第25話 雨音の追跡
ルークは荒い息を吐きながら、雨の降りしきるラウノの路地裏を疾走していた。砕けた窓から飛び出して以来、黒帽子の男の背中だけを見失うまいと追い続ける。
視界を奪うような豪雨の中、水たまりを蹴り上げ、石畳を滑るように駆け抜けるが、男の動きはあまりに速く、不自然だった。
(俺が全力で追っても、距離が縮まらない……?)
中央騎士団で鍛え上げた脚をもってしても届かない。
(何者だ……)
角を曲がった先の大通り。街灯に照らされた一本道には、不気味なほど誰もいなかった。ザーザーと降り続く激しい雨音の中、背後の闇から静かな声が響く。
「中央騎士団も、まだ鈍ってはいないようだ」
街灯の下に、男は立っていた。つい先ほどまで前方を走っていたはずの男が、いつの間にかルークの背後へ回っていた。
ルークは即座に剣を抜き放ち、鋭い殺気を放つ。
「貴様、何者だ」
男は答えず、ただ少しだけ首を傾げた。
「無意味な質問だな」
男は微動だにしない。雨音だけが周囲を支配する中、男は静かに告げた。
「守れると思うか?」
その一言だけで十分だった。誰を指しているのか。ルークには痛いほど理解できた。
ルークが一気に地面を蹴り、剣を振るう。だが男は懐から取り出した黒い精霊鉱を強く握りしめた。
――どくん。
空間が歪み、剣先が空を切り、雨の飛沫が舞い散る。
そこには、もう誰もいない。
荒い息を吐きながら、ルークは立ち尽くした。石畳の上に、男が握っていたはずの黒い精霊鉱が転がっている。ルークはそれを拾い上げた。手袋越しにも伝わる刺すような冷気と、指先を走る嫌な痺れ。
ルークは周囲へ鋭い視線を巡らせる。しかし気配はない。雨だけが石畳を打ち続けていた。
その足元に、黒化精霊鉱が一つだけ転がっている。
思わず強く握り直す。石は、微かに、そして規則的に――脈打っていた。
「……証拠を残した? いや、違う。残されたのか……」
敵は最初から、これを置くつもりだったのだ。ルークは石を強く握りしめ、雨を見上げた。街を覆う夜の闇が、今まで以上に深く、重く感じられた。
翌朝、ラウノは重苦しい空気に包まれていた。昨夜の異常事態の余波は、すでに目に見えない恐怖となって街中へ広がっている。市場では、人々が声を潜めるように噂を交わしていた。
リンネは自店の窓から、どんよりとした通りを見つめ、小さくため息を吐く。
「……すごく嫌な空気。街の活気が死んじゃってる」
そう呟くと、膝の上のわんこ精霊が、心配そうに温かい頬へ身体を寄せてきた。微かな体温を感じて、リンネの張り詰めていた心が少しだけ解ける。
昨夜、ルークが飛び出して行った後にセレストが淡々と言い放ったのだ。
『安全のために、店の周囲に私の部下を置くわね』
『いや、普通に怖いんですけど!監視ですか!』
『安心なさい。あなたに不快感を与えない程度には、能力のある者たちよ』
外を見れば、路地にも、屋根の上にも、人混みの中にも。
姿は見えない。けれど、気配がある。セレストの言葉通り、研究院の隠密たちがこの店を見守っているのだろう。
――カラン、コロン。
店に入ってきたルークを見て、リンネは言葉を失った。整えられていた銀灰色の髪は乱れ、鋭い目の下には黒い隈が浮かんでいる。
「……ルークさん。まさか徹夜しました?」
「……少し、不審者の足取りを追っていたら、夜が明けてしまいまして」
「騎士の言う『少し』は、一般人の限界突破と同義ですよ!」
リンネの抗議も聞かず、ルークは重い足取りで布包みをテーブルに置いた。
「昨夜の男が落としていった黒化精霊鉱です。……これを貴方の前に置いた時、反応や共鳴が起きるか確かめたくて」
「検証のために危険物を持ち込まないでください!心臓が爆発しそうなんですけど!」
リンネが半泣きで抗議すると、ルークは静かに布の結び目を解いた。
中から現れたのは、昨日のものよりも一回り小さい、けれどより深淵な闇を宿した黒い石。見ているだけで頭の芯がジリジリと痛み、胸の奥が不快感でざわつく。
ルークが外套を脱ぎ、椅子に腰掛けようとした拍子に、その衣服の隙間から黒ずんだ血が滲んでいるのが見えた。
「――っ、怪我、してるじゃないですか!?」
「ああ、大したことはありません。かすり傷です」
「騎士の『かすり傷』ほど信用できないものはありません!」
リンネはパニックになりながら、強引にルークの外套を押し開いた。
肩口から覗いた皮膚に、禍々しい黒い痣が、まるで生き物の根のように広がっている。
黒い痣は、ゆっくりと肩から首筋へ向かって侵食を続けていた。
――どくん。
黒い痣が、鼓動した。
「……え?」
リンネの顔から血の気が引く。
それは傷ではなかった。黒い侵食は、今もなおルークの身体を蝕み続けていた。




