第27話 動き出す影
ルークの穏やかな寝息だけが、静かな店内に響いていた。
リンネは毛布をそっと掛け直し、ようやく張り詰めていた肩の力を抜く。
――その瞬間だった。
バァァァンッッ!!!
これまでにない凄まじい勢いで、店の扉が勢いよく撥ね退けられた。
「ルーク……ッ!」
息を荒くして飛び込んできたのは、セレストだった。
いつも優雅で、すべてを見透かしたように微笑んでいた彼女の仮面は完全に剥がれ落ちている。雨に濡れた白金色の髪が頬へ張り付き、その手袋には返り血が滲んでいた。肩で荒く息をしながらも、その瞳だけは獲物を探す猛禽のように鋭い。
リンネは思わず息を呑む。
(この人が……ここまで取り乱すなんて)
どんな状況でも冷静だった彼女が、初めて余裕を失っていた。
その背後には、抜剣した体勢の騎士が二人。
しかも、そのうちの一人は肩口から激しく流血し、もう一人に肩を借りてかろうじて立っているという痛ましい惨状だった。
「姉上……ッ!」
反射的に身を起こしたルークは、肩に鋭い痛みが走ったにもかかわらず、そのまま立ち上がろうとする。
「待ってください」
リンネが思わず彼の腕を掴んだ。
「まだ完全には――」
「街で何か起きているなら、寝てはいられません」
その強い意志を宿した瞳に、リンネは返す言葉を失う。
ほんの少し前まで命を落としかけていた人とは思えない。
「相変わらずね」
セレストは苦く笑った。
「だからこそ、あなたにはまだ休んでいてほしかったのだけれど」
セレストの視線が、そのままテーブルへと落ちる。
そこではドクドクと禍々しい赤黒い光を放ちながら、黒化精霊鉱が不気味に脈打っていた。彼女は静かに目を細め、その美貌を苦々しく歪める。
「……やはり、共鳴したのね」
「はい……先ほど、黒化精霊鉱がリンネさんの魔力に反応しました」
ルークは一度言葉を止める。
「正確には、俺自身がすべてを見ていたわけではありません。ですが……意識の底で、異常な魔力の揺らぎを感じました」
「その後、リンネさんが石を見つめたまま動かなくなった」
ルークの視線がリンネへ向く。
「何か、聞こえたのではないかと思いました」
「リンネ。あなたには、何か聞こえたのね?」
セレストの問いに、リンネはゆっくり頷いた。
「……はい」
「石の中から、声がしました」
「手遅れだったわ。――私が外に配置していた追跡班が、先ほど正体不明の集団から同時多発的な襲撃を受けたの。相手は単独じゃない、組織化された複数の部隊よ」
「被害の状況は」
「現在確認中。けれど、街の防衛ラインはすでに突破されている可能性が高いわ」
セレストはそこで言葉を区切ると、まっすぐにリンネを見据えた。
その瞳に宿る圧倒的な圧に、リンネは思わず息を呑む。
セレストの視線が逃げ場を塞ぐ。
リンネは小さく息を吸い込んだ。
思い出したくない。けれど、自分だけが知っていることがあるのなら、話さなければならない。
膝の上のわんこ精霊が、不安そうにリンネの袖へそっと鼻先を押し付けた。その小さな温もりだけが、震えそうになる心を支えてくれる。
「リンネ」
セレストが切迫した声で問いかける。
「あなた、あの石が共鳴した瞬間――一体、何を視たの?」
リンネの喉が、緊張で小さく鳴った。
「……地下です」
掠れた声だったが、店内の誰もが聞き逃さまいと息を詰める。
「暗くて……とても広い場所でした。部屋というより……巨大な洞窟のような。壁にも、床にも、あの黒い石が並んでいて……数え切れないほど大量に……」
リンネの脳裏に、そのおぞましい光景が鮮明に蘇っていく。
「それが、全部……脈を打っていたんです。部屋中が、『ドクン』『ドクン』って……まるで、巨大な心臓みたいに」
語るだけで、リンネの背筋に冷たいものが走る。
だが、記憶の断片はそれだけではなかった。
「それから……あの声が」
リンネの顔色が、さらに青ざめる。
「あの石の中から……笑っていました。『もうすぐ完成する』って、そう言っていたんです」
静寂。
誰も何も言えない。割れた窓から吹き込む雨音だけが、やけに重く響く。
その沈黙の中で、セレストだけがぐっと拳を握りしめていた。その表情を見た瞬間、ルークも、そしてリンネも確信する。
――セレストは、今の話に何か心当たりがある。
セレストの顔から血の気が引いていく。
「そんなはずがない……。あれは歴史から消されたはずの研究よ」
一瞬だけ、彼女の冷静さが崩れた。
だが、すぐにいつもの研究者としての表情を取り戻す。
黒化精霊鉱を見据え、低く告げた。
「あなたが見た光景は、その禁書に記された施設と一致している」
店内の空気が重く沈む。
雨音だけが、静かに響いていた。
「……魔導研究院の禁書庫。その最深部に、一冊だけ閲覧を禁じられた記録があるの」
セレストは、わずかに目を伏せる。
「その名は――」
「精霊変換炉」
「精霊変換炉?」
「ええ」
セレストは苦々しく頷く。
「少なくとも、当時の記録にはそう残されているわ」
その言葉が落ちた瞬間。
テーブルの上の黒化精霊鉱が――
ドクン、と大きく脈打った。
わんこ精霊の耳が、ぴくりと震える。
次の瞬間、小さな身体がリンネの前へ滑り込んだ。
毛を逆立て、黒化精霊鉱へ向けて低く唸る。
「ガルルル……」
その姿は、これまで見せたことのないほど強い警戒を示していた。
店内を満たす空気が、一瞬で凍りつく。
黒化精霊鉱の奥で、赤黒い光がゆっくりと揺らめいた。
――まるで。
自らの存在を知られたことを、理解したかのように。




