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【完結】断罪された悪役令嬢は存在ごと消されました ~見えません、聞こえません、でも殿下の毒杯くらいは弾けます~  作者: Lihito


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8話:従者の嘘と転校生

朝。


殿下の部屋で、いつもの報告が始まった。


カイが扉を開けて入ってくる。昨日と同じ従者服。きっちり詰めた襟。いつも通りの顔。


——あの制服の内ポケットに、蝋の型が入っている。


心臓がうるさい。私は壁際に立っていた。いつもの位置。見えない手を握りしめている。


「殿下。本日の予定ですが、午前に学生課への報告書の提出、午後は——」


カイが机の前に歩み寄った。殿下の日程表を取り出そうと、上着の前を少し開けて——


落ちない。


内ポケットの位置が深い。昨晩、浅く入れたつもりだったけど、カイが制服を着る時にずれたのかもしれない。


——え。嘘。落ちないの。


深夜に頑張って仕込んだのに。ポケットの深さ計算したのに。こういう時に限って服のサイズ感が違う。異世界の仕立て屋さん、内ポケット深くしすぎでは?


カイが日程表を広げている。殿下が目を通している。普通の朝。普通の報告。蝋の型はカイの懐に収まったまま、何事もなく時間が過ぎていく。


焦る。焦ってもどうしようもない。カイの身体に触って落とす?——カイに触れたら気づかれる。透明人間がいることがバレるかもしれない。


「——それと、殿下」


カイが一歩近づいた。机の上に書類を置こうとして、身体を傾ける。


今。


手を伸ばした。カイの上着の裾。指先でそっと、内ポケットの底を押し上げた。


蝋の型が、ポケットの縁を滑って——


こつん。


小さな音。蝋の塊が床の石畳に当たって、転がった。


カイの足元で止まった。


殿下のペンが止まった。


二人の視線が、床の上の蝋に落ちた。


親指ほどの大きさの蝋の塊。表面に彫り込まれた紋様が、窓からの朝日を受けて影を落としている。


「……カイ。落としたぞ」


殿下が腰を浮かせかけた。拾おうとして——手が止まった。


紋様を見ている。


「これは——管理印か?」


カイが動かない。床の蝋を見下ろしている。


殿下が机の引き出しから、カイが持ってきた帳簿を取り出した。表紙の管理印と、床の蝋の型を見比べる。


「同じ紋様だ」


静かな声だった。怒りではない。確認。


「カイ。これはお前の懐から落ちた。なぜ薬品庫の管理印の型を持っている」


沈黙が落ちた。


窓の外で鳥が鳴いている。朝の光が床を這っている。穏やかな朝だ。穏やかなはずの朝。


カイが、息を吐いた。


小さく、静かに。それから——顔を上げた。


笑っていた。


いつもの控えめな微笑みじゃない。もっと薄くて、もっと深い。何かを確かめ終えた人の顔。


「……お見事です、殿下」


声のトーンが変わっていた。敬語は同じ。でも距離が違う。今まで「従者」として詰めていた距離が、すっと開いた。


「あの帳簿は、私が作りました」


殿下の表情が消えた。


「薬品庫の書式を真似て、数字を変えて、管理印を複製して押しました。殿下にお渡しした帳簿は、全て偽物です」


「……なぜだ」


「殿下がどう動くか、見たかった」


殿下の手が、机の上で拳になった。


「あの帳簿で私がクラウスを糾弾すれば——」


「クラウスは身の潔白を証明し、殿下の評判は地に落ちます。偽の証拠で生徒を陥れようとした王子、と」


カイの声は淡々としていた。報告書を読み上げるような口調。


「ですが殿下は、嘘の帳簿だけでは動かなかった。別の証拠を見つけて、本物の不正を暴いた。——想定以上でした」


「想定以上?」


「はい。殿下は優秀です。私が思っていた以上に」


褒めている。従者の顔で、主を褒めている。でもその言葉の裏には「だから厄介だ」が透けている。


殿下がしばらく黙っていた。蝋の型と帳簿を交互に見ている。何かを辿るように。毒の夜。短剣の男。偽手紙。——全部、カイが近くにいた。


殿下が立ち上がった。


「カイ。毒の夜も、お前か」


カイが一瞬だけ目を伏せた。それから、頷いた。


「杯に毒を仕込んだのは?」


「給仕に指示しました」


「決闘の後、短剣を持った男は」


「カスティーリャの従者に頼みました。報酬を払って」


「偽手紙は」


「マリエル嬢に筆跡の参考資料を渡したのは私です。あの令嬢が勝手に動いてくれたので、手間は省けましたが」


一つ一つ、殿下が問い、カイが答えていく。


声は静かだった。殿下の声も。カイの声も。怒鳴り合いではない。事実を確認する手続き。でも、一言ごとに部屋の温度が下がっていくのがわかった。


——全部。全部カイだった。


知ってた。昨日の夜に気づいた。でも、本人の口から聞くと、お腹の底が冷たくなる。


殿下がカイを見ていた。見つめていた。長い間。


「……なぜだ。理由を聞かせろ」


「それはお答えできません」


「できない?」


「雇い主がおりますので」


殿下の拳がきつくなった。


「誰に雇われている」


「それもお答えできません。——ですが、殿下。一つだけ」


カイが一歩下がった。扉に向かって。


「殿下には不思議な運がおありだ。毒杯が弾け飛び、短剣が足元で転び、偽の帳簿の裏から本物が出てくる。——私にはそれが何なのかわかりません。でも、面白い」


「面白い?」


「ええ。とても」


カイが扉に手をかけた。


「お仕えする振りは、嫌いではありませんでした。殿下は良い主でしたよ。本当に」


「……待て」


「お暇をいただきます。——ではまた、いずれどこかで」


扉が開いて、閉まった。足音が廊下を遠ざかっていく。


殿下が扉を見つめていた。動かなかった。


「……カイ」


名前を呼んだ。もう聞こえない距離。


殿下の手が、机の上に落ちた。拳ではなく、力の抜けた手のひら。


「最初から、か」


独り言。誰にも聞こえないはずの声。


——聞こえてるよ。


喉の奥がきゅっと詰まった。ちょっとだけ。ちょっとだけね。


……嘘。けっこう詰まった。殿下のあの声はずるい。


でもダメだ。ここで泣いたら音が出るかもしれない。意図しない音は出る。泣き声はたぶんアウト。今バレるわけにはいかない。


鼻をすんってやるのを全力で我慢した。


——大丈夫。私がいるから。見えないけど。


殿下がしばらく動かなかった。窓からの光が机の上をゆっくり移動していく。


やがて、椅子を引いた。背筋を伸ばした。顔を上げた。


「……やることは変わらない」


静かに、自分に言い聞かせるように。


その横顔が、入学式の後に「このままではいられない」と決めた夜と重なった。


何度でも立ち上がる人だ。この人は。


——推しが推しでよかった。





その日の午後。


殿下は学生課にカイの離職届を提出していた。理由は「従者の辞意による」とだけ。毒殺未遂や帳簿偽造のことは書かれていなかった。


——書かないんだ。


甘い。甘いけど——それを責める気にはなれない。


学生課を出て回廊を歩いていると、前方で小さな騒ぎが見えた。


下級生の女の子が、教材の束を廊下にぶちまけている。紙が散らばって、本が転がって。たぶん躓いた。周りの生徒が数人通り過ぎていくけど、誰も拾わない。


——こういう時に殿下が手を貸すんだよな、と思ったら。


知らない男が、しゃがんでいた。


見覚えがない。制服が新しい。転入生。背は高くない。痩せていて、髪が短くて、顔つきが鋭い。


教材を拾って、無言で女の子に突き出した。


「……あ、ありがとうございます」


「別に。散らかってたら邪魔だから」


素っ気ない。愛想のかけらもない。でも全部拾ってる。一冊残らず。


女の子がぺこぺこ頭を下げて去っていく。転入生は立ち上がって、制服の埃を払った。


その目が——殿下を捉えた。


回廊の向こう側。学生課から出てきた殿下。


転入生の表情が変わった。さっき教材を拾っていた時の無関心な顔が消えて、目が据わった。


「……あんたが、第三王子か」


殿下が足を止めた。


「そうだが——」


転入生が一歩、踏み出した。殿下との間の距離が詰まる。周囲の生徒がざわめく。


「ヴェルナー・クラウスの件。——聞きたいことがある」


声は低かった。怒鳴ってはいない。でも、一語一語に重さがあった。


殿下が転入生を見ている。転入生が殿下を見ている。


回廊の空気が、ぴりっと張った。





——カイ視点——



学園の門を出た。


振り返らなかった。石造りの門柱が背後で遠ざかっていく。街道に出ると風が変わる。学園の中に籠もっていた花と石灰の匂いが消えて、土と草の匂いに入れ替わる。


懐に手を入れた。——空。


蝋の型がない。


部屋の衣装棚の奥にしまっておいた。布で包んで。誰にも見つからない場所に。


それが今朝、自分の懐から転がり落ちた。


自分で入れた覚えはない。入れるはずがない。証拠を身につけて殿下の前に出るほど愚かではない。


誰かが——何かが、衣装棚から蝋の型を取り出して、制服の内ポケットに入れた。


殿下ではない。殿下は夜間に従者の部屋に忍び込むような人ではないし、忍び込む理由もない。


では、誰が。


足を止めた。街道の脇に低い石垣がある。腰を下ろした。


記憶を辿る。


毒杯が弾け飛んだ夜。周囲に誰もいなかった。短剣の男が転んだ練武場。足元に何もなかった。偽手紙の封筒に練習紙が紛れ込んだ件。令嬢の自滅に見えたが、あの封筒を触れる人間は限られていた。


偽帳簿を渡したら、なぜか本物の帳簿が出てきた。薬品庫の在庫リストが殿下の机に置かれていた。


そして——衣装棚の奥の蝋の型が、自分の懐に移動していた。


全てに共通するのは、「誰もいないはずの場所で、物が動いた」ということ。


目に見えない力。物理的に物に触れることができる。人間の行動を把握し、適切なタイミングで介入する知性がある。


加護。——単なる幸運でも、神の気まぐれでもない。知性を持った、見えない存在。


荷物の中から一冊の本を取り出した。学園の古書庫から借りたまま返していない——いや、持ち出した本。革表紙が擦り切れている。背表紙の文字は半分消えかけている。


『建国期奇譚集』。


しばらく前に目を通した時は、おとぎ話の類だと思っていた。建国王ルヴァイスの伝説。数多くの逸話の中に、一つだけ異質な章がある。


ページをめくった。


「消えた聖女」の章。


建国王がまだ一介の辺境騎士だった頃、数々の窮地を不思議な力に救われたという伝承。毒を盛られた杯が倒れ、背後からの刃が逸れ、戦場で道を見失った夜に正しい方角の灯りが燈った。


王はそれを女神の加護と呼んだが、側近たちの記録には別の見方が残っている。——加護には意志があった。人の振る舞いを見ていた。必要な時にだけ、必要な分だけ動いた。


聖女。名を残さなかった女。姿を見た者はいない。声を聞いた者もいない。ただ、王の傍に「何か」がいた——と、複数の側近が書き残している。


王が王位についた後、加護は消えた。王が窮地を脱する必要がなくなったからか——あるいは、聖女がその役目を終えたからか。


結末は記されていない。聖女が何者だったのか、どこへ去ったのか。建国王自身の記録には「彼女は還った」とだけ書かれている。還った先が何を意味するのかは、わからない。


本を閉じた。


殿下の周りで起きていることは、この伝承に似すぎている。


毒杯。背後からの刃。見えない知性。物に触れられるが、姿は見えない。


——まさか、とは思う。おとぎ話だ。建国期の伝承など、千年以上前の話だ。


だが蝋の型は動いた。自分の衣装棚から、自分の懐へ。殿下に見せるために。


おとぎ話にしては、出来すぎている。


立ち上がった。荷物をまとめ直す。街道の先を見た。


あの方に報告しなければならない。あの方はこの手のおとぎ話を好まない。証拠なき伝承には興味を示さない人だ。だが——


第三王子の傍に、見えない何かがいる。その何かには知性がある。自分の仕掛けた罠を看破し、逆に利用してみせるだけの判断力がある。


これが事実なら、報告しないわけにはいかない。


ただ——一つ、気になることがある。


もう一度本を開いた。最後の一節。


「消えた聖女」の物語の結末。建国王の記録に残された「彼女は還った」の一文。その前にもう一行だけ、かすれた文字がある。


王が——聖女を。


文字が潰れていて読めない。千年の時が消した言葉。


何をしたのだろう。王が聖女に何をして、聖女は「還った」のだろう。


……考えても仕方がない。


本を荷物に戻した。街道を歩き出す。


風が髪を撫でた。学園の方角から、鐘の音が聞こえた。昼の祈りの鐘。あの礼拝堂から、毎日決まった時間に鳴る鐘。


殿下はきっと今頃、一人で礼拝堂にいる。膝をつき、手を組み、女神に祈っている。——従者のいなくなった王子が。


少しだけ、足が遅くなった。


それから、歩調を戻した。


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