第15話 共鳴
夜明け前の街は、深い眠りの中にあった。
魔石灯だけが湿った石畳を仄青く照らし、荷馬車の軋む音だけが静寂を揺らす。辺境の街らしい、いつも通りの静かな朝――のはずだった。
「……ん、ふぁ……眠い……」
リンネは大きな欠伸を噛み殺しながら裏口を開けた。昨夜は考え事のせいでほとんど眠れていない。セレストの存在、街の異変、そして夜中に窓から侵入してくる騎士。
「……普通、二階の窓から入ってくる?」
ぶつぶつと愚痴りながら薬草を取り込む。その足元に、頼りない青白い光がぴたりと寄り添った。わんこ精霊だ。リンネが腰を屈めると、精霊は当然のように肩へと飛び乗る。その愛らしい温もりに、リンネの胸の奥がキュッと締め付けられた。
(……まただ)
思い出せそうで思い出せない。けれど、その温もりに触れるたび、胸の奥だけが泣きそうになる。
あの愛おしい温もりだけが、いつも先に蘇る。
懐かしくも切ない違和感を振り払うように、リンネは頭を振ってその感触を追い出した。
店内に戻ると、ベルが鳴った。まだ開店には早い。
勝手口から出たリンネは、そこに立つ人物を見て固まった。
「おはようございます、リンネさん」
朝日を背負ったルークだった。その特徴的な銀灰色の髪が薄明かりに輝いている。
「……何で、こんな朝早くから」
「たまたま、この近くの見回りに来たので」
「……絶対嘘」
またか、と溜め息を吐く。だが、不思議なことに彼の姿を見た途端、張り詰めていた肩の力がすっと抜けていく。この男は歩く厄介事の塊だ。分かっているのに、なぜか安心してしまう。
「……リンネさん? 顔色が悪いようですが」
ルークが眉を寄せ、想定外の距離まで顔を寄せてくる。
整いすぎた顔を直視し、リンネの心臓が不規則に跳ねた。慌てて後ずさる。
「寝不足ですっ!」
「……俺は何か失礼なことを言いましたか?」
大真面目に首を傾げるルークをよそに、わんこ精霊は楽しそうに二人の顔を交互に見上げながら、ぴこん、ぴこんと弾んでいた。
街外れの廃倉庫。黒帽子の男は、机の上の資料をなぞる。
「浄化の速度が早すぎる。我らが施した汚染呪詛だぞ?」
「……まさか、ただの小娘が」
「魔力制御の精度が異常だ。澱みが一切ない。これほどの適応力……。あれは精霊鉱の負荷に耐えうる、極上の器かもしれん」
男の唇が、歪に吊り上がった。
昼過ぎ、中央広場は騒然としていた。噴水の水がどす黒く変色している。漆黒の液体が、日の光を浴びて水面の奥でゆらゆらと蠢く。鼻を突くのは、魔石が限界を超えて焦げ付いたような刺激臭だ。
「気持ち悪い……離れた方がいいぞ」
「うぅ……頭が痛くなってきた」
周囲の住民たちが怯えて後ずさり、広場がパニックに包まれていく中、リンネの足元でわんこ精霊がグルル……と低く唸った。その眼差しは、怒りに震えている。
「リンネさん、近づかないでください」
ルークの警告よりも早く、精霊が噴水へと飛び出した。
噴水から黒い魔力が爆発的に膨れ上がり、水流を割って一つの塊が浮かび上がる。
水面から現れたのは精霊鉱だった。
だが、それはリンネの知るどの精霊鉱とも違っていた。
キィィィン――。
頭の奥で不快な耳鳴りが響く。本能が叫んでいた。あれは触れてはならない、悪いものだと。
「……共鳴してる……?」
わんこ精霊が放つ純粋な光と、精霊鉱の邪悪な魔力は、鏡合わせの存在が交わってはならないものを前にしたかのように、激しくぶつかり合っていた。
精霊の小さな身体が、リンネを守るように立ちはだかる。
すると、あのおぞましい精霊鉱が、びくりと怯えるように震えた。自分を圧倒する清浄な光を、明確に恐れている。
その時、脳裏に幼い声が響いた。
『――ちがう。こんなの、ちがう……』
次の瞬間、精霊鉱が限界を迎えたようにどろりとした魔力を噴出した。
ルークがリンネの腕を掴んで引き寄せた。
その強い衝撃と同時に、それまで頑なに閉ざされていた記憶の決壊が一気に崩れ、鮮烈な映像の奔流が脳裏へと流れ込んできた。
白い部屋。
降り続く雨音。
腕の中で冷たくなっていく、小さな命。
『――おいていかないで』
「っ……、あ……」
世界がぐにゃりと歪む。激しいめまいと、理由のわからない深い悲傷に襲われ、崩れ落ちそうになった彼女を、ルークが強い力で抱き留めた。
「リンネさん! しっかりしてください!」
「だ、大丈夫……っ」
腕の中で荒い息をつくリンネと、必死に寄り添う精霊。ルークはその光景を凝視した。
(この精霊は……普通の野生種ではない。そして、彼女もまた、この事態の深淵に触れているのか……)
「……一度、店に戻りましょう」
彼らが混乱を後にして歩き出す。その様子を、広場を見下ろす古い建物の屋根の上から、一人の男が見つめていた。
その視線の先で、小さな背中が雑踏の中へと消えていく。
黒帽子の男は満足げに目を細めた。
「――見つけたぞ、我らの器」
その視線の先には、迫る危機をまだ何も知らない、リンネの小さな背中があった。
歪な男の笑みだけを置き去りにして、その声は広場を吹き抜ける風に溶けて消えた。




