32話:同じ報い
翌朝から、全部が動き始めた。
コンラート王は自室から出てこなかった。扉の前に衛兵が立っている。昨夜まで王を守っていた衛兵が、今は王を閉じ込めるために立っている。
文官たちが走り回っていた。書類が山のように運ばれていく。廊下のどこを歩いても紙の音と足音と低い声がしている。
殿下は会議室にいた。朝から。
長い机。重臣たちが並んでいる。殿下はその上座に座っている。
——上座だ。
少し前までは壁際だった人が、今日は上座にいる。椅子の質が変わった。座り方は変わらない。殿下は殿下のまま座っている。背筋が伸びて、でも力んでいない。
「コンラート王の処遇について提案があります」
文官の一人が書類を広げた。退位。評議会の決議。前例と手続きの話が続いている。
殿下は黙って聞いていた。長く。全部聞き終わってから、口を開いた。
「幽閉で」
文官たちが顔を見合わせた。
「退位は当然として——追放ではなく、幽閉を」
「理由をお聞かせいただけますか」
殿下がしばらく考えた。
「あの人は七年間、人を地下に閉じ込めた。同じ報いを受けるべきだと思います」
声が静かだった。怒りではない。感情を乗せていない。ただ事実として述べている。だからこそ重い。
文官たちが頷いた。反論は出なかった。
「場所は——」
「城の地下に、もう部屋があります」
会議室は古い石造りだった。窓が高い位置にしかない。天井の梁に埃が積もっている。暖房が入っていない。石壁が冷気を吐いている。
会議は長かった。退位の手続き。評議会の招集。戴冠の日程。次から次へと決めていく。殿下の声は最後まで変わらなかった。
寒い。
鼻の奥がむずむずした。
——まずい。
息を止めた。鼻を押さえた。透明な手で。
間に合わなかった。
「ひぅっくしゅ!」
出た。
会議室が一瞬止まった。文官たちが顔を上げた。きょろきょろしている。
殿下の手が止まっていた。書類を持ったまま。目が——動いた。会議室の壁際を見ている。私がいるあたりを。
「……今の、音」
文官の一人が首を傾げた。
「風でしょうか。窓が古いですから」
「……ええ。そうですね」
殿下が書類に目を落とした。会議が再開した。
でも殿下の目が、一瞬だけ遠くなっていた。何かを思い出しかけている目。すぐに戻った。
——恥ずかしい。あんな変なくしゃみ、聞かれたくなかった。
◇
三日後。
コンラートが地下に移された。
見に行った。行かなくてもよかった。でも足が向いた。
あの階段を降りた。あの通路。鉄格子の扉が並んでいる。あの時と同じ冷たい空気。
衛兵に連れられたコンラートの背中が見えた。小さかった。あの広間で杯を持っていた男が、今は衛兵に挟まれて階段を降りている。
扉が開いた。あの部屋。エリスさんがいた部屋。寝台。石壁。窓のない壁。
コンラートが中に入った。振り返った。衛兵の顔を見ている。
「……ここに、何日いる」
衛兵は答えなかった。扉が閉まった。鍵がかかった。
鉄の音。同じ音。
あの女の人が聞いていた音と、同じ。
コンラートが何か呟いた。聞こえなかった。聞きたくなかった。
階段を上がった。背中が冷たかった。石壁の冷気じゃない。別の冷たさ。
——あの人も、こうやって閉じ込められて、パンと水だけ運ばれてきて、壁を見つめるようになるのかな。
同じ報い。殿下はそう言った。
正しい。正しいと思う。でも正しいことが全部すっきりするわけじゃない。
◇
その日の夕方。
殿下の部屋に、カイが入ってきた。いつもと少し違う顔をしていた。
「殿下。母が——お礼を申し上げたいと」
殿下が顔を上げた。
「エリスさんが?」
「はい。殿下に直接——」
殿下が立ち上がった。迷わなかった。
別室に案内された。小さな客間。窓から夕日が入っている。
エリスさんが椅子に座っていた。
前に見た時とは違う。顔に色がある。髪が整えられている。痩せているのは変わらないけど、目が変わった。あの、何かを待つのをやめた目じゃない。
カイが扉の前に立った。殿下が中に入った。私も。
エリスさんが立ち上がった。殿下を見ている。
「殿下——」
「お座りください。まだ身体が——」
「立てます。立って、お礼を言いたいのです」
エリスさんの声は震えていた。でも立っていた。
「息子を——返していただいた」
殿下が首を振った。
「俺が返したのではありません。カイが自分で——」
「いいえ」
エリスさんの目から涙がこぼれた。
「あの子に会えました。七年ぶりに。あの子が生きていて、あの子が——まっすぐな人のそばにいると知って」
殿下が黙った。
「殿下のおかげです。あの子が、あの子のまま生きていられるのは」
扉の前で、カイが下を向いていた。顔が見えない。でも肩が震えていた。
殿下が振り返った。カイを見た。
「カイ。入ってこい」
カイが顔を上げた。目が赤かった。
「母上の前だぞ。扉の前に立ってるな」
カイが一歩踏み出した。もう一歩。エリスさんの前に。
エリスさんが両手を伸ばした。カイの顔に触れた。頬に。両手で。
「大きくなった」
カイの顔が崩れた。
「……母さん」
声が子供みたいだった。あの冷静で、計算高くて、丁寧な敬語で話すカイが。
エリスさんがカイの頭を引き寄せた。抱きしめた。カイの背中が震えていた。
殿下が静かに目を逸らした。窓の外を見ている。
私は壁際にいた。
見えない手で、見えない涙を拭った。
——よかった。
こういう時に声が出ないことが、今日はありがたかった。泣き声が出たら聞こえてしまう。
唇を噛んで、黙って見ていた。
◇
翌週。
他国の使節、ハインリヒ卿が改めて城を訪れた。
正式な謁見の場。殿下はまだ戴冠前だけど、実質的に国を動かしている。上座の椅子に座って、ハインリヒ卿を迎えた。
「殿下。このたびの件、改めて御礼申し上げます」
ハインリヒ卿は穏やかな男だった。年齢は殿下の父——コンラートと同じくらいだけど、空気が全く違う。座り方が違う。この人は椅子を自分のものだと思っていない。
「命を救われた恩は忘れません。我が国としても、殿下のご英断に深く感謝しております」
殿下が頭を下げた。
「ハインリヒ卿にもご協力いただきました。無茶なお願いを聞いていただきありがとうございました。」
「いえ。殿下の誠意があったからこそ応じたのです」
ハインリヒ卿が微笑んだ。
「それと——これは公式の場で申し上げることではないかもしれませんが」
殿下が待っている。
「私には娘がおります。殿下のような方とご縁があれば、父としてこれ以上のことはありません」
殿下の表情は変わらなかった。
「……光栄なお話です。正式にご検討させていただきます」
外交の顔だった。感情を見せない。何も読めない。
——読めない。
殿下が何を思っているか、わからない。嬉しいのか、困っているのか、何も考えていないのか。
わからないのが、一番つらい。
ハインリヒ卿が退室した後、カイが入ってきた。
「殿下。先ほどの件ですが」
「ああ」
「ハインリヒ卿の令嬢は、今年十七だそうです。評判は良いと聞いています。政治的にも、他国との連携を——」
「わかっている」
殿下が遮った。
「……検討する」
カイが一礼して出ていった。
部屋に殿下とルークと、見えない私が残った。
ルークが窓際で腕を組んでいた。何も言わなかった。殿下も何も言わなかった。
私も何も叩かなかった。壁は近くにあったけど。
◇
評議会が開かれた。
レクト殿下の即位を正式に決議する場。重臣たちが並ぶ。書類が読み上げられる。長い。
全会一致だった。
「レクト殿下を、次期国王として推戴いたします」
拍手。重臣たちが立ち上がった。
殿下が立ち上がった。頭を下げた。深く。
「身に余る光栄です。この国のために——」
言葉が続いた。短い就任の挨拶。殿下の声は落ち着いていた。いつも通りの声。
——殿下が王になる。
壁際にいた人が、王になる。
嬉しい。素直に嬉しい。この人がこの場所に立つのを、ずっと見てきた。透明になった日から。毒杯を弾いた日から。ずっと。
嬉しいのに。
胸の奥が、きゅっと締まった。
式が終わった。人が動き始めた。重臣たちが殿下の周りに集まっている。
殿下の周りに人が増えていく。どんどん。壁際にいた頃には誰もいなかったのに、今は人が途切れない。
私は壁際にいる。
殿下の三歩後ろ。いつもの場所。
——いつまで、ここにいるんだろう。
足が動いた。
殿下の部屋を出た。廊下。夕方の光。窓から差し込む赤が壁に影を作っている。
歩いた。すり足。
礼拝堂が見えた。
あの扉。
押した。重い木が軋んで開いた。
中は薄暗かった。ステンドグラスの光がもう弱い。夕日の最後の赤が、床の石に細い線を引いている。
誰もいない。
扉の向こうに、学園の廊下の音が遠くなっていく。
閉じた。
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