第19話 黒い脈動
セレストの背中が通りの向こうへ消えた、その直後。
――どくん。
――どくん。
それは屋内には存在してはならない、ひどく不快な低音だった。
作業部屋の奥底から、巨大な心臓が蠢くかのような脈動が床を伝う。空気が泥水のように重く粘り、肺が圧迫される。
扉の隙間からは、意思を持つかのようにどす黒い靄が這い出し、床を侵食していた。
「――リンネさん、下がってください」
ルークの声が鋭く響く。
「……あれって、あの精霊鉱だよね?」
「ええ。黒化精霊鉱です。放置すれば周囲の魔力循環そのものを壊し、土地や人間まで汚染する……。冗談抜きで、命に関わります」
リンネは眩暈を覚え、胸元を押さえた。冷たく粘つく何かが、頭の奥へと染み込んでくる。
そんな悍ましい感覚に支配されそうになった、その時だった。
「きゅぅん……」
わんこ精霊が、自身の身体から神秘的な青白い光を放ち、リンネに擦り寄ってきた。
光が触れた瞬間、頭を覆っていた黒い霧が綺麗に払い落とされる。ルークの瞳が、その光景を捉えて驚愕に細められた。
「……あの精霊鉱は、どうやって手に入れたんですか?」
「落ちてたんです。仕入れの森の、道のど真ん中に」
その言葉を聞き、ルークの表情が凍りついた。
彼は静かに顎を引き、冷徹な結論を口にした。
「……罠ですね。腕の良い術師を炙り出すための」
「偶然拾う者などいない。だが、優れた術師はあの純度には抗えない。……誰かが意図的に設置した可能性が高い」
「……最悪。私は便利な道具を作って、平和にスローライフを送りたかっただけなのに!」
「……その便利グッズが国家機密級だから、目をつけられたんですよ」
「そこ責める!?」
軽口を叩き合った瞬間、扉の隙間からどす黒い火花が激しく弾け飛んだ。
空気の重圧に押し潰されそうになった、その瞬間。わんこ精霊の身体が、息を呑むほど鮮烈な光を放つ。
――『まもる』
脳に直接響く幼い声。光が触れた瞬間、あれほど凶悪だった魔力が、目に見えて押し返されていく。
その温もり、懐かしさに触れた瞬間だった。
冷えていく、前世の愛犬の身体。
その温もりだけが、指先から静かに消えていった、あの喪失感がフラッシュバックする。
「――っ、は、ぁっ……!!」
「リンネさんっ!?」
ルークが支えてくれるが、視界がぐにゃりと歪む。
だが、彼が問い詰めるよりも早く――ドクンッッ!!!
黒い精霊鉱が、かつてない凶悪な脈動を打った。扉が勢いよく開け放たれる。
溢れ出す黒い津波。わんこ精霊が、一歩前に躍り出た。
今度こそ絶対に守り抜くという意思を示すように、光がリビングを塗り替える。
――『だめ』
その一言。
津波のように押し寄せていた黒い魔力が、まるで時間を止められたかのように空間に固定された。
静寂が戻った部屋で、わんこ精霊はふらりと頼りなく揺れ、落下した。
リンネは反射的に両手を伸ばし、その小さな身体を抱きとめる。
光の身体のはずなのに、そこには確かな、温もりがあった。
「無茶、しちゃって……。大丈夫?」
問いかけると、精霊の尻尾がぴこ、と弱々しく一度だけ振られた。
ぎゅう、と胸が締め付けられる。あの喪失感が、この小さな温もりによって少しずつ癒されていくようだ。
ルークは開け放たれた扉の奥を静かに見つめる。
脈動は止まっている。押し寄せた魔力は形を失っているが、消滅したわけではない。
ドロドロとした黒い石の奥底では、なお黒い魔力が静かに渦巻いていた。
――いずれ再び目覚める。
その確信だけが、ルークの胸に重く残った。
一方で。
リンネの腕の中では、力尽きたわんこ精霊が安心しきったように小さな寝息を立てていた。
黒い魔力に覆われた部屋で、その温もりだけが、確かに失われていなかった。
リンネは、その小さな温もりだけは決して離すまいと、強く抱きしめた。




