2話:聞こえる音と届かない声
「——女神様」
殿下の声が、蝋燭の灯りと一緒に揺れた。
「今宵も、助けてくださり、ありがとうございます」
祭壇の前で膝をついた殿下の背中を、すぐ後ろから見ている。呼吸が聞こえるくらい近い。石鹸の匂いがほのかにする。
逃げたい。こんな距離で推しの祈りを盗み見るなんてどうかしてる。でも足が動かなかった。動いたら、この人が何を祈るのか聞けなくなる。
「今宵——杯が、弾かれました」
心臓が跳ねた。
「手から落としたのではありません。何かに、弾かれた。そうでなければ、あの毒を飲んでいました」
静かな声。でもそこに迷いはなかった。
周囲は「運が良かった」と言っていた。従者のカイも「お気が動転されて」と流そうとしていた。なのに——この人は、あの一瞬の衝撃から、正確に何が起きたか読み取っていた。
毒杯の後、殿下の目が動いたのを思い出す。クロスの変色。給仕の顔。壇上の取り巻き。パニックの中で一人だけ黙って辿っていた、あの目。
——この人は、見えてる。見えすぎてる。
「あれが誰なのか、何なのか、わかりません。でも——自分は助けられた。それだけは確かです」
私だよ。あなたを助けたのは、今あなたの後ろにいる透明人間だよ。
言えない。何も言えない。ただ聞いているしかない。
殿下の声が、ほんの少し柔らかくなった。
「それから——リゼット・ヴァルシアのことも、どうかお守りください」
呼吸を忘れた。
「まだ見つかっていないと聞いています。でも——あの方は、断罪で言われたようなことをする人では、なかったと思います」
涙が出そうになって、唇を噛んだ。泣いたら——泣き声は聞こえるのか、わからない。今はまだわからないから、音を出すわけにいかない。
「花の名前を教えてくれた時の顔は、とても——」
言葉を探すように間が空いた。見つからなかったのか、そのまま静かに息を吐いた。
「……どうか、ご無事で」
——ここにいるよ。
あなたの、すぐ後ろに。
殿下がもう一度、目を閉じた。少し長い沈黙。それから、声の温度が変わった。
「今朝——不思議な声を聞きました。断罪の場で」
背筋が伸びた。
「第三王子、助け給え、と」
同じだ。同じ声を、殿下も聞いていた。
「神託なのか、幻聴なのか。——ですが、あの言葉は、自分に向けられたものだと感じました」
私はあれを「王子を助けろ」と受け取った。殿下は「自分が動け」と受け取った。
同じ七文字。意味がまるで違う。
殿下の組んだ指に力がこもった。
「このまま壁際に立って、何もせず目を伏せていれば安全だと思っていました。それは——間違いでした」
蝋燭の炎が揺れた。殿下の影が壁に大きく伸びて、また縮む。
「自分にできることは限られています。でも、このままではいられない」
穏やかな声のまま、中身だけが変わっていた。覚悟を決めた人の声だった。
殿下が立ち上がった。女神像に軽く頭を下げて、背を向ける。足音が石の床を叩いて遠ざかっていく。扉が開いて、閉まる。
また、静寂。
祭壇の段差に座り込んだ。冷たい石が身体の熱を吸い取っていく。
嬉しかった。苦しかった。名前を呼んでもらえた。信じてもらえていた。なのに何も返せない。この距離が、世界で一番遠い。
——でも。
殿下が変わろうとしている。壁際の王子が、一歩前に出ようとしている。あの毒杯の夜が、きっかけになったのかもしれない。
私が弾いた杯が、殿下の何かを動かした。
それだけで——今は、それだけでいい。
◇
六日目。殿下の部屋にいる。
扉の横の壁にもたれて、床に座り込んでいる。殿下は机に向かって書き物。ペンが紙を走る音。ページをめくる音。時々、小さく息をつく。
五日間、殿下について回った。朝の礼拝から夜の礼拝まで。規則正しい人だとは知ってた。知ってたけど、ここまでとは思わなかった。
従者のカイが常にそばにいる。毒殺未遂から警戒が増したらしい。ただ、王子にしては人手が少ない。私がいなきゃ——見えないけど。
五日あれば、この身体のルールも見えてくる。
物には触れる。持てる。動かせる。毒杯を弾けたのがその証拠。ただし、服や食べ物は手に取った瞬間こっち側に来る。厨房から盗んだパンは掴んだ途端に消えた。口に入れれば味はする。便利なような、そうでもないような。
声は出ない。文字は書いた端から消える。鏡にも水面にも映らない。足跡すら残らない。三日目、雨上がりの中庭を殿下の後ろに歩いた。振り返ると、泥の上に足跡が一人分しかなかった。
痛みは、ある。二日目に回廊の柱で肘をぶつけて、声にならない悲鳴を上げた。透明なだけで、身体はここにある。壊れるし、傷つく。無敵じゃない。
——まとめると。「私が伝えようとするもの」は全部消される。声、文字、姿、足跡。でも物理的な干渉はできて、物は動かせる。
ただ、触れても伝わらない。中庭で殿下の手を握っても、「風、か?」で終わった。
物は動かせるけど、「私」は届かない。そういう透明。
……誰が設計したんだか、このルール。
朝から何も食べていない。厨房に寄るタイミングを逃した。殿下が寮を出る前に起きられなくて——壁際で寝落ちしてた、なんて言えない。
我慢。今は殿下のそばを離れられない。カイも今日は買い出しでいない。
ぐう。
——。
お腹。鳴った。今。確実に。
声は出ない。足音も聞こえない。なのに——
殿下のペンが止まった。
「……ん?」
顔を上げる。部屋の中をゆっくり見回している。
聞こえてる。
嘘でしょ。声も足音も消されるのに、お腹の音は通るの?
——待って。落ち着いて考えろ。
声は「伝えようとして出す音」。足音は「移動に伴う音」。お腹の音は——身体が勝手に出してる。意図してない。コントロールできない。
消されるのは「私が伝えようとするもの」だけ? 身体が勝手に出す音は、ルールの外?
だとしたら——
脳裏に、あの日が閃いた。
庭園。午後の光。殿下の前で花の名前を答えようとした瞬間。
——ひぅっくしゅ!
盛大に出た。殿下が口元に手を当てて、「可愛らしいくしゃみですね」って——
顔が熱い。透明なのに赤くなってる気がする。
いやいや今そこじゃない。あのくしゃみが今の状態で出たら——何もない空間からいきなり「ひぅっくしゅ!」。殿下の部屋にポルターガイスト降臨。怖すぎる。
殿下が首を傾げて、窓の外を見た。廊下に目をやって。もう一度、部屋を見回して——
コンコン。
扉をノックする音。助かった。
「レクト殿下、少しよろしいかしら?」
甘い声。自信に満ちた声。殿下の意識がそちらに向いた。
——ナイスタイミング。誰だか知らないけど感謝——
殿下が椅子から立ち上がって、扉を開けた。
「これはマリエル嬢。何かご用でしょうか」
廊下に立っていたのは巻き毛の令嬢。完璧な笑顔。深い緑のドレスに金の耳飾り。
見覚えがある。ありすぎる。
マリエル・フォンテーヌ。リゼット・ヴァルシアの「取り巻き」だった女。
——取り巻き。笑わせる。
社交シーズンの三ヶ月間。嫌がらせの段取りを全部仕切っていたのはこいつだ。噂をばら撒いて、証言者に手を回して、記録ノートを暖炖に「うっかり」落とした。にこにこ笑いながら「リゼットさまのおそばにいられて光栄ですわ」。裏で全部の糸を引いていた。
何をしても潰された。対策を立てても、証拠を揃えても、偶然みたいな顔をして全部消えた。途中から気づいてた。シナリオが「断罪は起きる」と決めている以上、何をやっても——
でもやめられなかった。殿下の隣にいる時間を、一日でも長くしたかった。それだけだった。
そのマリエルが、婚約者が消えて一週間で殿下の部屋に来ている。
「突然ごめんなさいね。お茶会のお誘いに参りましたの」
殿下に向ける瞳がきらきらしてる。もう隠す気もないらしい。
「お茶会ですか。ご丁寧にありがとうございます」
殿下が半歩下がった。廊下に出るでもなく、部屋に招くでもない距離。
「ただ、少し立て込んでおりまして。申し訳ありません」
やんわり断ってる。でも明確に線を引いている。相手の顔を見て、申し訳なさそうな形だけ作って。
——殿下、それ社交辞令がうますぎて逆に冷たいよ。
「まあ、残念。でも無理にとは申しませんわ」
引き下がるかと思った。マリエルの靴が廊下の石を鳴らす。一歩。二歩。止まった。
「——それにしても」
振り返った。計算された間。
「リゼットさんのこと、大変でしたわね」
空気が変わった。廊下の温度が一段落ちた気がした。
「あんな方の婚約者だなんて、殿下もさぞお辛かったでしょう? 解放されて、きっとこれからは——」
『——は?』
音にならない。でも口が勝手に動いた。
——今、なんて言ったあの女。
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