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辺境の付与術師は静かに暮らしたい ~リンネ小物店のひみつ事情~  作者: 隅乃 けい


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第30話 災厄の胎動

工房の扉が重い音を立てて開き、冷たく煤けた外気が一斉に流れ込んできた。

肌を刺すような微細な魔力のざらつきが、リンネの頬をなでる。


――いこう。


胸の奥へ直接響いたその声に背中を押されるように、リンネは外へ踏み出した。


「――行くわよ」


セレストの号令とともに一行は駆け出す。

その瞬間、リンネは息を呑んだ。


そこは、もう見慣れた穏やかなラウノの街ではなかった。


頭上を覆うのは、天を突くように渦巻く厚い黒煙。太陽の光はその闇に完全に飲み込まれ、世界は夕暮れでもないのに、不吉な赤黒い薄闇に包まれていた。


遠くで鳴り響き続ける避難の警鐘。

逃げ惑う人々の怒号と、我が子を庇いながら泣き叫ぶ母親の悲鳴。

秩序が剥ぎ取られた街は、巨大な恐怖の渦に呑み込まれ、息を潜めるように震えていた。


「急げ! 北通りは封鎖だ!」


「負傷者は教会へ回せ!」


「鉱山区画には近づくな、戻れ!」


石畳のあちこちで騎士たちが声を張り上げ、人々を必死に誘導している。


荷車を引く老夫婦、両手いっぱいに家財を抱えて走る若者たち。その足元から舞い上がる砂塵が、今の異常な事態をこれでもかと物語っていた。


リンネはその凄まじい光景を見つめながら、スカートの裾をぎゅっと握りしめ、自らの意思で強く拳を固めた。


怖くないわけではない。

それでも、自分の足で選んだ。

目を背けず、この街で生きる者としての責任を果たすための第一歩だった。


「リンネ」


前を向いたまま、セレストが走るペースを緩めずに声を飛ばす。


「ここから先は時間との勝負よ。説明は移動しながらするわ」


「はい!」


すぐ傍を並走するルークも、周囲の瓦礫や路地裏に鋭い警戒の視線を配りながら言葉を継いだ。


「敵の目的は地下だ」


「あなたが見た、あの巨大な術式」


「あれが完成すれば終わりです」


セレストが空色の瞳を揺らし、険しく頷く。


「鉱山区画の爆発は、私たちの目を地上へ向けるための陽動よ。本命は地下。精霊鉱脈そのものを根底から汚染することだわ」


リンネの心臓が冷たく跳ね上がった。


「鉱脈が汚染されれば、この街中の魔導設備が同時に侵される」


「街を囲む防壁の結界も」


「物流を繋ぐ転移門も」


「住民たちが暮らす生活魔導具も」


「すべてが、ね」


その簡潔すぎる説明だけで、十分だった。

これ以上の解説など、もはや不要だ。


街の心臓部が腐れば、この都市に生きるすべての命が死に絶える。


冷酷な事実だけが、リンネの背筋を氷のように冷たく撫でた。


そのまま一団が北側の通りへ差し掛かった時だった。

崩れかけた古い石壁の傍らから、異様なうめき声が風に乗って届く。


「……う……ぁ……っ……!」


足を止めたリンネの視線の先で、ひとりの若い採掘夫が瓦礫にもたれかかるように倒れ込んでいた。


苦悶に満ちたその顔は脂汗にまみれ、左腕の衣服は引き裂かれている。


そして、露出した皮膚の上には、おぞましい黒い結晶が寄生虫のように群がり、黒い血管の網目が脈打つようにうねり、そのたびに男は喉の奥から苦痛の呻きを漏らしていた。


「黒化だ……! 近づくな! 黒化が広がる!」


近くを通りかかった騎士が青い顔で叫び、誰もが恐怖に足を踏み出せず、ただ立ち尽くすことしかできない。


その時だった。

リンネの足元にいた精霊が、ピクリと耳を動かして静かに歩み出た。


「待って……!」


リンネの制止の声を無視するように、精霊は苦しむ採掘夫のすぐ目の前へと歩み寄り、ちょこんと座り込む。

そして、ためらうことなく、その小さな鼻先を男の黒く染まった腕へとそっと触れさせた。


瞬間――。

精霊の身体から、透き通るような淡い青白い光が静かに、だが力強く広がりを見せる。


ジジジ……ッ!


空気を焦がすような微かな音が響き、腕を暴れていた黒い結晶が嫌悪するように激しく震えた。

侵食の勢いがぴたりと止まる。

男の口から漏れていた苦悶のうめき声が和らぎ、荒かった呼吸がわずかに落ち着きを取り戻した。


だが、それ以上ではなかった。

黒い結晶が消え去ることはなく、皮膚の奥に深く根を張ったまま残り続けている。


精霊の青白い身体はわずかに揺らぎ、その小さな輪郭が薄く霞んでいた。


まだ幼いその身には、すべてを浄化しきれないほどの大きな負荷がかかっている。荒い息を吐きながらも、小さな肩が上下していた。


その姿を見たリンネの胸が、きゅっと締めつけられる。


この子は、自分よりずっと小さな身体で、誰かを守ろうとしている。


「完全な浄化には至っていない。でも、黒化の進行は明確に抑制されている……。理論は正しかったということね」


セレストが冷静に分析を落とす。


リンネはすぐに膝をつき、苦しそうな小さな背中にそっと手を伸ばして優しく撫でた。


「ありがとう、すごいよ……」


その温もりに気づいたのか、精霊はわずかに振り返り、ほっとしたように小さく尻尾を一度だけ振った。


だが、その青い瞳が捉えたのは、さらに深くへと続く闇だった。


すぐに向き直ると、鉱山区画のさらに深い奥――黒煙の最も濃い方角をじっと見据え、促すように小さく鳴いた。


「急ぎましょう」


促されるように再び走り出した一行は、ついに鉱山区画の最前線、巨大なバリケードが築かれた検問所へと飛び込んだ。


「ルーク隊長! セレスト様!」


前線を任されていた若い騎士が、血相を変えて泥まみれになりながら駆け寄ってくる。


「状況は!?」


ルークが抜身の剣の柄を握り締め、鋭く問いただす。


「最悪です! 第二坑道の入り口付近で、人為的なものとしか思えない大規模な地盤崩落が発生!」


「 さらに保守坑道のさらに下層から、制御不能の黒い魔力が凄まじい勢いで噴き出しています!」


「 突入していた第二班との通信は……完全に途絶えました!」


矢継ぎ早に飛び込んでくる、絶望的な情報の数々。

その報告を合図にしたかのように――。


ズォォォォォン……ッ!!!


足元から、地表の揺れなどとは比べ物にならない、悍ましいほどの巨大な振動が突き抜けた。

それは地面ではない。

もっと遥か地下、この街の根幹を支える精霊鉱脈そのものが、苦悶のあまりに引き攣るような、生々しい鼓動だった。


「っ……!」


リンネの視界がぐらりと激しく歪む。

頭の芯をハンマーで殴られたような強烈なめまいに耐えかねて、彼女は思わず両手でこめかみを押さえた。


(また……来る……!)


思考の深淵をこじ開けるように、煤けた闇の底から、痛切な絶望が直接流れ込んでくる。


それは以前よりも何倍も鮮明に、リンネの脳裏を震わせた。


『――たすけて』


人の声ではない。

精霊の鳴き声とも違う。

もっと巨大で、途方もなく古くからこの街を支え続けてきた、世界の理そのものの悲鳴だった。

この街自身が、今まさに息絶え絶えになりながら助けを求めている。


その圧倒的な痛みの波長に呼応するように、足元のわんこ精霊がぴんと全身の毛を逆立てた。


『……まもる』


幼い声だった。

けれど、その一言には誰よりも揺るがない覚悟が宿っていた。


リンネはそっと拳を握り返す。


「……うん。一緒に行こう」


黒煙の向こう――。


鉱山区画の地下深く。


街全体へと繋がる精霊鉱脈の奥底で、災厄は静かに牙を研いでいた。



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