閑話①:止まっていた時間
西の地平線へと沈みゆく太陽が、世界のすべてを橙色に染め上げていく。店先に吊るした魔石灯へと、ぽつり、ぽつりと淡い暖色の火が灯り始める。
リンネは「営業中」の看板をひっくり返し、「準備中」の文字を表に向けると、凝り固まった肩を回しながら深く息を吐き出した。
「……はぁぁ、終わったぁ……」
今日はやけに気疲れする一日だった。
セレストが触れた浄水ポットを棚へ戻そうとして、リンネは途中で手を止めた。
何も変わっていない。魔石の位置も、付与回路も、自分が組み上げたまま。それなのに、さっきまで見慣れていたはずの魔導具が、急によそよそしく見えた。
「……怖いな」
思わず漏れた本音に、自分でも驚く。今まで、この魔導具を見た人はたくさんいた。
珍しい、便利だと言ってくれる人もいた。けれど、その奥にある仕組みまで踏み込もうとした人はいなかった。
けれども、あの女性だけは違った。まるで、リンネが何を考えながら組み上げたのかまで見透かしているようだった。
「……もう少し、普通に作るべきだったかな」
そう呟いたものの、すぐ苦笑する。作れば作るほど、どうしても効率を求めてしまう。手を抜いたつもりでも、気づけば普通とは少し違うものになっている。
「……昔から、こういうところだけは変わらないなぁ」
路地で見かける見慣れない旅人の姿、あちこちに配置が増えた騎士たち。この街を包む空気はどこか落ち着かず、今までの平穏な箱を、外側からコツコツと叩かれているような気がしてならない。
「……何で、あの人は当然みたいに窓から入ってくるのかなぁ」
ふと、ルークの姿が脳裏をよぎる。窓の外に彼が立っていると、不思議と肩の力が抜ける。その安心感が「当たり前」になり始めていることに、リンネ自身はまだ気づいていない。
もし彼が、もう二度とあの窓から現れなくなったら。そう想像するだけで、胸の奥がキュッと切ない音を立てて軋む。
(……ないない! 絶対ないから!)
顔を真っ赤にして首を振った時だった。視界の端で青白い光が弾け、肩の上へ何かが飛び乗ってきた。
半透明のわんこ精霊だ。「重いってば」と抱き上げると、精霊は嬉しそうに前足をぱたぱたさせ、くるりと一回転してリンネの頬にひんやりとした鼻先を押し付けた。
「そんなに甘えん坊だった?」
返事の代わりに、精霊はぷるぷると身体を震わせる。光の粒がぱらぱらと零れ、夕暮れの空気へ溶けていった。
最近では言葉などなくても伝わる。不安な時ほど、精霊はリンネの近くを離れようとしない。
「……もしかして、私より警戒してる?」
小さく尋ねると、精霊は通りの方を見つめたまま耳を伏せた。その様子を見ていると、胸の奥が少しだけ冷える。精霊が感じ取っている何かを、自分はまだ見えていないのだ。
そうして精霊を撫でていた時、不意に背後から声をかけられた。近所の食堂を営むお馴染みのオルガだった。
「若いんだから、もっと恋でもして瑞々しく生きなよ!」
「な、何で唐突にそういう話になるんですか!」
「あ……そういえば、オルガさんと旦那さんって、いつも息ぴったりで仲が良いですよね。最初から仲が良かったんですか?」
リンネは、話題をそらすためオルガに話を振った。オルガは豪快に笑う。
「まっさか! 最初は顔を合わせるたび口喧嘩さ。でもね、あたしが風邪で倒れたら、あの無愛想な旦那が黙って鍋いっぱいのスープ作って持ってきたの」
「……旦那さんが?」
「次の日、礼を言ったら『病人を放っとくと寝覚めが悪い』だってさ」
「ふふっ」
思わず笑ってしまう。オルガは照れくさそうに笑い、豪快に言い放った。
「本当に優しい奴ってさ、自分が優しいことに気付いてないんだよ。だから厄介なんだ。こっちは気付くまで時間がかかるからね」
「……そうかもしれませんね」
その言葉に、リンネの脳裏へ浮かんだのは夜の窓を叩く音だった。
『申し訳ありません。少々、急ぎの用だったもので』
あの真面目そうな声まで思い出してしまい、リンネは黙り込む。
ふと窓の外を見る。オルガの食堂の笑い声、家路につく子どもたち、明日を待つ魔導具たち。この街には、守りたいものがこんなにも増えていた。
「……少しくらい、ね」
前世のしがらみも、年齢の言い訳も全部置いて。
その言葉を聞いた瞬間、肩の上の精霊がくるりと一回転し、夕暮れの空に光の粒を舞い散らせる。
店先の魔石灯が風に揺れ、淡い影を床に落とす。リンネは小さく笑った。
翌朝も、きっと彼女は魔導具を作る。
オルガの店からは、いつものように朝の仕込みの音が聞こえる。
子どもたちは工房の前を走り回り、騎士はまた勝手に窓から現れるかもしれない。
そんな何気ない明日を、リンネは初めて待ち遠しいと思った。
凍てついていた胸の奥が、じんわりと温かいお湯に浸されたように解けていく。止まっていた時間は、昨日までの彼女とは違う速さで、確かに動き始めていた。




