4話:嘘と一滴
学科交流会。
大教室の机が寄せられて、立食の場が作られていた。テーブルの上にティーセット、焼き菓子、花瓶。窓から午後の光が差している。生徒と教官が入り混じって談笑している。
マリエルが来た。
いつもより気合の入った装い。髪を巻き直して、淡い紫のドレスに白いレースの襟。目元が少し赤い——泣いていたように見せているのか、本当に泣いていたのか。
三日間、あの部屋で練習しているのを見てきた。完成した恋文がどこかに隠されているはず。今日ここで出す気だ。
——殿下、気をつけて。
殿下は会場の奥でカイと立っている。マリエルの方を見てはいない。
交流会が進む。会話。笑い声。ティーカップの音。
マリエルが動いた。
令嬢たちの輪ではなく、真っ直ぐ殿下の方へ歩いていく。会場の中央を横切って。周囲の目を集めながら。
——まさか。
「殿下」
甘い声。でも今日はどこか切羽詰まっている。
会場が少しずつ静かになる。何が始まるのか、みんな気づいている。花の件で噂になった二人が、大勢の前で向かい合っている。
「殿下。ずっと——お伝えしたいことがありましたの」
マリエルが一歩踏み出した。殿下との距離が縮まる。
「先日は私のほうが出過ぎたことをしたと思います。でも——気持ちだけは本物ですの」
声が震えている。本物の震えか演技か、もうわからない。三日間あの部屋で見た鬼気迫る顔を知っているから、全部演技に見える。でも知らない人が見たら——勇気を振り絞る健気な令嬢にしか見えない。
「殿下のことを——お慕い申し上げております」
会場が完全に静まった。
告白。衆人環視の告白。これに王子がどう返すか——全員が息を止めて見ている。
殿下の表情は穏やかだった。崩れない。動揺もしない。
「マリエル嬢。お気持ちは——ありがたく思います」
丁寧に。でもその先に続く言葉がもう見えている。マリエルにも。私にも。
「ですが、先日もお伝えした通り——お気持ちにはお応えできません」
静かだった。やんわりでもなく、冷たくもなく、事実をそのまま置くような声。
マリエルが息を呑んだ。呑んでみせた。目に涙が溜まる。唇を噛む。一滴だけ涙をこぼす——こぼすタイミングまで計算されている。化粧が崩れない角度で。
「……やっぱり、そうおっしゃるんですのね」
声が小さくなる。うつむく。肩が震える。
周囲の空気が変わった。同情の色。さっきまで遠巻きに見ていた令嬢たちの目が、マリエルに寄り始めている。大勢の前で告白して断られた女の子。可哀想。
「でも——」
マリエルが顔を上げた。涙の筋が頬に一本。
「こんなお手紙まで頂いたのに——嘘だったんですの?」
懐から封筒を取り出した。封蝋を切って、便箋を広げる。
殿下の筆跡——に見える文字が、便箋の上に並んでいた。
「皆様、見てくださいまし。殿下のお字ですわ。こんなに想いを綴ってくださったのに、人前では知らぬふりをなさるなんて——」
便箋が手から手へ渡っていく。
「本当だわ。殿下の字に見える」
「まあ、こんなことが書いてあるのに……」
令嬢たちのざわめき。殿下の方を見る目が変わっていく。「手紙まで書いておいて知らないふりをする不誠実な王子」。マリエルの筋書き通り。
殿下がカイと共に歩み出た。
「拝見します」
便箋を受け取って、目を通した。表情が動かない。
「私はこの手紙を書いていません」
静かに、はっきりと。
マリエルが涙ぐんだ目で殿下を見上げた。
「そんな——殿下の字ですのに。皆様もご覧になったでしょう?」
周囲が揺れている。殿下が否定している。でも筆跡は本物に見える。どちらを信じればいいのか。
天秤が傾きかけている。マリエルの方に。
——殿下。
心臓がうるさい。殿下が追い詰められていく。否定しても物証がある。言葉だけでは覆せない。
マリエルが畳みかける。
「殿下はお優しいから、人前では認められないのですわ。でも二人きりの時にはあんなに——」
「二人きりの場で、お気持ちにはお応えできないとはっきり申し上げました」
殿下の声が重なった。穏やかだけど、退かない声。
一瞬、マリエルの目が泳いだ。でもすぐに持ち直して、涙をもう一筋流す。
「では、このお手紙は何ですの……?」
手紙が殿下のものだという前提が崩れない限り、マリエルの勝ちだ。殿下の言葉より紙の上の筆跡を、人は信じる。
——ここだ。
マリエルの手に、まだ封筒が握られていた。恋文を取り出した後の封筒。中にもう一通——いや、何枚かの紙が残っている。
マリエルは気づいていない。恋文だけ取り出して、残りは確認していない。
近くにいた令嬢が封筒を覗き込んだ。
「マリエル様、こちらにも何か入っていますわ」
「え?」
令嬢が紙を一枚引き抜いた。
殿下の「レ」の字が、何度も何度も書き直されている紙。
「……これは何かしら?」
マリエルの顔色が変わった。
「あっ——それは——」
令嬢の手が止まらない。もう一枚。もう一枚。封筒の中から次々と紙が出てくる。同じ文字を何十回も繰り返した下書き。殿下の名前の練習。文面の草稿。不完全な筆跡の群れ。
——なんで恋文と一緒にこんなものが入っている?
マリエルが青ざめている。自分でも知らなかったはずだ。恋文だけを入れたはずの封筒に、処分したはずの練習紙が混じっている。
「これ——筆跡の、練習では……?」
誰かが呟いた。空気が変わった。
「殿下が練習——いえ、殿下がご自分の名前を練習なさるはずがないわ」
令嬢たちの目が鋭くなっていく。マリエルに同情していた空気が、音を立てて引いていく。
「違いますの——これは——殿下が、緊張されて——」
マリエルが口を開くたびに、言い訳が薄くなっていく。
——でもまだ、言い逃れの余地がある。練習紙は状況証拠だ。「殿下が何度も書き直した」と押し通す可能性がゼロじゃない。
決定打がいる。
テーブルの上。水差し。殿下の手にはまだ恋文が握られている。すぐ隣のテーブルにガラスの水差しが置いてある。
近づいた。水差しに指先を触れさせる。傾ける。ほんの少し。
一滴。
水滴が恋文の上に落ちた。音もなく。
文字がにじんだ。
黒いインクが水を吸って、じわりと広がっていく。文字が輪郭を失って、紙の上に溶けていく。
殿下がそれを見た。
「……にじんでいる」
その声に、会場の奥から一人の教官が歩み出た。
礼法学のフローレンス先生。厳格な年配の女性で、王宮の作法全般を担当している。
「少し、拝見してよろしいですか」
殿下の手から便箋を受け取り、にじんだ文字を見つめた。
「王宮で使用されるインクは、耐水性の特殊な調合がされております。公式の書簡はもちろん、王族が私信に用いるインクも同様です」
教室が静まり返った。
「これは王宮のインクではございませんね。——この手紙は、王宮の人間が書いたものではありません」
練習の下書き。偽の筆跡。にじむインク。
全部、マリエルが自分で持ち込んだ証拠だった。
「——違っ……」
マリエルが何か言おうとした。でも声にならなかった。周囲の目がもう、何も信じていない。
殿下が口を開きかけた。多分、またフォローしようとしていた。この人は、こんな状況でも。
でもマリエルはもう聞いていなかった。身を翻して、走り出した。令嬢たちの間を突き抜けて、教室の扉へ。ヒールが石畳を叩く音が遠ざかっていく。
教室に沈黙が落ちた。
——やった。
膝が笑った。テーブルの縁に手をついて、身体を支えた。
一滴。たった一滴で仕留めた。
あの夜、殿下の杯を弾いた時は力任せだった。ワインをぶちまけて、広間中を騒がせた。
今回は——一滴。
手を見下ろした。透明で見えない手。でも確かに、この手でやった。
◇
交流会は気まずい空気のまま続いた。マリエルは戻ってこなかった。
殿下はカイと会場の隅に立っていた。穏やかな顔に戻っている。でもほんの少しだけ、疲れた目をしていた。
——終わったよ、殿下。
そう思いながら会場を見渡して——足が止まった。
壁際に立っている男。詰め襟の上級生の制服。背が高い。マリエルと同じ赤みがかった巻き毛。
兄だ。マリエルの兄。
その男が、殿下の方をじっと見ていた。腕を組んで。目が据わっている。
妹が大勢の前で恥をかかされた。嘘がバレたとか偽造がどうとか、そんなことはこの男にとってはどうでもいい。妹が泣いて走り去った。それだけが事実。
◇
夜。殿下の部屋。
いつもの壁にもたれて座っていると、カイが一通の封書を持って入ってきた。
「殿下。お疲れのところ恐れ入りますが、一つご報告が」
「ああ」
「カスティーリャ家のご長男から、決闘の申し込みが届いております」
——決闘?
殿下の手が止まった。
「……決闘」
「『妹の名誉を汚した』という名目です」
殿下が封書を受け取って、目を通している。私の位置からは中身が見えない。でも殿下の横顔が少しだけ硬くなったのは見えた。
「カイ」
「はい」
「剣を出してくれ」
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