1話:鏡の中に誰もいない
『ちょっと待って? なんで私、鏡にいないの????』
控えの間の姿見。古いけれど大きな鏡。午前の光を反射して、部屋を白く照らしている。
鏡の中には——質素な椅子。冷たい石壁。窓からの光。
それだけ。私だけが、いない。
確かに鏡の前に立っている。足の感覚がある。呼吸も聞こえる。でも映っていない。
声を出そうとした。口は動く。喉も震える。なのに音にならない。
廊下の向こうから叫び声が聞こえた。
「リゼット・ヴァルシアが控えの間から消えました! 断罪を恐れて逃亡したものと思われます!」
逃げてない。ここにいる。ここに——
膝から力が抜けた。冷たい石の床に手をつく。
——落ち着け。
さっきこの椅子に座っていた。入学式の壇上で断罪されて、衛兵に促されてこの部屋に入って、扉が閉まって。そこまでは覚えてる。
光った。
唐突に、視界が白く塗り潰された。音もなく、熱もなく。気がついたら侍従が来ていて、目の前にいる私を見つけられなくて、「逃げた」と叫んで出ていった。
で、鏡を見た。映ってない。声も出ない。
——なにこれ。
◇
走った。
控えの間を飛び出して、石造りの回廊をとにかく走った。足が石畳を蹴っている感覚はある。でも足音が聞こえない。息だけが耳の内側で荒い。
殿下のところへ。殿下なら——
前世の記憶がある。学園恋愛ゲームの悪役令嬢に転生して、推しの第三王子の婚約者になった。今朝の断罪で、それも終わった。でも殿下なら。殿下だけは——
回廊の角で、女生徒とぶつかった。
肩が当たる。痛い。教本が床に散らばる。
「きゃっ——なに?」
振り返った女生徒の目が、私を通り抜けた。
「……気のせい、かしら」
ぶつかったのに。肩がじんじんしてるのに。
怖い。でも走った。
◇
殿下は、中庭にいた。
一人でベンチに座っている。いつもの穏やかな顔じゃなかった。少しだけ、疲れたような目をしていた。
——私のこと、考えてくれてる?
余裕ないくせに一瞬だけ胸がきゅっとなった。
駆け寄った。殿下の前に膝をつく。顔を覗き込む。
『殿下! 私です、リゼットです!』
音にならない。
殿下の視線が私の顔を素通りして、薔薇の垣根に落ちている。
『お願い、こっちを見て!!』
殿下の手を掴んだ。温かい。生きている人の体温がちゃんとある。
表情が動いた。掴まれた手を見下ろして、眉がわずかに寄る。もう片方の手で、私が握っているあたりをそっと触った。
「……風、か?」
違う。私だ。ここにいる。
もう一度、強く握った。両手で包み込むように。
殿下がまた手元を見る。長く。何かを感じてる——けど、それが「人の手」だとは思わない顔。首を傾げて、小さく息を吐いた。
「疲れているのかな……」
立ち上がった。殿下はそのまま庭園の奥へ歩いていく。
追いかけなかった。追いかけても同じだとわかったから。
殿下の手の温もりだけが指先に残っている。
——触っても叫んでも、伝わらない。
◇
泣きたかった。涙が出てくれなくて、代わりに頭だけが冷えていった。
——文字だ。
教員棟の事務室に忍び込んだ。机の上にインクと羊皮紙。物には触れる。ペンの重さも感触もある。
手が震えてる。深呼吸。一文字目。
「殿」
書けた。インクが羊皮紙に染み込んで——消えた。音もなく。染みすら残さず。
何度も書いた。殿下の名前。自分の名前。「ここにいる」。全部、書いた端から消えていく。
ペンを落とした。からん、と乾いた音が鳴る。
——声も、姿も、文字も。「私」を伝える手段が、何一つない。
机に突っ伏した。額が冷たい木に当たる。
その時、聞こえた。遠くから、低く響く鐘の音。夕刻の祈りの鐘。
理由はなかった。神頼みなんて前世でもしたことない。でも足が動いた。他に行く場所がなかった。
◇
礼拝堂は、大講堂の華やかさとは正反対だった。石造りの天井が高く、空気がひんやりしている。夕日がステンドグラスを通して床に色を落としている。
祭壇の上に女神像。両手を広げた慈愛の姿。
誰もいない。
祭壇の前で膝をついた。
『——助けて』
声にならない祈り。目を閉じた瞬間、頭の中に声が響いた。
——第三王子、助け給え。
目を開けた。礼拝堂は静かなまま。女神像は動いていない。でも確かに聞こえた。頭の内側に直接触れるような、不思議な響き。
第三王子、助け給え。
……第三王子を、助けろってこと?
もしこれが——殿下を助ければ、元に戻れるという意味だとしたら。
都合のいい解釈だって思った。でも他に手がかりがない。何もない中で、初めて「道」が見えた気がした。
そこで、ゲーム知識が頭の中でカチッと嵌まった。
第三王子ルート。悪役令嬢が退場した後、後ろ盾を失った王子に第一王子派が仕掛ける最初のイベント——毒殺。入学を祝う夜宴で、王子の杯に毒が盛られる。致死量ではないけど、王子は長く臥せることになる。その隙に第一王子派が勢力を固める筋書き。
今夜。もうすぐ宴が始まる。
『——嘘。今夜!?』
◇
スカートの裾を掴み上げて、回廊を駆けた。
大広間に近づくにつれて音が膨らんでいく。弦楽器の旋律。笑い声。食器が触れ合う澄んだ音。今朝断罪が行われた場所とは思えないほど、宴は華やかに始まっていた。
大広間の扉は開け放たれている。
中に入る。蝋燭の光が目を刺す。ドレスの裾、軍服の肩章、グラスを持つ手。隙間なく人が立っている。
この中を、誰にもぶつからずに進まなきゃいけない。
肩をすぼめて、息を詰めて。見えないのに身体を小さくしている自分がおかしい。でもそうしないと怖い。
殿下はどこ。
広間を見渡す。壇上には第一王子エルドとヒロインのアリシア。取り巻きたちと杯を交わしている。あの断罪劇の立役者たちは、すっかり勝利の宴を楽しんでいる。
——胸の奥がざらつく。でも今はそれどころじゃない。
広間の端。大きな柱の近く。殿下がいた。
壁際の目立たない位置に一人で立っている。継承権が低い王子の定位置。手にはまだ杯を持っていない。
間に合う。
でも——どの杯に毒が入っているか、わからない。ゲームでは「王子が毒を飲んだ」という結果だけが示されていた。恋愛ゲームだから、細部は省略されている。
給仕が持ってくる杯を見張るしかない。
殿下の近くまで移動した。柱の陰——見えないのに陰に隠れようとしている自分に苦笑する。
殿下は静かに広間を眺めていた。さっき中庭で見た疲れた影がまだ残っている。
——大丈夫。私が守る。
給仕が動いた。銀の盆にワインの杯を載せて、広間を滑るように移動している。壇上の貴族たちに配り、壁際のテーブルへ。殿下のいる一角へ。
目を凝らす。給仕の手元。杯。ワインの色。深い赤紫。どれも同じに見える。
給仕が一度、壇上の方をちらりと見た。
——今の。
一瞬だった。でもその視線の先にいたのは第一王子の取り巻きの一人。神経質そうな顔の男。その男がかすかに頷いた。
給仕の手が動いた。盆の上の杯を一つ、位置をずらす。他より少しだけ手前に。殿下の方へ差し出す時に、自然と最初に手に取る位置。
あれだ。
給仕が殿下の前に来た。
「殿下、いかがですか」
殿下が小さく頷いて、手を伸ばす。一番手前の杯。指が縁に触れようとしている。
足が動いていた。考えるより先に。柱の陰から飛び出して、殿下と給仕の間に身体をねじ込む。
殿下の指が杯の縁に触れた。持ち上がる。
『ダメーー!!』
声にならない絶叫と一緒に、手が出ていた。指先が杯に当たる。硬い銀の感触。冷たい。押す。横に。力いっぱい。
杯が殿下の手から弾けた。
ワインが弧を描いて飛ぶ。赤紫の液体が蝋燭の光を反射して、白いテーブルクロスの上に散った。
銀の杯が石の床に落ちて跳ねる。甲高い音。それから、一瞬の沈黙。
広間中の視線が集まった。殿下が目を見開いて自分の手を見ている。さっきまで杯を持っていたはずの、空の手を。
「……何が——」
殿下の声が途切れた。その視線がテーブルクロスに落ちる。
ワインが変色していた。白いクロスに広がった赤紫が、じわじわと黒く濁っていく。布地が焼けるように縮れて、溶けかけている。
殿下の顔から表情が消えた。
——でも、それは恐怖じゃなかった。
クロスの変色を見ている。次に、取り押さえられている給仕の顔を見た。それから壇上の方を一瞥した。視線が止まったのは、さっきの薄い金髪の取り巻き——顔面が真っ白になって唇を震わせている男のあたり。
周囲がパニックに陥る中で、殿下だけが黙っていた。怒りでも恐怖でもない。辿ってる。誰が仕組んで、誰が動いて、どこに繋がるのか。
——あ。
この人、全部見えてる。
「——毒だ」
教官の声で空気が変わった。衛兵が駆けつけ、給仕が連行されていく。壇上の取り巻きの男は逃げ出したいのに足が動かない顔をしている。
殿下が無事だ。私が——止めた。
膝が笑い始めた。柱にもたれて背中から力が抜けていく。心臓がまだどくどくうるさくて、杯を弾いた時の衝撃が指先に残っている。
小さく、拳を握った。
◇
宴は途中で中止になった。
毒殺未遂の調査が始まって、生徒や貴族たちが次々と広間を去っていく。衛兵が出入り口を固め、関係者の聴取が行われている。
喧騒の中を抜けて、人気のない回廊に出た。壁に背をつけてずるずると座り込む。
助けた。殿下を助けた。神託の通りにやった。
——戻れた?
手のひらを広げる。広間から漏れる明かりに翳す。
見えない。
壁際に置かれた装飾用の銀の盆を覗き込んだ。歪んだ銀面に、揺れる蝋燭の光だけが映っている。
私は、いない。
……足りなかった? 一回じゃ足りない?
銀の盆を戻した。指先が震えてるのが、盆の揺れでわかった。
——でも。
殿下は助けた。それは確か。一回で足りないなら、何回でもやる。
ゲーム知識を全部ひっくり返して、次に何が来るか洗い出さなきゃ。ゲームの中で殿下を襲う脅威は、まだいくつもあったはず——
廊下の先に、人影が見えた。
殿下だった。
宴の喧騒から離れて、一人で歩いている。衛兵もつけず、従者も連れず。毒殺未遂の直後だというのに。
どこへ行くんだろう。
立ち上がった。足音は聞こえない。殿下の後ろを、少し離れてついていく。
回廊を曲がる。階段を降りる。渡り廊下を抜ける。殿下の足取りは迷いがなかった。この道を何度も歩いている人の歩き方だった。
辿り着いた先は——礼拝堂だった。
夜の礼拝堂は蝋燭の灯りだけで、影が深い。昼間のステンドグラスはただの黒い模様になっていた。
殿下が扉を開けて中に入っていく。その背中を追って、閉まりかけた扉の隙間に身体を滑り込ませた。
足音を殺す——殺す必要なんてない。私の足音は最初から聞こえない。でも息を詰めた。
殿下は真っ直ぐ祭壇に向かった。女神像の前で立ち止まる。蝋燭の灯りに照らされた横顔。伏せた睫毛の影。
そして——静かに、膝をついた。
祈りのために組まれた指。閉じた瞳。毒殺未遂の夜に、一人で礼拝堂に来て、祈っている。
近い。手を伸ばせば触れられる距離。
——やば。こんな近くで見たことない。
不謹慎だってわかってる。さっきまで絶望して、今も身体じゅう震えてて。でも無理。こんな状況でも推しの祈り顔は反則。
殿下の唇が動いた。
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