第12話 白金の観測者
朝の掃除を終えたリンネは、店の扉を開け放った。外では石畳が既に夏の熱を吸い込み、湿った風が路地を吹き抜けていく。
いつもの喧騒。しかし、今日はそのノイズがどこか違う。見慣れぬ上質な服の旅人、武装した男たち、そして路地裏から投げかけられる鋭い視線。
「……やだなぁ、本当に」
リンネは吊るした薬草束を整えながら、ぼそりと呟いた。窓辺には試作中の小型送風機がカタカタと頼りない音を立てており、棚には旅人用の簡易コンロや、浄水ポットが並んでいる。どこからどう見ても、田舎のしがない魔導具店だ。
「んー……ちょっと、身動きが取れないんだけど」
足元へ視線を落とすと、青白い光を放つわんこ精霊が、ぴったりと彼女の足首に張り付いていた。
最近、この高位の精霊は明らかにリンネとの距離感を詰めすぎている。
精霊はリンネが相手をしてくれたのが嬉しかったのか、くるくると回ると、彼女の肩へと飛び乗ろうとして――ぽふっ。勢いが足りなかったのか、精霊はリンネの胸元へと不器用にしがみつく形で落ちてきた。
反射的に受け止める。腕の中に残るのは、仕立ての良い毛布のように柔らかく、温かな感触だった。その姿を見つめていると、リンネの胸の奥が、小さな針で刺されたようにチクリと痛んだ。
(前世でも、あったなぁ、こういうの)
名前も鳴き声も思い出せないけれど、あの温もりと愛おしい感情だけは、今も色褪せることなく鮮明に残っていた。
その感傷的な沈黙を破るように、食堂を営む女性、オルガが店に駆け込んできた。
「リンネちゃーん!! 大変なんだ、うちの氷室の冷えが、昨日からどんどん弱くなっててさ!」
リンネはすぐに店を閉める決断をした。これ以上ここで話し込んで、通りを行き交う「不審な旅人」たちの目を引くのも避けたかった。
「分かりました、今すぐ見に行きます」
そのやり取りを、通りの向こう、人混みの隙間から二人の男がじっと見つめていた。
「……おい。あれか?」
「まだ断定はできません。ただの田舎の小娘にしか見えんが……油断は禁物です」
男たちは静かに雑踏の中へと歩き去っていった。
厨房の裏手にある、ひんやりとした薄暗い氷室。リンネは工具鞄を広げ、冷却魔導具の裏蓋を外した。
「まずは魔力切れか……いや、魔石の輝きは残ってる。じゃあ魔力循環回路の導通不良?」
細い指で回路を辿る。精密に描かれた金銀の刻印。だが、指先が触れた瞬間、嫌な違和感が走った。
回路の中に、黒い泥のようなものがこびりついている。魔力の流れを物理的に阻害する、得体の知れない「塊」。
「リンネちゃん、どうだい? 氷が溶けちまうよ!」
「オルガさん、ちょっと静かに。……これ、ただの故障じゃない。何かが回路を外側から侵食してる」
リンネは自身の魔力を、極めて細く、慎重に回路へと流し込んだ。
彼女の純粋な魔力が触れた瞬間、回路の濁った部分は禍々しい黒ずみとなって表面に浮かび上がった。
かつて騎士が冒されていた、あのおぞましい魔力汚染と酷似している。
(どうして……こんな街の食堂の魔導具に、こんな汚染が混じり込んでるの……!?)
未知の恐怖に思考が止まりかけたその時、肩からわんこ精霊が勢いよく飛び出した。青白い光の塊は、迷うことなく黒ずんだ魔力回路へと突っ込んでいく。
じゅわ、と、何かが蒸発する音が響く。回路を蝕んでいた黒い澱みが消滅し、厨房の空気が一気に澄み渡った。
「あ、あら……? 今、なんか、もの凄く光らなかったかい……?」
「気のせいです!!」
リンネは音速で振り返り、叫んだ。
「たぶん! ただの、あの、魔石が急に活性化したときの、よくある放電現象だと思います! たぶん!」
「たぶん!? お前さん、専門家だろうが!」
「もういいよ、冷えてるなら万事解決だ! さすがリンネちゃん、頼りになるねぇ!」
大雑把な性格のオルガに安堵しながら、リンネは力なく寄り添ってくるわんこ精霊を優しく抱きしめた。
「……大丈夫?無理しちゃだめだよ。ありがとね」
その時、精霊から弾けた光がリンネの視界を染め、脳裏に圧倒的な密度の映像が流れ込んでくる。
『ごめんね……ごめんね……っ』
涙で視界が歪む中、何かを必死に抱き締めている自分自身の姿。激しい眩暈と頭痛がリンネを襲う。最近、前世の記憶が向こうから自分に近づいてきている――。
ラウノから遥か遠く離れた、国の中心――王都。
国の最高峰の知性が集う魔導研究院の最深部で、一人の女性が静かに報告書へ目を落としていた。
陽光を溶かし込んだような白金の長髪は、絹糸のようになめらかに背へ流れ、整った横顔には人形めいた静謐さが宿る。澄み切った薄青の瞳は感情よりも理知を映し、紺のローブを纏うその姿は、一枚の絵画を思わせる美しさだった。
彼女の名はセレスト。王都魔導研究院でも、その名を知らぬ者はいない天才魔導研究者である。
『辺境の街ラウノにて、未知の汚染と規格外の付与痕を確認』
文字を追うたびに、その瞳に静かな知性が宿る。通常、高純度の精霊鉱は人の手で扱えるものではない。だが、それを手なずけ、道具へと落とし込める術師が辺境に潜んでいるのだとしたら――。
「これほどの技術を持つ術師を、辺境に放置しておくわけにはいきませんね」
セレストは報告書を丁寧に閉じた。その微笑みは穏やかで、初めて会う者なら誰もが安心感を覚えるだろう。しかし、その慈愛に満ちた眼差しの奥には、人とは少しだけ異なる価値観が、静かに息づいていた。
「危険な者たちの手に渡る前に、保護する必要があります」
その声音には、疑いも迷いもなかった。
希少な魔導書を保管庫へ収めるように。壊れやすい研究資料を慎重に扱うように。彼女にとってそれは、人を救うという善意から導き出された、ごく自然な結論だった。




