7話:一件落着の裏側
殿下が教官に報告したのは、その日の昼だった。
薬品庫の管理を統括しているのは薬学科主任のベーレン教官。白髪交じりの痩せた男で、いつも白衣の袖にインクの染みがついている。殿下が帳簿を二冊並べて見せた時、この教官の顔色がみるみる変わった。
「……こちらの古い帳簿は、私が就任する前の書式です。前任の管理者が使っていたものですね」
ページを繰る指が震えている。
「在庫リストとこちらの帳簿の数字は一致します。つまり——正規の台帳の方が」
「書き直されています」
殿下が静かに言い切った。
教官が台帳を食い入るように見つめた。指先でインクの上をそっとなぞる。
「……紙は正規のものです。ですが綴じ方が違う。本来の台帳は背を糸で留めますが、これは糊です。新しく仕立てた帳簿を、古い表紙で包み直している」
——プロの目ってすごい。私じゃ絶対気づかない。
「殿下。これが事実であれば、管理補佐の職権による横領です。学園の規律に照らし、審問が必要です」
「お願いします」
「ただし——一つ確認させてください。殿下はこの帳簿をどのようにして」
「薬品庫の机の上に出ていました。在庫リストは、私の机に置かれていたものです」
教官の眉がわずかに上がった。殿下も、それ以上は説明しなかった。
——殿下、もしかして。「何か」に助けられてることに、薄々気づいてたりする?
考えると胸がざわつく。嬉しいのか怖いのか、自分でもわからない。
◇
審問は翌日の午後。
——の前に、午前中にちょっと見たものがあった。
薬学科の実習室の前を通りかかった時、廊下で平民の生徒が二人、しゃがみ込んでいた。
「また素材足りないって。調合実習の単位、このままだと落ちる」
「先輩に相談したら『実力不足だろう、素材を無駄遣いするな』って。あの人、いっつもそう」
「クラウス先輩だろ。あの人に逆らったら実習の組み分けで不利になるって噂——」
もう一人がそっと周りを見て、声を落とした。
「俺の友達、先月それで文句言ったら、次の実習から一人だけ一番奥の席に飛ばされた。素材棚から一番遠い席」
——なにそれ。陰湿すぎない?
素材を横流しして自分は儲けて、足りなくなったら平民の生徒のせいにして、文句を言ったら報復。最悪の循環。
あの余裕面のヴェルナーの顔が浮かんだ。制服の袖口だけきっちりしてたの、今思うと腹立つ。身だしなみだけは完璧なくせに、やってることは最低。
早く審問来い。潰してやる。——殿下が。私は見てるだけだけど。
◇
審問は教員棟の小会議室で行われた。
出席者は薬学科主任のベーレン教官、学生課の監督官、殿下、カイ。そしてヴェルナー・クラウス。
私は部屋の隅に立っていた。壁と棚の間の狭い隙間。誰にも触れない位置。
ヴェルナーは椅子に座っている。背筋は伸びている。余裕があった。昨日、殿下が来た時と同じ——正規の帳簿を持っている側の余裕。
ここに来る途中、すれ違った下級生に「心配するな、すぐ済む」と笑いかけていた。審問を受ける側のくせに、先輩面。
「クラウス。この二冊の帳簿について説明を求めます」
ベーレン教官が二冊を並べた。正規の台帳と、古い帳簿。
ヴェルナーが古い帳簿を見た。一瞬、目が動いた。
「これは……前任者の時代の帳簿ですね。倉庫の奥に保管されていたはずですが」
「棚の在庫リストと、この古い帳簿の数字は一致します。しかし正規の台帳とは一致しません。台帳の綴じ方も正規のものではない」
ヴェルナーの指先が膝の上で止まった。でもまだ笑みは消えていない。
「教官。帳簿の管理は私に一任されております。前任者の記録に不備があったため、正確な台帳を作り直しただけです。むしろ職務に忠実であった証かと」
——うわ。開き直った。
殿下の目が少しだけ細くなった。
「作り直した台帳と、棚の在庫リストの数字が合わないのは?」
「在庫リストの更新が滞っておりました。管理補佐の業務は多岐にわたりますので、末端まで手が回らないこともございます」
しれっと言ってのけた。自分の怠慢を理由にして逃げようとしてる。
「率直に伺います」
ベーレン教官の声が低くなった。
「帳簿を書き直した際に、在庫数を操作しましたか」
「しておりません」
ヴェルナーの声はまだ落ち着いていた。
「不足している薬草について、使用記録を確認すればすぐにわかることです。実習で正規に使用した分が——」
「実習の使用記録も確認しました」
監督官が口を開いた。太い声。
「過去半年間の実習で使用された薬草の総量は、古い帳簿の出庫記録とほぼ一致します。正規の台帳の数字とは大きく乖離している」
ヴェルナーが背筋を伸ばし直した。余裕が戻っている——ように見せている。
「そもそも、この古い帳簿を持ち出したのは誰ですか。正規の手続きを経ずに保管資料を取り出すこと自体が問題では?」
——出た。論点ずらし。前世の会議でもいたよこういうタイプ。追い詰められると手続き論に逃げるやつ。
殿下が口を開きかけた。でもベーレン教官が先に手を上げた。
「帳簿の入手経緯は後で確認します。今は中身の話をしている」
ヴェルナーの唇が引き結ばれた。逃げ道を塞がれた顔。
監督官が書類をめくった。
「学園外の薬種商、ロッソ商会への納品記録を照合したところ、差分に該当する品目が売却されています。代金の受取人は——」
ヴェルナーの名前が読み上げられた。
部屋の空気が変わった。
ヴェルナーの顔から、余裕が剥がれ落ちていく。あのきっちりした袖口を掴む指が白くなっている。
「それは——何かの間違いです。ロッソ商会とは——」
「取引は三ヶ月にわたり、計七回。全て学園の休日に行われています。受取のサインはあなたの筆跡です」
ヴェルナーが立ち上がった。椅子が後ろに倒れた。
「ハメられた!」
声が裏返った。殿下の方を睨む。
「これは罠です! 誰かが——」
「帳簿の数字は在庫リストと一致しています。在庫リストはあなた自身の管理区域の棚に貼ってあったものだ」
殿下の声が静かに重なった。
「商会の取引記録にあなたの筆跡がある。これのどこが罠ですか」
ヴェルナーの口が開いたまま閉じなかった。
「……私は、ただ——学園の給金では——家の借金が——」
声がしぼんでいく。さっきまでの堂々とした先輩の顔が、もうどこにもない。
——家の借金。同情する余地があるように聞こえるけど、そのために平民の生徒の実習を潰して、文句言った子を報復で追い詰めてたんでしょ。
殿下が立ち上がった。
「教官、後のことはお任せします」
「殿下。ありがとうございました」
ベーレン教官が深く頭を下げた。殿下はそれに軽く頷いて、部屋を出た。
カイが後に続く。私も。
——スカッとした。うん、スカッとした。あの余裕面が崩れる瞬間は気持ちよかった。
でもちょっとだけ、胸の隅に嫌な味が残ってる。ヴェルナーの最後の顔。あれは屑の顔じゃなくて、追い詰められた人間の顔だった。
……いや。同情はしない。あいつは自分で選んだんだ。横流しも、帳簿の偽造も、平民の生徒への報復も。
◇
回廊に出ると、空気が変わった。窓から午後の風が入ってくる。
殿下が歩きながら、ふう、と小さく息を吐いた。
「カイ」
「はい」
「帳簿の件、助かった。お前がきっかけを持ってきてくれなければ気づかなかった」
カイが小さく頭を下げた。
「もったいないお言葉です」
——殿下のそういうところ好き。すぐお礼言うところ。育ちが出てる。
回廊の向こうから、数人の生徒がやってきた。殿下の姿を見て足を止める。
「殿下、聞きました! 薬品庫の横領を暴いたって」
「助かりました。薬学科の実習がずっとおかしかったんです」
——あ、この子。さっき廊下でしゃがみ込んでた子だ。
平民らしい生徒が深く頭を下げた。殿下が困ったように笑う。
「私は帳簿を確認しただけだ。教官のお力です」
困り笑い。かわいい。殿下って褒められ慣れてないよね。第三王子だから注目されることも少なかったんだろうな。
——私も、ちょっとだけ貢献してるんですけどね。まあいい。透明人間に手柄はいらない。推しが褒められてるの見るだけで満足です。はい、チョロい。
生徒たちが去った後、殿下とカイが寮へ向かう。夕日。長い影。穏やかな空気。
一件落着。
本当に、そう思った。思いかけた。
◇
夜。殿下の部屋。
殿下は寝台で寝息を立てている。規則正しい呼吸。
——推しの寝顔をこの距離で見守れるの、透明人間の福利厚生としてはかなり良い。やっぱりストーカーだけど。
壁にもたれて座っていた。膝を抱えて。今日の審問を頭の中で巻き戻す。
ヴェルナーは屑だった。横流しは本物だった。裁かれて当然。殿下は正しかった。
めでたしめでたし。
……。
……めでたしめでたし、なんだけど。
カイの帳簿、あれどうなったんだろう。
殿下が「出所を確かめてくれ」って言ってた。カイは「承知しました」って答えた。その報告——なかったよね? 審問があって、ヴェルナーが処分されて、そのまま流れた。
殿下も忘れてるかもしれない。忙しかったし。
……まあ、一応確認しとくか。カイのことだから、もう調べがついてて報告するタイミングを見計らってるだけかもしれないし。
立ち上がった。殿下の机の上を見た。カイが持ってきた帳簿。殿下が預かったまま、まだ机の端に置いてある。
手に取って、ぱらぱらめくった。ヴェルナーの偽の台帳でも本物の古い帳簿でもない数字。この帳簿の出所、気になるっちゃ気になる。
——カイの部屋に何かメモとか残ってないかな。情報源の教官の名前とか。
殿下の部屋を出た。廊下は静か。カイはいつもの夜間巡回に出ている時間だ。
カイの部屋は殿下の部屋の隣。従者用の小部屋。ノブに手をかけた。回る。
——鍵かけないの、この世界の人たち全般の問題だと思う。ヴェルナーもそうだったし。防犯意識ゼロ。
中は暗かった。質素な部屋。寝台と机と、小さな衣装棚。
机の上。きれいに片づいている。ペンとインク壺と、数枚の紙。引き出しを開けた。従者の勤務記録。殿下の日程表の写し。
——普通すぎる。教官のメモとかないし。まあカイが書類で証拠残すタイプじゃないか。
衣装棚も一応見ておこう。制服が二着。下着。日用品。
奥に、布で包まれた何か。
——なんだろ。
手を伸ばした。布をめくる。
小さな蝋の塊。親指くらいの大きさ。表面に紋様が彫り込まれている。
……見覚えがある。
帳簿の表紙に押されていた管理印と、同じ紋様。
蝋を手に取った。月明かりに透かす。正規の管理印を蝋で写し取ったもの。これで押せば、どんな紙にも管理印がつく。
なんでこれがカイの衣装棚の奥に隠されてるの。
手が止まった。頭の中で、ばらばらだったものが一列に並ぶ。
カイが持ってきた帳簿。管理印は押されていた。でも中身の数字は、ヴェルナーの帳簿のどちらとも違った。管理印だけ本物で、中身は別物。
——カイが、作ったんだ。この印で。
帳簿を偽造して、殿下に渡した。殿下に嘘を掴ませて動かそうとした。
三秒くらい固まった。それから頭が回り始めた。
嘘の帳簿でヴェルナーを攻撃すれば、ヴェルナーは潔白を証明して、殿下の評判だけが地に落ちる。私が本物の帳簿を見つけたから結果的にセーフだっただけで、カイの思惑通りなら殿下は詰んでた。
蝋の型を握りしめた。指が震えてる。見えないけど。
いや関係ない。今やるべきことを考えろ。
「お供します」も「お怪我だけは」も嘘だった——って、感傷に浸ってる場合じゃない。問題はこの蝋の型をどうやって殿下に見せるかだ。
蝋の型を握りしめた。これを殿下に見せなきゃ。でもどうやって? 机に置いても、それがカイのものだと繋がらない。
カイの身体からこれが出てくればいい。殿下の目の前で。
衣装棚に目をやった。明日の制服がかけてある。
内ポケットに、蝋の型を滑り込ませた。浅く。動けば落ちるくらいの位置に。
——うまくいくかわからない。カイが着替える前に気づいたらアウトだし、ポケットが深すぎたら落ちない。浅すぎたら着る前に落ちる。
……私、何やってんだろ。深夜に男の制服のポケットに物を仕込む透明人間。前世の自分に言っても絶対信じない。
部屋を出た。廊下は静かだった。
殿下の部屋に戻る。寝息が聞こえる。安心しきった穏やかな顔。
——明日、この人はカイの正体を知ることになる。
ちょっとだけ胸がきゅっとした。でもすぐ切り替えた。感傷は後。今はやれることをやった。結果は明日の私が受け止める。
壁にもたれて座った。膝を抱えた。目を閉じた。
推しの寝息だけが、静かに部屋を満たしていた。
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