第29話 守るための選択
第29話:守るための選択
爆音は、一度では終わらなかった。
――ドォンッ……!!
腹の底を直接揺るがすような重苦しい振動が、数拍遅れて街全体へと伝播していく。
その凄まじい衝撃に、工房の棚に並んでいたガラスの小瓶たちが、カタカタと恐怖に震えるように音を立てた。
「……っ!」
リンネは弾かれたように窓辺へと駆け寄り、外の景色に目を凝らす。
遥か遠く――。
いつもなら穏やかな活気に包まれているはずの鉱山区画の方角から、天を衝くような不気味な黒煙が立ち昇っていた。
「……嘘でしょ」
呆然と呟いたリンネの耳に、それまで平和だった市場のざわめきが、一瞬にして悲痛な悲鳴へと変貌していく様が届いた。
「おい、鉱山の方だぞ!」
「爆発だ! 逃げろ、早く!」
「子どもを中に隠せ! 早くしろ!」
窓の外の通りを、人々が血相を変えて走り抜けていく。
開いていた店は慌ただしく戸締りをする鈍い音が響く。
目に見えない巨大な不安の波が、濁流となって街全体へと広がっていくのが肌で感じられた。
恐怖に身をすくませるリンネの傍で、クゥンと切ない鳴き声がした。
見れば、わんこ精霊がリンネのスカートの裾をぎゅっと咥えている。
まるで「僕の傍から離れないで」と、必死に引き留めているかのようだった。
「リンネ」
背後からかけられたセレストの声は、いつになく鋭く、そして冷徹だった。
「ここから先は、私たち研究所と騎士団の案件よ」
「でも、あんなに煙が……!」
「あなたは狙われているの。自覚を持ちなさい」
遮るような即答だった。
そこには一切の迷いも、容赦もない。
「あの黒化精霊鉱があなたの魔力に共鳴した時点で、敵側も確信したはずよ。あなたが彼らの計画を脅かす存在だとね」
セレストの言葉が、リンネの喉を締め付ける。
付与術師としての自分の力。
目の前にいる謎の精霊。
そして、あの禍々しい鉱石との共鳴。
バラバラだった点と点が、最悪の形で一本の線へと繋がってしまった。
「……っ」
逃げ出したい。
頭を抱えて、どこか遠くへ隠れてしまいたい。
ただ静かに、大切な人たちと慎ましく暮らしたかっただけなのに。
どうして自分がこんな大ごとに巻き込まれなければならないのか。
そんな弱音と切実な願いが胸を掠める。
だが――窓の外から絶え間なく聞こえてくる、人々の怯える悲鳴や、避難する家族たちの焦燥に満ちた足音が、リンネの耳を塞ぐことを許さなかった。
(もし、この街の魔力環境が崩壊したら……昨日まで笑っていたあの人たちも、みんな……)
「鉱山区画って……まだ、住民の皆さんがいますよね」
リンネの絞り出すような低い呟きに、傍らに控えていたルークが痛ましげに表情を歪めて頷いた。
「はい。採掘夫とその家族たちが住む居住区が隣接しています」
「避難誘導は……?」
「すでに騎士団の先行部隊が動いています。ですが――」
ルークの精悍な顔に焦りの色が浮かぶ。
言葉を濁したその表情が、すべてを物語っていた。
爆発の規模からして、全員の避難が間に合う保証など、どこにもないのだ。
リンネは自分の無力さに唇を噛み締め、ぎゅっと拳を握りしめた。
その、時だった。
――どくん。
心臓を直接掴まれたかのような悍ましい脈動が、机の上の黒化精霊鉱から放たれた。
見れば、石の内部にまるで生き物のような黒い筋が、おぞましい速度で這い回っている。
同時に、リンネの脳内に強烈な目眩とともに、断片的な映像が直接流れ込んできた。
――光の届かない地下坑道。
――黒い結晶に侵食されていく精霊鉱脈。
――地下深くで脈打つ巨大な魔導術式。
「……あ、がっ……!」
黒化精霊鉱を通じてではなく、地下の精霊鉱脈そのものが自分を呼んでいるような感覚。
あまりの脳内への衝撃に、リンネは頭を押さえてその場に膝をつきそうになる。
「リンネさん!?」
ルークが慌ててその身体を支えた。
「地下深くに巨大な術式が……! 精霊鉱脈に沿って広がっています!」
「な、何だって……!?」
ルークが驚愕に目を見開く。
「精霊鉱脈に沿ってだと……!?」
ゼーゼーと荒い息を吐きながら、リンネは必死に記憶をたぐる。
この街の地下深くには精霊鉱脈があるという噂。当時はあくまで推察の域を出ない話だと思っていた。
けれど今、黒化精霊鉱を介して流れ込んできた不気味な光景は、それが紛れもない事実であることを告げている。
「今、視えたんです……。地下の鉱脈に向かって、あの術式が……!」
その言葉を聞いた瞬間、セレストの美しい薄青の瞳が、凍りついたように鋭く細められた。
「まさか……汚染を鉱脈へ流す気?」
「……分かりません。でも、術式は確実に鉱脈に繋がっていました……っ」
工房内の空気が、完全に凍った。
精霊鉱脈。
それはこの街ラウノの地下深くを網の目のように走る、文字通りの命綱ということだ。
街を守る防壁の魔導設備、物流を支える転移門の中継術式、果ては住民が使う生活用魔導具に至るまで、すべてのエネルギー源がそこから供給されている。
もしそこへ、あの邪悪な黒化汚染が流れ込めば――。
「……もし私の予想どおりなら、この街の魔力環境はすべて腐敗する。そうなれば、都市としての機能は完全に停止し、一瞬で死の街と化すわね」
セレストが地を這うような声で呟く。
ルークが即座に弾かれたように立ち上がった。
「姉上、本隊への増援要請を!」
「もう伝達鳥を飛ばしているわ」
セレストは信じられないほどの冷静さを保っていた。
しかし、その瞳の奥には激しい怒りの炎が揺らめいている。
「問題は、向こうがこちらの対応を完全に読んでいることよ。鉱山区画で爆発を起こせば、騎士団は当然そちらへ戦力を向ける。その隙に地下で術式を起動する――最初からそれが狙いだったのね。」
「つまり、鉱山区画の騒ぎは陽動……?」
「ええ。私たちの戦力をあえて引き付け、地下の本命を確実に遂行するための罠である可能性が極めて高いわ」
リンネはみるみるうちに顔を青ざめさせた。
こんなの、ただの犯罪やテロの領域を超えている。
完全に国家の存亡を賭けた戦争だ。
いや、精霊鉱脈そのものを腐らせようとするその企みは、それ以上に世界の理を脅かす危険を孕んでいた。
その時。
足元にいたわんこ精霊が、突然何かに反応して窓際へと飛び退いた。
耳をピンと立て、全身の毛を逆立てて低く唸る。
直後、窓の外の空気を切り裂くように、空中を黒い影が高速で飛来した。
――ガンッ!!!!
凄まじい衝撃音とともに、何かが窓ガラスへと叩きつけられる。
「っ、危険だ!」
ルークが身を挺してリンネの身体を抱き込み、床へと庇う。
次の瞬間、ガシャァンと激しい音を立ててガラスが四散した。
室内に飛び込んできたのは、不気味に歪んだ黒い塊。
それは拳大ほどの大きさをした、高密度の黒化精霊鉱だった。
床へ落ちた瞬間、まるで意思を持つかのように、おぞましい黒煙を周囲へと噴き始める。
「全員伏せて!」
セレストの鋭い叫び。
同席していた護衛の騎士が即座に前に出、手にした魔導具から純銀色の結界を展開した。
空間を隔絶する強固な光の障壁。
だが、噴き出した黒煙は、まるで飢えた獣のように蠢きながら結界へとへばりつき、その光をジリジリと侵食し始めたのだ。
「くっ、侵食速度が速すぎる……! 魔力が吸い取られていく……っ!」
熟練の騎士の顔が、見たこともない恐怖に強張っていく。
ルークの腕の中で、リンネは息を呑んだ。
これは、普通の魔力なんかじゃない。
肌を刺すような強い嫌悪、そしてすべてを呪うような悪意。
まるで生々しい人間の負の感情そのものが混ざり合っているかのような、不気味な気配だった。
その時、わんこ精霊が小さく身震いし、その喉から一際高い唸り声を漏らした。
――次の瞬間、その小さな身体から、今までとは比べ物にならないほどのまばゆい青白い光が弾け飛ぶ。
「なっ……!?」
結界を維持していた騎士が、眩しさに思わず目を細めた。
室内に充満していた邪悪な黒煙が、その青白い光を浴びた瞬間、猛烈な勢いで押し返されていく。
「消えた……のか!?」
騎士が息を弾ませて呟いたが、セレストはすぐに険しい表情のまま首を振った。
「――いいえ、違うわ。あれは煙ではない。高密度に霧化した汚染魔力よ。黒化精霊鉱は、自ら周囲へそれを放出し続ける性質があるの」
「弱まっただけよ!」
セレストの言葉通り、霧散しかけていた黒煙は消え去るどころか、再びうねるように蠢き、不気味な気配を盛り返し始めていた。
敵の脅威はまだ何も去ってはいない。むしろ、さらに奥底から牙を剥こうとしている。
その光景を目の当たりにしたセレストの表情に、強い決意の色が浮かび上がる。
セレストは目を閉じ、小さく息を吐いた。
その表情には、普段の冷徹さとは違う、年長者としての深い苦渋が滲んでいた。
「本当は、あなたを巻き込みたくない。危険すぎるわ」
一拍の静寂のあと、彼女は再び真っ直ぐにリンネを見つめる。
「でも――」
「姉上! 不謹慎なことを言っている場合では――!」
ルークが慌てて抗議の声を上げるが、セレストはそれを鋭い視線で制し、言葉を続けた。
「あなたは付与術師であり、戦闘員ではない。戦う力もないわ。だけど、あなたの後ろにいるあの精霊は違う。少なくとも、あの黒煙を押し返せる存在なのは確かよ。そして、あの精霊が主として認めているのは、世界中であなた一人よ」
セレストは、一切の欺瞞を捨てて真っ直ぐにリンネの瞳を見つめる。
「選びなさい。このままここで街の安全を祈りながら待つか。それとも、あの精霊と共に戦地へ行くか」
痛いほどの緊張感が、室内の空気を張り詰めさせる。
リンネは視線を落とし、足元のわんこ精霊を見た。
神秘的な青白い光を纏いながら、自分を信頼しきった瞳で見上げてくる小さな身体。
窓の外からは、今も人々の怯える声と、街を脅かす不気味な地鳴りが響いている。
怖い。
本当に、身体が震えるほど怖い。
一歩間違えれば、命の保証なんてない。
それでも、見てしまった以上、知らなかった頃にはもう戻れない。自分だけ安全な場所に残って、この危機を人任せにできるほど器用には生きられなかった。
リンネは深く、深く息を吸い込み、胸の震えを力に変えるようにぎゅっと両手を握り締めた。
そして、顔を上げてセレストの視線を真っ正面から受け止める。
「……行きます。私を、連れて行ってください」
静かなその一言に、迷いはもうなかった。
セレストは小さく頷き、ルークは無言のまま剣の柄に手を添える。
足元では、わんこ精霊がリンネの隣へ静かに並んだ。
それだけで、もう答えは十分だった。
その瞬間、地下深くから響くような重い地鳴りが、再び街全体を揺らした。




