第13話 静かな侵食
「……静か」
店の扉を開けたリンネは、思わず足を止めた。
いつもなら市場へ急ぐ荷馬車の音が響く時間なのに、今日は妙に遠い。
市場へ向かう人々の足取りもどこか重く、交わされる声は必要以上に小さい。
市場へと向かう荷馬車は普段よりずっと少なく、八百屋の店先には野菜を洗う水桶が空のまま放置されている。パン屋から漂うはずの焼き立ての香りよりも、不安げな囁き声の方がよく耳に届いた。子どもたちの笑い声も消え、街全体が、何かを待つように息を潜めている。
「おい、聞いたか? 中央広場の井戸の水が変なんだってよ!」
「今朝一番にあの水を飲んだ奴が、急にぶっ倒れたらしいぞ!」
耳に飛び込んでくる不穏な会話。山に囲まれたラウノにとって、水は生活そのものだ。主要な井戸が機能不全に陥る事態に、街中がじわじわとした不安に侵食され始めている。
「……やだなぁ、本当に」
足元のわんこ精霊は、天敵を前にしたかのようにリンネの前へ出て、小さく唸るようにその光を震わせている。
「守ってくれてるの?」
問いかけると、精霊はこくりと頷くように揺れた。こんな不穏な状況でも、この子が傍らにいてくれるだけで、不思議と心が落ち着く。
店に「本日閉店」の札を掲げ、工具袋を背負い直す。リンネは広場へと足を踏み入れた。
そこはどす黒く澱んだ空気に支配されていた。オルガが不安げな顔で駆け寄ってくる。
「リンネちゃん! 井戸を見ておくれよ! どうなんだい、この水……もう使えないのかい?」
リンネは石造りの縁へ手を置き、目を閉じた。水そのものではなく、魔力の流れを読む。
(お願いだから、ただの故障であってよ……)
ゆっくりと指先へ魔力を集め、水面へ触れた瞬間、黒い筋が細くほどけるように浮かび上がった。壁際だけに薄く絡みつき、流れに逆らうように漂っている。
(……誰かが後から入れた。明確な悪意だ)
浄化用魔導具を配置し、結界を展開する。四隅から淡い光が放たれ、一つの結界を形作っていく。だが、黒い靄が一瞬だけ結界へ食らいついた。光が激しく揺らぐ。
「……っ!」
リンネは咄嗟に魔力を微調整する。その瞬間、均衡が反転した。
黒い靄は抵抗するように揺れたが、最後には細かな粒子となって霧散した。張り詰めていた空気が和らぎ、鼻を突いていた異臭もいつしか消えていた。
路地裏では、二人の男が壁にもたれかかり、一度も目を離さずに見つめている。
「予想以上ですね」
「ああ」
「予想どおり、人を見捨てられない」
男は広場を眺めたまま、口元だけを歪めて笑う。
「もう少しだけ、揺さぶる。優秀な付与術師ほど、苦しむ人々を放置できないものさ」
夕方。すべての作業を終え、リンネの力がふっと抜けた。
気づけば今日一日、誰かに見られているような感覚が消えなかった。一人で抱えるには、この街で起きていることは大きすぎる。
「こんばんは、リンネさん。お困りのようですね」
聞き慣れた穏やかな声。夕暮れの街並みに、一際映える銀灰色の騎士服。振り返る前から誰なのか分かる。
彼がそこにいるだけで、根拠のない安心感が胸に広がる。ずっと張り詰めていた心が、勝手にほどけていく。
(……なんで、こんなに安心してるの、私)
「別に! 何でもありません!」
赤らむ顔を隠して片付けを再開する。足元のわんこ精霊が、そんな彼女の内心をすべて見透かしたようにぴこんと跳ねた。
広場を後にし、リンネは少しだけ強くなった足取りで家路へとついた。
浄化されたはずの井戸の底で、ごく小さな黒い泡が一つだけ浮かび、静かに弾けた。
その波紋は、誰にも気づかれることなく、闇へ溶けていく。
遠く離れたどこかで、その様子を見届けた者が、小さく口元を緩めた。
リンネの足元では、わんこ精霊だけが、誰もいないはずの暗闇をじっと見つめ続けていた。




