第11話 王都からの手紙
朝のラウノは、焼きたてのパンの匂いで始まる。石畳を荷馬車がゴトゴトと進み、市場では店主たちの威勢のいい声が飛び交う。王都から遠く離れた辺境の街らしい、少し雑多で穏やかな朝だった。
リンネは工房の扉を開け、まずは店先の看板を裏返す。
「今日も暑くなりそう」
窓を開け放ち、軒先に置いた鉢植えに水をやる。湿った土の香りが漂い、工房に新鮮な空気が流れ込む。箒を手に取ると、足元の青白い光が嬉しそうに柄へまとわりついてくる。
「だめ。あとでね」
精霊は不満そうに明滅したあと、今度は掃き集めた木屑の山へと飛び込んだ。
「……増やさないで!」
一通りの掃除を終え、昨日組み上げた冷風送風機の点検に取り掛かる。魔石の輝きを確認し、魔力回路に魔力を流す。ぶぅん……と羽根が回転し、ひんやりとした風が工房を抜けた。
「やった……ちゃんと動いてる?」
呟きながら羽根の回転角を調整する。工房の空気は、金属油と、少し焦げた魔導具の残り香。この小さな場所が、世界で一番落ち着く空間だった。
「リンネちゃん、開いてる?」
パン屋のおばさんがひょいと顔を覗かせる。「昨日の送風機、すごかったよ。厨房が天国だった!」
「ちゃんと動いてますよね?」
「むしろ旦那が離してくれないよ。一日中、風に当たってサボりたがってて」
「……仕事してくださいって、旦那さんに伝えてください」
二人が笑う間、精霊がパン袋へ突撃する。
「だめ」
ぴこん、と精霊が鳴く。どうやらパンの匂いに釣られたらしい。
店先を掃き終えると、郵便受けに一通の封書。
「今日は注文書かな」
期待を込めて引き抜いたそれは、赤い封蝋が押された中央騎士団のものだった。朝日を受けて鈍く光るその印に、リンネの眉間に深い皺が寄る。
「……なんで?嫌な予感しかしない」
ぽつりと漏らすと、精霊がぴこんと跳ねる。
「……違う。その顔は『遊ぼう』だ。今はだめ」
リンネがしゃがみ込むと、精霊はふわりと浮かび上がり、腕にすり寄ってきた。
前世で飼っていたあの子も、よくこうして全力で飛びついてきたものだ。
「……ずるいなぁ」
感傷を振り払うように封を切る。
『近日中に再びラウノへ向かいます。
公式な任務ではなく、個人的な訪問です。
あと例の件、少し厄介になっています。
詳しくは会ってから。
ルーク』
「雑すぎでしょっ!!」
鋭いツッコミが朝の通りに響く。通行人が振り返り、リンネは慌てて口を押さえた。ルークの言う「例の件」が何を指すのかは明白だ。背筋に冷たいものが走る。
王都、中央騎士団本部副団長執務室。
ルークは小さく呼吸を整え、ゆっくりと執務室の扉を開けた。
ガルディアは鋭い瞳を光らせ、ペンを走らせている。
「……それで? 報告はそれだけか」
「はい。辺境ラウノの魔力異常については、依然として原因を特定できず。追加調査を継続中と報告しております」
「……ルーク。お前は昔から、俺に対して隠し事をするのが致命的に下手だな」
「心外です」
ガルディアがペンを置く。
「報告書は完璧だ。……だから嘘だけが目立つ」
ルークは答えなかった。一拍、二拍。部屋に静寂が流れる。
「ご期待に添えず申し訳ありません」
ようやく返った声は、いつも通り冷静だった。だが、喉の奥がわずかに強張る。
「本題だ」
ガルディアの声から色が消える。
「裏社会が精霊鉱を血眼で探している。ラウノ周辺にも不審な連中が流れ込んでいるらしい」
ルークの表情が、一瞬凍り付いた。
それをガルディアが見逃すはずがない。
しかし、ルークは何も言わず直立不動でガルディアの言葉を待つ。
「……まあいい。お前が口を割らんのには理由があるのだろう。今すぐラウノへ行け。個人的な調査という名目でな」
「……承知いたしました」
ルークは、これ以上ないほど綺麗な敬礼を捧げ、迅速に執務室を後にした。
扉が閉まる音だけが広々とした部屋に響く。ガルディアは閉じた扉をしばらく見つめ、フッと笑った。
「……珍しいな。情に流される男じゃなかったはずだが」
ルークの手紙以来、ラウノの空気は変わり始めていた。
市場へ向かうと、顔見知りの八百屋が険しい顔で品を並べている。
「リンネ姉ちゃん、おはよう!」
子供が駆け寄ってくるが、すぐに母親に引き戻される。
「リンネ、今日は買い出しはやめときな。最近、妙な男たちがうろついてるから」
鍛冶屋の忠告を聞きながら、リンネは市場を歩く。パン屋、八百屋、鍛冶屋、魚屋。活気ある日常の裏側で、誰もが「最近、見ない顔が増えた」と声を潜めていた。
その時だった。
足元の精霊がピタッと動きを止める。リンネも足を止めた。
嫌な寒気が背筋を走る。
露店の陰。黒い帽子の男。
魔石屋、鍛冶屋、そしてリンネをなぞる鋭い視線。
視線が交差した瞬間、男は音もなく人混みへと紛れ、消えた。
「……帰ろう」
リンネは小さく呟き、精霊を抱えたまま早足で歩き出す。
市場は、いつも通り賑わっていた。
店へ帰り、扉を閉める。
カラン。
いつもなら、それだけで外の喧騒は遠くなり、この小さな店だけが世界のすべてになる。
けれど今日は違った。
リンネは無意識に、扉の鍵へもう一度手を伸ばす。
カチャリ。
鍵が掛かっていることを確かめても、胸のざわめきは消えなかった。
足元では、わんこ精霊が入口を見つめたまま、小さく光を揺らしている。
いつもなら安心するその場所が、今日は少しだけ頼りなく感じられた。




