第26話 穏やかな休息
「……動かないでください」
リンネは震える声でそう言うと、ルークの肩へそっと手を伸ばした。
すぐ目の前にある黒い痣は、今も禍々しい鼓動を続けている。このまま放っておけば、侵食が彼の心臓にまで達する――その想像が、リンネの心臓を締め付けた。
「……今から、魔力回路を修復します」
「治療を? いや、それは……」
ルークは必死に身を引こうとしたが、リンネの鬼気迫る表情に言葉を飲んだ。彼女の指先が、信じられないほど細かく震えている。
「あなたは、この事件の鍵なんです。……俺一人の命とは比べられない。だから――」
「だから嫌なんです!」
リンネは思わず叫んでいた。
「そうやって、また自分だけ犠牲になろうとするから!」
ルークの瞳が驚きに見開かれる。リンネは息を整え、意を決して彼の肩に手を置いた。
「今のあなたにだけは言われたくありません。……私が守るんです。付与術師のやり方で」
本来、付与術師が魔力を流す相手は剣や鎧、あるいは魔道具だ。人体へ直接付与を施そうとする者など、まずいない。
それは治療術師の領分であり、付与術師が踏み込む世界ではない。
けれど、リンネは思っていた。魔道具も、人も、魔力が流れる器であることに変わりはない。
(人体を、一本の魔道具だと思えばいい)
彼女は黒く侵されたルークの内部を見つめる。人体には無数の魔力回路が走っている。それは剣に刻まれた魔力導線と、本質的には何も変わらない。
リンネは純白の魔力を糸のように紡ぎ出し、ルークの回路へ差し込んだ。歪んだ魔力の流れを一本ずつ丁寧にほどき、途切れた回路を繋ぎ直し、本来あるべき循環へと補正していく。
(……そういえば、あの時も)
朦朧とする意識の底で、ルークは記憶の断片を拾っていた。
以前、同じ汚染に苦しんだ同僚を、リンネが救った日のことだ。治療術師や魔術師が匙を投げ、藁にも縋る思いで頼み込んだ時、彼女は汗をかいて疲労はあれど「治りましたよ」と微笑んだだけだった。
あの時は、それが術師としての手慣れた日常作業だと思っていた。
だが、今、自分の肩を伝わってくるこの感覚はなんだ。
彼女の指先から流れ込む魔力は、完璧なまでに精緻で、ひどく痛々しいほどに温かい。壊れた魔導回路を、一本一本、手作業で編み直していくような……そんな途方もない作業。
これは治療術などではない。リンネという付与術師が、全身全霊をかけて自分という「器」に捧げている、祈りに近い技術なのだ。
(こんな過酷なことを、あの時も……)
付与術師の技術で回路を修復する作業の隣で、わんこ精霊が小さく吠える。精霊は、リンネの手では届かない場所――回路の隙間にこびりついた黒い穢れを見つけるたび、青白い光を放ってそれを溶かしていった。
リンネが歪みを矯正し、精霊が穢れを祓う。
技術だけでは届かない場所。奇跡だけでは修復できない場所。二つの力が重なって初めて、根深い黒い侵食は少しずつ後退していく。
「……っ、温かい」
リンネは額に滲む汗を拭うことも忘れ、ひたすら作業を続けた。人体を魔道具として扱うなんて、普通なら絶対にやらないし、成功する保証なんてない。今の彼女にできるのは、侵食を一時的に食い止め、正常な循環を取り戻すことだけだった。
「ごめんなさい、ルークさん。……こんな無理な方法しかなくて」
独り言のような小さな呟きが、静かな店内に溶けた。
ルークの回路は、修復された傍からまた少しずつ歪もうとする。そのたびにリンネは、自身の魔力を削り、強引に補強の術式を編み込んでいった。
それはまるで、限界まで使い古された魔剣に、無理やり魔力を流し込むような危うい作業だった。
やがて侵食が沈静化し、痣が淡い痕跡へと変わった瞬間。
ルークの身体から力が抜けた。
「……終わった、みたいですね」
リンネの小さな呟きを最後に聞きながら、ルークはゆっくりと目を閉じる。
けれど、それは完全な眠りではなかった。
身体は限界まで消耗し、指一本動かすこともできない。
だが、中央騎士団で鍛え上げられた彼の意識は、危機の余韻を完全には手放していなかった。
遠くで響く雨音。
店内を満たす魔力の揺らぎ。
そして、傍らにいるリンネの気配。
それらを、まるで深い水底から浮かび上がる音のように、ぼんやりと感じ取っていた。
リンネはそんなルークの状態に気づかず、安堵したように小さく息を吐く。
「……本当に、危なっかしい人」
彼女はルークの額に垂れた髪を、優しくかき上げた。
毛布を掛けた後、彼女は力尽きたようにルークの傍らへ座り込む。
治療という名の付与術。
終わってみれば、自分の方が魔力を使い果たしてフラフラだった。
リンネはその寝顔を飽きることなく見つめながら、握られたままの彼の手を、ゆっくりと自分の方へ引き寄せた。
「……本当に、助けられました」
ルークの寝言のように呟いた言葉に、リンネは小さく笑う。
「……今度からは、ちゃんと頼ってくださいね」
「……努力します」
「努力じゃなくて約束です」
「……善処します」
そのやり取りに、そばにいたわんこ精霊が「きゅぅ」と鳴き、ルークの胸の上に丸まった。
二人は思わず顔を見合わせて笑う。
静かな時間が、店を満たしている。
幸せな、穏やかな朝。
――だが。
テーブルの上、布に包まれたままの黒い精霊鉱。
その亀裂が、ごくわずかに開いた。
――どくん。
リンネの胸の奥で、何かが微かに引かれた。
「……え?」
無意識に石へ視線を向ける。
その瞬間。
頭の奥へ、誰かの囁きが直接流れ込んできた。
『――もうすぐ完成する』
低く、粘つくような声。
男とも女とも分からない。
まるで幾重もの声が重なったような、不快な響きだった。
「っ!」
リンネは思わず頭を押さえる。
次の瞬間には声は消え、石も再び静まり返っていた。
「……気のせい?」
そう呟いたが、胸騒ぎだけは消えなかった。
リンネ自身も、それが何を意味するのか理解できなかった。
ルークもまた、深い意識の底でその異変を感じながら、目を開けることはできなかった。
そして誰も、その黒化精霊鉱の奥で何が起きているのかを知らなかった。




