30話:短剣と手
招待状が届いたのは、エリスさんを匿って二日後のことだった。
殿下が封を切った。金の箔押し。王家の紋章。
「晩餐会への招待。他国の要人を迎えて——次期王候補としての出席を求める、と」
あの後すぐに釈放されたルークが眉を寄せた。
殿下は招待状を机に置いた。しばらく黙って見ていた。
それから、静かに言った。
「同じだ」
ルークが顔を上げた。
「エリスさんが言っていた手口と、同じだ。宴に招いて、毒を盛って、別の誰かに罪を着せる」
部屋の温度が下がった気がした。
殿下が招待状を引き出しにしまった。
「カイに会いに行く」
◇
手紙を書いた。短い手紙。場所と時間だけ。殿下の名前。
三日後。
練武場の裏手。矢を射られた場所。石畳の欠けがまだ残っている。三箇所。
殿下が空き地の中央に立った。
待った。
壁の上に、影が立った。
カイだった。
弓は持っていない。外套を羽織って、壁の上からこちらを見ている。
あの日とは違う。切羽詰まった顔でもない。何かを諦めたわけでもない。ただ——来た、という顔。呼ばれたから来た。それだけ。
壁を降りた。着地。
「殿下。何の御用でしょうか」
丁寧な声。でもあの時より距離がある。従者の敬語ではなく、他人の敬語。
「座ってくれ」
「立ったままで」
「カイ。お前の母親に会った」
言い方が——急だった。殿下にしては。
カイの顔から表情が消えた。全部。何もない顔。
「……何をおっしゃっていますか」
「エリスさん。城の地下にいた。今は安全な場所にいる」
カイは動かなかった。
動かなさすぎた。瞬きもしない。呼吸の音も聞こえない。
「生きている。無事だ」
「……」
カイが一歩下がった。
「何の、つもりですか」
声が変わった。低くなった。
「事実だ」
「事実。——殿下が、なぜ母を知っている。なぜ地下を知っている。誰に聞いた」
「お前を追った」
「追った」
「お前の雇い主が誰か。なぜ逆らえないのか。——それを調べた」
カイの目が細くなった。計算している目。あの頃の目だ。
「殿下。失礼ですが——何が目的ですか」
「目的」
「母を助けた。それを私に伝えた。では、その対価は何ですか」
——カイ。
「恩を売って、私を使うおつもりですか。あの男と同じやり方で」
あの男。現王のこと。カイはそう呼んだ。
殿下の顔が一瞬動いた。怒りではない。痛みに近い何か。
「……そう見えるか」
「見えます」
嘘だ。
嘘だと、私にはわかった。カイの声は固い。でも目が揺れている。信じたいのに信じられない目。信じたら壊れるから信じない目。
殿下が黙った。長い沈黙。
「そうだな。——お前がそう思うのは当然だ」
カイが少し驚いた顔をした。否定されると思っていたのかもしれない。
「お前の父親を殺したのは、俺と同じ王族だ。母親を人質にしたのも。お前が王族を信じられないのは——当然だ」
カイの口が閉じた。
「だから信じろとは言わない。確かめろ」
「確かめる」
「お前の母は今、学園の近くにいる。会いに行ける。俺が嘘をついているかどうか、自分の目で見ればわかる」
カイの手が拳になっていた。外套の下で。
「……本当に」
「本当だ」
「母は——」
「元気とは言えない。だが生きている。お前に会いたがっている」
カイの喉が動いた。言葉を飲み込んだ。
「名前を呼んでいた。あの子は生きているのか、と」
カイが顔を背けた。壁の方を向いた。
——泣いてる?
見えない。外套のフードが影を作っている。でも肩が震えていた。かすかに。
殿下は待った。何も言わなかった。
……殿下。こういう時に黙って待てるの、ずるいよ。
カイが振り返った。目が赤かった。でも泣いた跡を拭った形跡がない。拭わなかったのか、拭えなかったのか。
「殿下。一つ聞かせてください」
「ああ」
「なぜ——私を殺さなかったのですか」
殿下が首を傾げた。
「あの時。正体が割れた時。殿下は私を殺せた。殺す理由があった。なのに見逃した。——なぜですか」
殿下が考えていた。思い出しているのではなく、言葉を探している顔。
「……お前が嘘をついていることは知っていた。最初から全部ではないが、途中からは」
カイは動かなかった。
「それでも——お前が仕えてくれた時間は、嘘だけではなかっただろう」
カイの拳がきつくなった。
「お仕えする振りは嫌いではなかった——そう言っただろう。あれは本心だったんじゃないのか」
カイの唇が震えた。
「……本心、でした」
声が掠れた。
「殿下は——本物でした。仕えた人間の中で、殿下だけが」
言葉が途切れた。
「誰も見ていない場所でも同じだった。壁際に立っていても、何もかも奪われても——殿下は変わらなかった。それが——」
カイが膝をついた。立っていられなくなったのだと思う。
「それが、一番つらかった」
——カイ。
胸が痛い。この人は殿下を殺そうとしていた。毒を盛って、刺客を送って。知っている。全部知っている。
それでも——この人が泣いているのを見たら、胸が痛い。
殿下がカイの前にしゃがんだ。目線を合わせた。
「カイ。お前の父親の話を聞いた。——そして今、同じことが俺に仕掛けられようとしている」
殿下が招待状を出した。カイに見せた。
「晩餐会の招待だ。他国の要人を迎えた席。——お前の父が嵌められた時と、同じ構図だ」
カイの目が変わった。涙の膜の奥で、何かが動いた。
「殿下を——」
「ああ。毒を盛って、俺に罪を着せるつもりだろう」
カイが招待状を見つめた。長い時間。
そして——顔を上げた。
「殿下。申し訳ありませんでした」
穏やかな声だった。静かで、きれいに整った声だった。
何かがおかしい。
さっきまで震えていたのに。泣いていたのに。急に穏やかになった。整いすぎている。
「母を助けていただいたこと、感謝します。そして——殿下に仕えられたことは、本当に」
カイの手が外套の内側に動いた。
銀色が見えた。短い刃。
『——っ!!』
声が出なかった。出せなかった。でも身体が動いた。カイの腕に向かって——
殿下の方が速かった。
カイの肩を掴んでいた。
「死ぬな」
カイの手が止まっている。短剣の切っ先が首に向いている。触れてはいない。
「離してください」
「死ぬな」
「これが——けじめです。殿下に仕えながら殿下を裏切り続けた。その罪は——」
「死んで消えるのか」
カイが黙った。
「消えない。お前が死んでも何も消えない」
殿下の手がカイの肩を握りしめている。力が入っている。
「お前が死んだら——あの人はどうなる」
カイの手が止まった。
「七年間、あの場所で待っていた。お前が生きていると信じて。やっと外に出られた。——その息子が、目の前で死んだら」
「……それは」
「エリスさんに、なんと言う。お前の息子は死にましたと、俺が伝えるのか」
カイの顔が歪んだ。
「やったことは消えない」
殿下が言い切った。
「お前が俺を殺そうとしたことは消えない。全部覚えている」
カイの目から涙が落ちた。今度は隠さなかった。
「だから死ぬな。逃げるな。——生きて返せ」
カイの手から短剣が落ちた。
石畳に当たった。乾いた金属音。
カイが崩れた。肩を掴まれたまま。
「すみません——」
声が割れていた。
殿下は黙って、手を離さなかった。
私は壁際にいた。見えない手で口を押さえていた。
何もできなかった。声を出せたら止められた。カイが刃を自分に向けた瞬間、叫べたら。でも声は出ない。身体は動いたけど、殿下の方が速かった。
——私は、こういう時に何もできない。
いつもそうだ。見ているだけ。壁を叩くだけ。物を動かすだけ。
目の前で人が壊れていくのを見ているのに。
足元の石を踏んだ。音が鳴った。小さく。自分でも聞こえるかわからないくらいの音。
でもカイが顔を上げた。
涙の跡の顔で、空き地を見ている。何もない空間を。
「……加護が、いるのですね」
殿下が頷いた。
「お前の母を見つけたのも、鍵を盗んだのも、連れ出したのも——この加護だ」
カイが、何もない空間に向かって頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
——やめて。お礼なんか言わないで。私は何もできなかった。今だって何も。
涙が出そうだった。出たら声が出る。
唇を噛んだ。
殿下が立ち上がった。カイに手を差し出した。
「立て。——やることがある」
カイがその手を見ていた。長い時間。
取った。
立ち上がった。
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