
その光に触れた瞬間、黒化精霊鉱たちがまるで熱湯を浴びせられたかのように、キィィィンと悲鳴のような歪んだ金属音を立てて身悶えした。
「なっ……何だと……!?」
アルヴェインが驚愕に目を見開く。
――浄化。
圧倒的な質量を持った黒い魔力の濁流が、わんこ精霊の放つ清らかな青白い光によって、またたく間に押し流され、無に帰していく。
精霊鉱脈の表面に血管のようにへばりついていた赤黒い術式が、パキパキと音を立てて崩壊し始めた。
「馬鹿な、あり得ん……!」
アルヴェインは髪を掻きむしり、狂ったように叫ぶ。
「このような高純度な精神共鳴など……! たかが人間ごときが、精霊とこれほどの絆を結べるはずがないッ!」
リンネは涙を拭い、強く息を呑んだ。
(違う……。私は、一人じゃない。この子がいてくれる。ずっと、ずっと昔から、私たちは一緒だったんだ!)
その時、黒化精霊鉱脈の最も深い中心部から、ドロリとした巨大な黒い塊が、不気味に浮遊しながら姿を現した。
地下核。精霊鉱脈の核。
この大災厄の、汚染の元凶。
まるで生き物の心臓のように、ドク、ドクと醜悪に脈打っている。
それと同時に、空洞全体に耳を塞ぎたくなるような無数の人間の呻き声が怨嗟となって響き渡った。
『……かえせ……すべて、かえせ……』
『……もっと……魔力を、よこせ……』
『……たりない……たりない、たりない……ッ』
『……くるしい……たすけて……くるしいよおぉ……』
「……この声」
リンネは息を呑む。
「人の心……? 絶望を食べてる……?」
空洞を満たすのは、生々しい欲望、執着、絶望――ありとあらゆる負の感情の煮こごりそのものだった。
黒化精霊鉱は人間の心に宿る闇を養分として取り込み、増殖していくのだ。
「素晴らしいだろう? 素晴らしい観察眼だ、お嬢さん!」
アルヴェインはハハハと恍惚とした表情で笑う。
「感情とは、人間という不完全な生物が唯一生み出せる最高効率のエネルギーだ。絶望の味は特に素晴らしい!」
「……っ、最低……」
リンネの顔が嫌悪で歪む。
「――だがね。お前だけは、本当に私の計算のすべてを覆してくれた。その精霊の核……見覚えがあると思えば、二十年前に私が実験の苗床にした、あの高位精霊か!」
アルヴェインの言葉に、リンネの背筋に冷たい戦慄が走る。
わんこ精霊は何も言わず、そっとリンネの手へと鼻先を寄せた。
触れられない。
それでも確かに温かかった。
あの日、最後に抱き締められなかった温もりが、今だけは確かにそこにあった。
唇が震える。
ようやく、声になった。
「……おかえり」
わんこ精霊の輪郭がふわりと揺れた。
それは、前世と変わらない笑顔に見えた。
涙だけが止まらなかった。
愛おしさと、男への激しい怒りで胸が震える。
だが、アルヴェインはそんなリンネの感情をあざ笑うかのように、さらに冷酷な真実を突きつけた。
「適合者を見極め、この鉱脈を完全に制御させるため――あの日、お前にあの黒化精霊鉱を拾わせたのも、この私さ」
ドクン、とリンネの心臓が嫌な音を立てた。
最初からすべて、この男の手のひらの上で踊らされていたのだ。
その動揺に呼応するかのように、空中を漂う黒い核が完全に暴走を始めた。
ドス黒い触手のような無数の黒腕が、空洞の四方八方へと爆発的に急成長し、リンネたちへと襲いかかる。
「くそっ! 総員、結界を死守せよ!」
「だ、駄目です! 結界の維持限界を越えています!」
騎士たちの防衛線が、数の暴力の前に決壊しかける。
――その瞬間。
バサァッ、とマントを翻し、ルークは迷わずリンネの前に滑り込んだ。
「リンネさん」
「え……あ、ルークさん……っ」
「あなたは、あの精霊と一緒に、その絆の力で、あの黒い核を止めてください」
リンネは驚愕に目を見開いた。
「でも、そんなの……! 周りにはあんなに怪物の腕が……!」
ルークは答えず、一歩前へ出る。
銀の細剣を静かに構える。
「俺が、必ず道を作ります」
その声には、一抹の迷いも、恐怖もなかった。
リンネの胸が、張り裂けそうなほどに強く締め付けられる。
この人はいつもそうだ。自分の命のことなんて二の次で、誰かを、私を守るために躊躇なく危険な火中へ飛び込んでいく。
「……無茶、ばっかり……。いつも、自分を犠牲にしようとして……っ!」
涙混じりの震える声。
すると、ルークはほんの少しだけ首を巡らせ、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「今さら、ですね」
その、どこまでも不器用で温かい笑顔に、リンネは強く息を呑んだ。
胸の奥で、恐怖が別の熱へと塗り替わっていく。
(――嫌だ。守られてばかりじゃ嫌だ。この温もりも、この人たちも、絶対に失いたくない!)
ワンッ!
隣で、わんこ精霊が力強く吠えた。
崩れゆく身体のまま、光だけが一瞬強く輝いた。
「ありがとう、ルークさん。今度は――私が前へ行く!」
「――行きますよ!」
セレストの鋭い声と同時に、ルークが神速の速度で踏み込んだ。
銀光が炸裂し、迫り来る黒腕を十重二十重に細切れに切り裂いていく。
「中央騎士団の意地を見せろ! 道を切り開けぇッ!」
騎士たちが後に続き、さらにセレストが全魔力を込めた黄金の術式で黒腕の群れを根こそぎ焼き払い、核へと続く一本の道を強引にこじ開けた。
「リンネ――ッ!!」
炎の向こうから、セレストの割れんばかりの叫び声が響く。
「行きなさい! あなたたちの絆を、あの狂人に見せつけてやりなさい!」
「――はいっ!!」
リンネは溢れる涙を、手の甲で強く拭った。
もう、迷わない。
恐怖なんて、疾うに光の彼方へ消え去っていた。
「行こう。」
「もう二度と、離さない。」
「きみを、もう一度見つけたから。」
「今度こそ、一緒に帰ろう。」
ワンッ!
光のわんこ精霊が応えるように吠えた。
リンネは迷いなく、大地を蹴った。




