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【完結】断罪された悪役令嬢は存在ごと消されました ~見えません、聞こえません、でも殿下の毒杯くらいは弾けます~  作者: Lihito


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33話:おかえり

礼拝堂は暗かった。


ステンドグラスの色はもう消えている。夕日が落ちた後の、青い暗さ。長椅子の木の匂いと、石の冷たさと、蝋燭の燃え残りの匂い。


誰もいない。


長椅子の端に座った。見えない身体が座っても、木がわずかに軋むだけ。


——ここで、殿下が祈っていた。


「どうか、正しい道を」


あの夜。誰にも聞かれていないと思って、殿下はそう言った。聞いてた。私が。


あの頃は——殿下のそばにいられるだけでよかった。


何もできなくてよかった。透明で、声も出せなくて、壁を叩くこともまだ知らなくて。ただそばにいるだけ。それだけでよかった。


いつから——足りなくなったんだろう。


長椅子の座面を、指で撫でた。木目の凹凸が指先に伝わる。この手で毒杯を弾いた。書類を抜いた。鍵を盗んだ。血のりを広げた。


全部やった。神託の通りに。殿下を助けて、助けて、助け続けて。


殿下は王になった。


——私がいなかったら、殿下はあの入学式の夜に死んでた。


おごりじゃない。事実だ。あの毒杯を弾けたのは私しかいなかった。短剣の男を転ばせたのも。帳簿を見つけたのも。鍵を盗んだのも。全部——私がやった。


殿下が王になれたのは、殿下が正しい人間だったからだ。でも正しい人間が生き残れたのは——


私がいたからだ。


それは嬉しい。嬉しいはずなんだ。殿下が王になったことは素直に嬉しい。


なのに。


——これ以上、何をすればいいの。


指先が冷たい。石の礼拝堂の空気が身体から熱を奪っていく。


何をすれば戻れるの。神託に従った。殿下を助けた。王を倒した。国を救った。もう何も残ってない。やれることは全部やった。


なのに——まだ透明のまま。


声が出ない。姿が見えない。名前を呼んでもらえない。


殿下の隣に、別の人が立つ。顔のある、声のある、名前のある人が。私はまた三歩後ろで壁を叩くだけ。


祭壇の十字架を見上げた。暗い。神様の顔は見えない。


——ねえ。


『元に戻して』


声にならない声。口が動いているだけ。空気が漏れるだけ。


『お願い。元に戻して。もう——もういいでしょう。十分やったでしょう』


何も起きない。祭壇は暗いまま。十字架は黙っている。


『何が足りないの。まだ何か足りないの。殿下を助けた。カイのお母さんを助けた。王を倒した。他に何が——』


涙が出た。


止められなかった。声が漏れた。泣き声。意図しない音。


「——ぅ、っ」


嗚咽が礼拝堂の石壁に反響した。小さい音。でも静かな礼拝堂の中では、どこまでも響く。


『一度だけでいい。一度だけ——殿下に、伝えたい。名前を呼びたい。レクトって——』


声にならない。何度口を動かしても、音にならない。涙だけが落ちていく。見えない頬を伝って、見えない顎から落ちて——


長椅子の座面に、雫が落ちた。


見えた。涙の雫。小さな水滴。木の表面を濡らしている。


——涙は、見えるんだ。


身体から離れた液体は透明化しない。涙は身体が勝手に出すもの。だから——


「——っ、う、ぅ——」


声が止まらない。泣き声が漏れ続けている。もうどうでもよかった。誰にも聞こえない。誰もいない礼拝堂で、誰にも見えない身体で、声だけが——


扉が開いた。


重い木の軋む音。光が差し込んだ。廊下の灯りが、礼拝堂の床を細く照らした。


足音。


「——ここにいたのか、聖女」


殿下の声だった。


息を止めた。泣き声を——止めなきゃ。止まらない。しゃくり上げが喉を押し上げてくる。


殿下が礼拝堂の中に入ってきた。扉が閉まった。暗さが戻る。


足音が近づいてくる。長椅子の列の間を歩いている。


「泣いているのか」


——聞こえてる。


泣き声は意図しない音。くしゃみと一緒で聞こえる。


拭った。見えない手で見えない涙を。でも嗚咽が止まらない。呼吸が震えている。


殿下が立ち止まった。私のいる長椅子の前。少しずれてるけど。


「手を——握らせてくれないか」


差し出された手。殿下の手。蝋燭の残り火が微かに照らしている。


震える手を伸ばした。殿下の手に触れた。


指が重なった。殿下の指が私の指を包んだ。見えない手を。何もない空間を握っている。でも——握り返してくれている。


「……いるな」


殿下の声が、少し震えていた。


「あったかい」


——殿下。そっちの方があったかいよ。私の手、冷たいでしょ。こんなに冷えてるのに、あったかいって。


「聖女。——ずっと、礼を言いたかった」


殿下が長椅子に座った。隣に。見えない私の隣に。手は繋いだまま。


「初めて助けられた時——何が起きたのかわからなかった。杯が弾けて、毒が広がって。あの時死んでいたかもしれないと、後から気づいた」


殿下が私の手を両手で包んだ。


「短剣の男が転んだ時も。帳簿が見つかった時も。離宮の記録庫が燃えた時も」


一つずつ。数えるように。


「全部——お前だったんだろう。ずっと、俺のそばにいて」


『……うん』


声にならない。でも手を握り返した。強く。


「お前がいなかったら、俺はとっくに死んでいた。何度も」


殿下の手に力が入った。


「王になれたのは、お前のおかげだ。——ありがとう」


涙が止まらなかった。殿下の手の甲に雫が落ちた。殿下が少し驚いた顔をした。何もない空間から水滴が落ちてきたのだから。


指で——殿下の手の甲に落ちた雫に触れた。


「……泣いているな」


——泣くよ。泣うに決まってるでしょ。


「もう一つ——ずっと、考えていたことがある」


殿下の声が変わった。少し低くなった。


「あの本を読んでから——『建国期奇譚集』。離宮で読んだ時から、ずっと」


手を握ったまま、殿下が前を向いた。祭壇の方を見ている。暗い十字架を。


「建国王ルヴァイスには、姿の見えない聖女がいた。聖女はルヴァイスを助け続けた。そして最後に——『彼女は還った』と書いてあった」


殿下が一度息を吸った。


「還った。——つまり、戻ったんだ。元に」


——元に?


「その前にもう一行あった。千年で消えていたけど。俺はあの行に何が書いてあったのか、ずっと考えていた」


殿下が私の手を握り直した。


「聖女が還った。その直前に書かれていたこと。——王が聖女を助けた、じゃないかと」


心臓が跳ねた。


「聖女が王を助けた。そして——王が聖女を助けた。それで初めて、聖女は還ることができた」


殿下が振り返った。私のいる方を。ずれてない。まっすぐ。


「そう考えた時——神託の意味が変わった」


『第三王子、助け給え』


殿下が口にした。あの言葉を。入学式の日に降った神託を。


「俺はずっと——民を助けろという意味だと思っていた。王子として、この国のために働けと。だから必死にやってきた」


殿下の目が揺れた。


「でも違ったんじゃないかと。あれは——『王子よ、聖女を助けよ』だったんじゃないかと」


息が止まった。


「聖女を助けろ。この子を助けてやれ。——あの神託は、お前のために降ったんだ」


——私の、ために。


『……え?』


口が動いた。声は出ない。


「それからもう一つ」


殿下の声が静かになった。もっと深い場所から出ている声。


「お前が、誰なのか——ずっと、考えていた」


手を握る力が少し強くなった。


「建国王の聖女がなぜルヴァイスを助けたかは、もうわからない。千年前のことだから。でも——今、俺の前にいるお前が、なぜ俺を助けてくれるのか。それをずっと考えていた」


殿下が少し笑った。小さく。


「この前のくしゃみで——確信した」


——くしゃみ。


あの、会議室での。あの変な。


「あの音を、俺は知っている。ずっと前に聞いたことがある」


殿下の目が真っ直ぐだった。何もない空間を見ている。でも何もなくない。私がいる。ここにいる。


「リゼット」


名前を呼ばれた。


「——君なんだろう」


呼吸が止まった。全部止まった。


『……っ、殿下——』


声にならない。声にならないのに口が動いている。止まらない。


「あんなひどい目にあって——俺は何もしてやれなかった。入学式の日、君が断罪されて消えた時、俺はただ見ていた。何もできなかった」


殿下の声が震えた。


「そんな俺を——ずっと助けてくれていたんだな」


涙が溢れた。もう拭えなかった。殿下の手の上に次々と落ちていく。温かい手の甲の上に、冷たい雫が。


「ありがとう。今まで本当に——ありがとう」


『やめて——お礼なんか——私は、ただ——』


声が出ない。殿下に伝わらない。手を握ることしかできない。握って、震えて、泣くことしか。


殿下が私の手を——見えない手を——そっと持ち上げた。両手で包んで。


「でも——俺も、助けてもらってばかりではいられない」


殿下が祭壇の方を向いた。暗い十字架。神様がいるはずの場所。


「ここに誓う」


声が変わった。王の声だった。壁際の王子ではなく、国を背負うと決めた人間の声。


「レクト・アルベルトは——この先の生涯をかけて、君を元に戻す。何があっても。必ず」


光った。


目を閉じた。眩しすぎて。


手が——殿下の手の中で、熱くなった。指先から何かが流れていくような感覚。身体中が震えている。痛くはない。でも——何かが変わっている。


光が引いた。


目を開けた。


殿下が——私を見ていた。


目が合った。


ずれていない。まっすぐ。私の目を見ている。


「……見える」


殿下の声が掠れた。


「見えるぞ——リゼット」


手を見た。自分の手。殿下の手に包まれている——私の手。


見える。指が見える。肌が見える。


「あ——」


声が出た。


声。自分の声。喉が震えた。空気が声帯を通って、音になった。


「あ、あ——殿下——」


声だ。私の声だ。


殿下がにっこり笑った。


初めて見る笑顔だった。いつもの小さな口元の動きじゃない。目が笑って、頬が上がって、全部が——


「おかえり」


「——ただ、いま——」


声が出るのに、言葉にならない。泣いているから。笑っているから。両方いっぺんに来て、喉が渋滞している。


殿下が私の手を握ったまま、もう片方の手を伸ばした。私の頬に触れた。涙を拭った。


「……泣いてたな、やっぱり」


——殿下。顔、近い。


「リゼット」


「は、い——」


「俺の隣にずっといてくれ。——今度は、見えるところで」


——それ、プロポーズ。だよね。今の。


頷いた。何回も。声が出るのに頷くしかできなかった。涙が止まらなくて、笑ってて、殿下の顔がぼやけて。


殿下が笑っていた。穏やかに。嬉しそうに。


こんな顔するんだ、この人。


礼拝堂のステンドグラスに、光が戻っていた。夕日じゃない。月の光だ。青と赤と金の色が、床の石に静かに落ちている。


殿下の手があったかい。私の手もあったかい。


二人とも、ちゃんとここにいる。


——私の推しは、いつもかっこいい。


【完】

お読みいただきありがとうございました!


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