3話:すり寄る令嬢と花の罠
「あの方ったら、殿下のお傍にいるくせにろくにお世話もしないで。いなくなって清々しますわよね」
笑顔。完璧な笑顔のまま、そう言った。
殿下の表情が一瞬だけ動いた。でもすぐに穏やかな微笑みに戻って、何も言わなかった。
マリエルが「ではまた」と手を振って去っていく。足音が廊下に響いて、遠ざかる。
殿下が静かに扉を閉めた。
『清々する? 清々する!? 証拠燃やしたの誰! 噂ばら撒いたの誰! お前だろうが!!! 二度と来んな、バーカ!!!』
口が止まらない。どうせ聞こえないから好きなだけ言える。透明人間の唯一の利点。
——利点じゃない。全然嬉しくない。
◇
あの日から、マリエルの攻勢が始まった。
「殿下、今日のお茶会にいらっしゃいません? 薔薇園のテラスを押さえましたの」
「殿下、午後のお散歩にご一緒してもよろしいかしら」
「殿下、図書室でお見かけしたので——」
毎日。毎日来る。
朝の礼拝が終われば廊下で待ち伏せ、昼食の時間には食堂の入口に立ち、午後の講義が終われば寮棟まで追いかけてくる。巻き毛を揺らして、完璧な笑顔を貼りつけて、甘い声で。
殿下はそのたびに丁寧に断る。やんわり。角を立てず、相手の顔を潰さないように。普通なら気づく。三回も断られたら空気を読む。
マリエルは読まない。
断られた後のしょげた顔がまた絶妙で、唇をきゅっと噛んで「そう、ですよね……ご無理を言ってごめんなさい」とやる。すると殿下が「いえ、お誘いいただけるのは嬉しいのですが」とフォローを入れてしまう。
そのフォローを足がかりに、翌日また来る。「昨日は嬉しいとおっしゃってくださったから」。
——無限ループ。見捨てられない性格が完全に裏目に出てる。
◇
五日目。殿下の部屋の前の壁にもたれていたら、中からカイの声が聞こえた。
「殿下。あの方、また明日もいらっしゃいますよ」
「……わかっている」
「はっきりお断りになった方がよろしいかと」
「断ってはいる」
「断りきれていないから毎日来るのでは」
殿下が黙った。少し間があって、
「……傷つけたくないだけだ。好意を向けてくれている人を、突き放すのは」
——殿下。それ、優しさじゃなくて弱さです。
でも——殿下がマリエルに関心がないことは、これではっきりした。
……だよね!?
拳を小さく握る。わかってた。わかってたけど、ちゃんと確認できると安心する。推しが変な女に引っかかってないってだけで、こんなにホッとする。我ながらチョロい。
でもその直後、嫌な考えが頭をよぎった。
殿下、私の時もこんな感じだったんだろうか。
……やめよう。考えても答え出ない。
◇
三日後の午後。殿下が庭園を散歩していた。一人で、と思ったら——また来た。
「まあ、殿下。奇遇ですわ」
奇遇じゃない。さっき寮の窓から殿下が出ていくのを確認してダッシュしてきたの、私見てたから。
二人並んで庭園の奥へ。私はその三歩後ろ。足音は聞こえない。砂利道なのに。
庭園の奥に、白い花が咲いていた。高い枝の先。日差しを受けて、少し光って見える白。
マリエルが足を止めた。
「あら——あの花、きれいですわね。手が届いたら、近くで見てみたいのですけれど」
背伸びをする仕草。自分では届かない、という演出。
——出た。ねだり。
殿下を見る。困ったような顔。でも目線は花の方に向いていて、高さを測っている。
断って。取ったら「殿下が私のために花を」って吹聴する。絶対する。
殿下が一歩前に出た。
——ダメだって!
考えるより先に動いていた。マリエルの反対側から枝に手を伸ばす。揺らせば花が落ちる。殿下が取る前に——
指先が枝に触れた。力を込めて引く。枝がしなって、花が揺れた。
殿下の手が花に伸びる——が、枝が不自然に揺れて、指先が空を切った。
「……あれ」
首を傾げる。もう一度手を伸ばす。私がさらに枝を引く。花がするりと逃げる。
——いいぞ。このまま諦めて。
殿下がふっと視線を横にずらした。隣の枝。少し低い位置に、同じ白い花が別の房をつけている。
すっ、と手を伸ばして、軽く摘み取った。私が揺らしていたのとは別の枝。妨害する間もなかった。
「こちらでよければ——どうぞ」
白い花をマリエルに差し出す。何でもないことのように。
……完敗。
マリエルが花を受け取る。両手で包み込んで、頬を染めて、
「ありがとうございます、殿下……大切にしますわ」
声が震えている——ように聞こえるけど、計算。前世のリゼットの取り巻き仕草、全部見てきたから、わかる。
殿下は気にした様子もなく歩き始めた。マリエルがその横に並ぶ。花を胸元に抱えて。
嫌な予感はした。でもまだ、それが何かはわからなかった。
◇
わかったのは、翌日。殿下の部屋で、カイの報告を聞いた時だった。
「殿下。マリエル嬢が、殿下からお花を頂いたと広めています」
「花? ああ、昨日の——手が届かないとおっしゃるので取っただけだが」
「白百合を男性から女性に贈るのは、古い慣習で求愛の意思表示だそうです」
殿下の手が止まった。
「……求愛?」
「はい。令嬢方の間では周知の慣習で、すでに婚約の噂が立っております」
——え。求愛。あの花、白百合だったの。
殿下が知らなかったように、私も知らなかった。でもマリエルは知っていた。令嬢だから。社交界のマナーは叩き込まれている。
——あの女。最初から全部仕組んでた。偶然の散歩も、花を見上げる仕草も。
殿下が額を押さえている。珍しく、はっきり困っている顔。
「このまま放置されると、相手のご実家が動き始めます」
「……わかった」
◇
その日の夕方。殿下が寮に戻る廊下で、マリエルが待ち構えていた。
いつもと様子が違った。
殿下の腕に、自分の手をするりと絡ませた。
「殿下。——今夜、二人でお庭を歩きません?」
近い。距離が近い。いつものお誘いの甘さじゃない。「もう許された側の女」の顔をしている。婚約者の顔。
殿下の足が止まった。
「マリエル嬢」
「はい」
「申し訳ないのですが——」
いつもの、やんわりした断り方が来ると思った。マリエルもそう思っていたはずだ。「断るけどフォローする」の、あのパターン。
「婚約の話は出ておりません。今も、これからも」
声が違った。
やんわりじゃなかった。穏やかではあった。でも、もう一歩も退かないと決めた声だった。
マリエルの手が、殿下の腕から離れた。自分から離したんじゃない。殿下がそっと、でもはっきりと、腕を引いた。
「花のことで誤解を招いたのであれば、それは私の不注意です。申し訳ない。ですが——お気持ちにはお応えできません」
廊下には二人きりだった。私を除けば。
衆目のない場所で、逃げ道を残して、でもはっきり。殿下らしい断り方だった。優しくて——でも今回は、もう一歩踏み込んでいた。
マリエルの顔から表情が消えた。白い。唇が微かに動いている。何か言おうとして、言葉にならない。
「……そう、ですの」
声が薄かった。それだけ言って、くるりと背を向けた。背筋は伸びている。足取りも崩れない。でも——握りしめた両手の拳が、スカートの陰で白くなっていた。
足音が遠ざかって、廊下に沈黙が落ちた。
殿下がしばらくその場に立っていた。何かを振り払うように、小さく息を吐いて歩き出した。
——殿下。よく言えた。
嬉しいとか、スカッとしたとか、そういう感情とは少し違った。殿下がちゃんと線を引けたことが、ただ安心だった。
でも。
マリエルの、あの背中。あの拳。あれは傷ついた女の姿じゃない。
——あの目、知ってる。
恥をかかされた人間が、次の手を考え始めた時の目だ。
◇
夜。寮の廊下を歩いていた時、マリエルの部屋の前を通りかかった。
扉の隙間から、声が漏れている。
「……恥をかかせて、許さない」
低い声。甘さのかけらもない。
「いいわ。既成事実さえ作ればいいの。——逃がさない」
◇
あの夜から、マリエルの部屋に通うようになった。
通う、というのは語弊がある。忍び込んでいる。毎晩。扉が閉まる前に滑り込んで、壁際に立って、あの女が何をしているか見張っている。
——ストーカーの自覚はあります。でも殿下を守るためだから。多分。
初日の夜。マリエルは化粧台の引き出しから紙の束を取り出した。
殿下の筆跡の写し。学科の提出物か、掲示板に出ていた議事録の写しか。何枚も重ねてある。いつの間に集めたんだ、こいつ。
それを手本にして、便箋の上にペンを走らせ始めた。
殿下の「レ」の字。何度も何度も書いては潰し、書いては潰す。左端の払いが甘い。もう一度。まだ違う。もう一度。
恋文を捏造する気だ。
「公の場で知らぬふりをされた——なんて可哀想な私。手紙をもらったのに」
独り言。ペンを走らせながら、台本を口に出している。
「物証があれば、否定なんてできないわ。あの王子は優しいから——周りが私に同情すれば、強く出られない」
——殿下の優しさを武器にする気か。
ペンが止まった。マリエルが便箋を持ち上げて、蝋燭の灯りに透かした。書き損じ。舌打ちして、紙を丸めて屑籠に放り込む。
「……お姉様たちは皆よいところへ嫁いだのに」
声のトーンが変わった。さっきまでの計算高い独り言じゃない。もっと低くて、湿っている。
「一番上のお姉様は侯爵家、二番目のお姉様は辺境伯家。私だけよ、まだ決まっていないのは」
新しい便箋を取り出す。ペン先にインクをつけ直す。
「第三王子でも王族は王族よ。嫁げば家の格が上がる。お父様だってお喜びになるわ」
——こいつ、殿下のこと好きですらない。
わかってはいた。最初からわかってた。でも本人の口から聞くと、胃の底が冷たくなる。殿下はあの女に「傷つけたくない」と言った。好意を向けてくれている人を突き放せないと、苦しそうな顔をした。
好意なんてなかった。最初から。
「三番目の王子なんて本当は嫌よ。でも相手がいないよりはマシ。——姉たちに笑われるのだけは、絶対に嫌」
ペンが紙を走る音だけが響いている。鬼気迫る集中力で、殿下の筆跡を一画ずつ真似ている。
◇
何日——いや、何時間経っただろう。屑籠に書き損じが山のように溜まった頃、マリエルの手が止まった。
便箋を持ち上げて、蝋燭の灯りに透かす。
「……出来た。これで明日——」
唇の端が、歪んだ。
覗き込んだ。便箋の上に並ぶ文字は、殿下のものだった。丁寧で、少しだけ古風な筆運び。あの人が書く字そのもの。
——見分けがつかない。
マリエルが恋文を封筒に滑り込ませて、胸に抱えた。蝋燭の灯りに照らされた横顔は、綺麗だった。綺麗で、怖かった。
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