29話:見えない手
夜。
城の鐘が二つ鳴った。昨夜と同じ時間。
階段を降りた。
交代が終わった直後。新しい衛兵が椅子に座ったばかり。姿勢を直している。まだ落ち着いていない。
——今しかない。
壁際を進んだ。足音を殺して。衛兵の横。椅子の背。
腰帯の鍵束が見えた。革紐が結ばれている。
手を伸ばした。
指先が革紐に触れた。衛兵の体温が伝わってくる。気持ち悪い。でも動く。
紐を引いた。ゆっくり。金属が触れ合わないように、鍵束の下を左手で支えている。
紐がほどけた。
鍵束が手の中に落ちた。重い。冷たい。
衛兵は前を向いたまま動かない。気づいていない。
——取れた。
心臓がうるさい。聞こえるんじゃないか。この鼓動。
息を止めたまま、通路の奥へ。ルークの牢の前を通り過ぎた。暗い中で、ルークの目が光った。こちらを見ている——見えないけど、何かが動いたのがわかったのかもしれない。
三つ先。
あの扉の前に立った。鍵を探す。五本ある。どれが合うかわからない。
一本目。入らない。
二本目。入った。回らない。
三本目。入った。回った。重い鉄の手応え。
錠が外れた。扉を引いた。蝶番がきしむ。——小さく。お願い、小さく。
開いた。
暗い部屋の中。寝台の上に影がある。
動いた。女の人が身を起こした。
「——誰」
声が掠れていた。
——声が出ない。出せない。
手を伸ばした。暗闇の中で。女の人の手を探した。
指が触れた。
女の人が息を呑んだ。
「誰かいるの。——何も見えない」
手を握った。引いた。立って、という意味で。
女の人が震えていた。
「あなたは——何」
答えられない。
引いた。もう一度。扉の方へ。
女の人が立ち上がった。足元がおぼつかない。長く歩いていない足。
手を引いて、扉から出た。鍵を閉め直す。閉めなきゃ、衛兵が気づく。
——待って。閉めたら、空の牢になる。衛兵が次に覗いたらいないことがバレる。
閉めるしかない。今はそれしかできない。バレる前に城を出る。
鍵束を衛兵の椅子の脇に置いた。腰には戻せない。でも床に落ちていれば、外れただけに見えるかもしれない。
——時間との勝負だ。
衛兵の前を通らなきゃいけない。
手を止めた。女の人の手を握り直した。唇に指を当てる仕草——見えない。
足を止めてもらうしかない。手を強く握った。動くな、の合図。
衛兵を見た。椅子に座っている。前を向いている。
——通れない。この人は透明じゃない。見える。衛兵の目の前を通ったら終わり。
どうする。
ルークの牢の前を通る時、鉄格子の向こうからルークの声がした。
「おい、衛兵」
衛兵が振り返った。ルークの方へ。
「水が欲しいんだが」
「今は——」
「王族への暴行で入れられた身でも水くらい出るだろ」
衛兵が椅子から立ち上がった。ルークの牢の方に歩いていく。背中をこちらに向けた。
——今。
女の人の手を引いた。走るように、でも走れない。この人の足は長く歩いていない足だから。早歩き。裸足の足音。小さく。
衛兵の背中の横を通り過ぎた。暗がりの中。
階段の下まで来た。上がる。一段ずつ。女の人が息を切らしている。
「……どこに、行くの」
答えられない。手を引くしかない。
階段を上がりきった。上の廊下。衛兵はいない。深夜の城は人が少ない。
殿下が待っていた。
廊下の角。壁に背をつけて立っている。足音を聞いて——こちらを向いた。
女の人を見た瞬間、殿下の目が変わった。
「……こちらです。ついてきてください」
殿下が先に歩いた。女の人が殿下を見ている。王族の身なり。紋章。
「あなたは——」
「第三王子、レクトです。話は後で。今は安全な場所へ」
女の人の足が止まった。
「……王子」
恐怖。目が怯えている。この人にとって王族は——閉じ込めた側だ。
殿下が振り返った。女の人を見ている。穏やかな目。
「あなたを助けに来ました」
女の人の膝が折れかけた。殿下が一歩戻って、腕を差し出した。
「歩けますか」
「……歩ける」
声が震えていた。
殿下が歩き出した。女の人がその後ろをついていく。私は——この人の隣にいた。見えないけど。手を離さないまま。
◇
城を出た。裏門。殿下が事前に手配していた馬車。御者は殿下の手の者——この人がどういう人なのかは私にはわからない。
馬車の中。狭い。殿下と女の人が向かい合っている。私は床。いつもの場所。
揺れている。窓の外は暗い。街灯がまばらに流れていく。
女の人は座席の端で小さくなっていた。殿下を見ている。信じていいのかわからない顔。
「名前を聞いてもいいですか」
殿下が静かに言った。
「……エリス」
「エリスさん。あなたの息子は——カイ、という名前ですか」
女の人の目が開いた。
「カイを——知っているの」
殿下が頷いた。
「俺の従者でした」
エリスの手が膝の上で震えた。
「……あの子は、生きているの」
「生きています」
エリスが目を閉じた。唇が震えている。声は出なかった。
しばらく揺れだけがあった。馬車の車輪が石畳を叩く音。遠くで犬が吠えた。
「聞かなければならないことがあります」
殿下の声が低くなった。
「あなたがなぜあそこにいたのか。カイがなぜ——あの男に従っているのか」
エリスが顔を上げた。
「あの男。——王のこと?」
殿下が頷いた。
エリスは窓の外を見た。暗い景色。何も見えない窓。
「……あの人は、夫を殺した」
殿下が動かなかった。
「夫は軍にいた。真面目な人だった。出世には興味がなくて、ただ仕事をしていた」
声が細い。でも止まらなかった。
「七年前。他国の要人が王宮の晩餐会で亡くなった。毒だった。——夫は、その場にいた」
「罪を着せられた」
「翌日には捕まっていた。裁判は三日で終わった。証拠が揃っていた。全部でたらめだったのに」
エリスの手が握りしめられている。爪が掌に食い込んでいる。
「夫は処刑された。——私は連れ去られた。カイはまだ小さかった」
「カイを取り上げた」
「あの男は言った。お前の息子は優秀だ。使ってやる。お前が大人しくしていれば殺さない、と」
殿下が目を伏せた。
私は床に座ったまま、手で口を押さえていた。透明な手で。
——この人が、あの牢にいた理由。カイが、逆らえなかった理由。
全部、あの椅子に座っていた男のせいだ。杯がぬるいと文句を言っていた男。
「毒殺の手口は、あの男のものですか」
殿下が聞いた。
エリスが頷いた。
「夫だけじゃない。以前にもあった。邪魔な人間を宴に呼んで、毒を盛って、別の誰かに罪を着せる。同じやり方を何度も——」
「同じ手口を」
殿下が呟いた。
馬車が揺れた。車輪が段差を越えた音。
殿下は窓の外を見ていた。何かを考えている顔。静かで、でも奥の方で何かが動いている目。
「エリスさん。あなたを安全な場所に匿います。それから——」
殿下がこちらを見た。私のいる方向を。ずれてるけど。
「カイに会いに行きます」
エリスの手が跳ねた。
「カイに——会えるの」
「会います。伝えなければならないことがある」
エリスの目から涙がこぼれた。声もなく。頬を伝って、顎から落ちて、膝の上の手に落ちた。
「……ありがとう。ありがとう——」
殿下が首を振った。
「礼には及びません。——遅すぎたくらいです」
馬車が走っている。夜が明ける前に学園に戻らなければならない。
エリスが泣いている。殿下が黙っている。
私は床に座って、見えない手で見えない涙を拭いていた。
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