第10話 変わらない
「平和だ……」
騎士団が去って数日。リンネは店先で大きく伸びをした。
市場通りにはいつもの喧騒が戻っている。パン屋の怒鳴り声。魚屋の競り合う声。路地裏を駆け抜ける子どもたちの笑い声。
リンネは目を細め、その光景を眺めた。
「……これくらいがちょうどいいの。もう国家レベルの厄介事とか、心臓に悪いイベントは勘弁してほしい!」
その時、足元で、ぽふ、と柔らかな感触がする。
視線を落とすと、青白い光が嬉しそうに靴へ体を擦りつけていた。最近では昼間もこうして当然のように姿を現す。
「おはよう」
しゃがみ込むと、光は待ってましたとばかりにぴこんと跳ねた。
シルエットは以前よりくっきりとし、ふりふりと動く尻尾や丸い耳は、記憶の底にある「特別な存在」と重なる。そっと指先を伸ばすと、光は自ら擦り寄ってきた。
「……あったかいなぁ」
名前は思い出せない。どんな声で鳴いていたかも曖昧だ。
それでも、この温もりだけは忘れていなかった。
カランと店の扉が鳴る。
「おはよう、リンネちゃん! 今日もいい天気だねぇ!」
近所の食堂を営むオルガだった。
「こないだ作ってもらった冷風機のおかげで、うちの店は大繁盛だよ!」
「それはよかったです」
「実は追加でもう一台欲しくなっちまって! 頼めるかい?」
「うーん……じゃあ、あからさまに怪しまれないように、少し出力を落とした仕様でもいいなら……」
「十分だよ! 助かるわ!」
ガハハと笑うオルガを見送り、自然と口元に笑みがこぼれる。
ふとオルガが足元を見た。
「ん? なんだい、いま足元がキラキラ光ったような……」
リンネは慌てて視線を落とす。すでに光は気配を消し去っていた。
「あはは……朝の光の加減じゃないですか?」
扉が閉まった瞬間、リンネは胸をなでおろす。小声で足元に注意を促すと、耳元で小さく「くぅん」と甘い鳴き声がした。
昼過ぎ、一通の封書が届いた。差出人は書かれていないが、丁寧な封蝋を見ればすぐに分かる。
中には短い手紙が一枚。
『任務で王都を離れます。視察はその後になりそうです。
例の精霊の件は、約束通り報告書には記載していません。ご安心を。
ただ、王宮の堅物たちの間で最近妙な動きがあるのが気にかかります。念のため気を付けてください。
追伸:あの冷風機は危険です』
「……だから何が危険なんですか」
苦笑しつつも、唇が楽しげに弧を描く。ルークらしい、お節介で生真面目な手紙だ。
その時、光が手紙の上に乗っかった。ルークの文字を見つめ、犬が唸るようにゆらゆらと震えだす。
「ふふ、まだ警戒してるの?」
「そうだよ!」と言いたげに震える光を、指先で軽くつついた。
夕方、店を閉めて自宅へ戻る。
お気に入りの椅子へ腰を下ろすと、膝の上に光がふわりと飛び乗ってきた。
ぽかぽかと温かい。その小さな重みが、不思議なくらい心地よかった。
膝の上で、光が満足そうにくるんと丸くなる。
リンネは小さく微笑んだ。
「……おやすみ、相棒」
光は嬉しそうに、淡く優しく明滅した。
窓の外では、いつものラウノの夜が静かに更けていく。




