27話:三人分の足音
従者の足音が遠ざかっていく。
さっきの言葉が頭の中で回っている。地下の食事。死なれたら意味がない。カイを急かせろ。
——そして、ネズミか。
あの男がこちらを見た。扉の隙間。私がいる場所を。目が通り抜けた。何もないと判断した。ネズミだと言った。
見えていなかった。でも——あの瞬間、足の裏から血が引いた感覚がまだ残っている。
従者の靴音が角を曲がった。
追うか、戻るか。
足が動いていた。考える前に。地下に誰かがいる。それを確かめなきゃいけない。
すり足。従者の足音に自分の歩調を重ねた。あの男が歩いている間だけ、私の音は紛れる。
細い通路に入った。燭台の灯りが一つ、また一つ減っていく。壁の石が粗くなった。
階段。
下りていく。空気が変わった。湿って、冷たい。天井が近くなる。壁が狭まる。
階段の底に衛兵がいた。
二人。槍を持って、通路の両側に立っている。
心臓が跳ね上がった。足を止めかけた。——止めたら従者との足音のずれで気づかれる。
そのまま歩いた。従者のすぐ後ろ。一歩分の距離。衛兵の横を通り抜ける。
槍の柄が目の前にある。私の肩の高さ。触れたら鳴る。身体を細くした。見えないのに身体を細くしている。意味がないのに、そうしないと怖くて通れない。
通った。
衛兵は動かなかった。従者に敬礼して、そのまま前を向いている。
息を殺したまま、従者の後を追った。鉄格子の扉が並ぶ通路。ほとんどは暗い。空なのか、何かいるのかもわからない。
従者が一つの扉の前で止まった。鍵を出す。鉄が擦れる音が低い天井に跳ねた。扉が開く。
肩越しに覗いた。
石壁。窓のない部屋。隅に寝台。
人がいた。
女の人。寝台の端に座っている。痩せている。髪が伸びたまま、顔がよく見えなかった。
従者が盆を置いた。パンと水。
女の人は動かなかった。盆を見なかった。壁を見ていた。
扉が閉まる。鍵がかかる。
従者が戻り始めた。ついていく。また衛兵の横。また身体を細くする。また槍の柄が目の前を通り過ぎる。
階段を上がった。一段ごとに、さっきの部屋が遠くなる。
あの女の人の目が、頭から消えない。何かを待つのをやめた目だった。
◇
殿下のいる部屋の前まで戻った時、膝が震えていた。
あの男の部屋にいた時のことが、今になって押し寄せてくる。
加護であれ何であれ、邪魔なら消す——あの男はそう言った。
私のことだ。
あの椅子に座った男は、私を殺せと命じている。カイに。矢を射ってきたのもそういうことだ。
そして私は、その男の部屋の扉の前に立って、ネズミと呼ばれた。
壁に額を押しつけた。石が冷たい。目を閉じる。
——大丈夫。生きてる。見つかってない。
こん。
壁を叩いた。扉の向こうで椅子が引かれる音。
開いた。殿下が立っていた。
こっちを見ている。少しずれてるけど。
「……戻ったか」
こん。
殿下の肩が下がった。ほんの少し。
——そういう反応、ずるい。今すごくしんどいのに。それ見たら泣きそうになる。
泣かない。泣いたら声が出る。
部屋に入った。ルークが奥の椅子から立ち上がった。殿下が扉を閉めた。
◇
「何か見つけたか」
こん。
殿下が机に手をついた。次の質問を探している。
「人を見たか」
こん。
「……父上を見たか」
声が少し低くなった。父上。その二文字を口にする前に間があった。
こん。
「父上が、誰かに指示を出していたか」
こん。
「カイに関わることか」
こん。
長い沈黙。蝋燭の芯がぱちっと鳴った。
殿下が目を閉じた。開いた。
「父上が、カイの雇い主か」
こん。
部屋の中の音が全部止まった気がした。殿下は椅子に座らなかった。立ったまま、机の縁を握っている。指が白い。
ルークが何か言いかけて、やめた。
「カイは自分の意思でやっているわけではないのか」
こん、こん。
「逆らえないのか」
こん。
殿下が息を吐いた。長い息。それからまた質問を組み立てようとしている。目が泳いでいる。こんな殿下、あんまり見たことない。
「なぜ逆らえない。金か」
こん、こん。
「地位か」
こん、こん。
「借りがあるのか」
こん、こん。
「過去に何かあるのか」
——わからない。あの女の人が何なのか。カイとどう繋がるのかも。
こん、こん、こん。
「三回?わからないってことか?」
こん。
殿下が黙った。
「脅されているのか」
こん。
「何で脅されている——わかるか」
こん、こん、こん。
何かを見た。何かを聞いた。でもそれがカイとどう繋がるか、はっきりとは言えない。
殿下が目を伏せた。行き詰まった。
伝えたいことがある。地下に誰かがいた。鉄格子の向こうに女の人が座っていた。あれがたぶん——でも「はい」か「いいえ」では届かない。
声が出たら一言で済む。「地下に人がいます」。たった八文字。
壁を叩いても、八文字は届かない。
ルークが腕を組んだまま、天井を見ていた。
「なあ」
殿下が顔を上げた。
「聖女さんは何か見たんだろ。でも言葉じゃ伝えられない。——なら、場所に案内してもらえばいいんじゃないか。見たものがどこにあるのか、連れてってもらえば」
殿下が壁際を見た。
「案内できるか」
こん。
「この城の中か」
こん。
殿下がルークを見た。ルークが頷いた。
扉を開けた。廊下に出た。
さっきの道。覚えている。紋章の廊下を奥へ。窓が小さくなっていく区画。
足音を少しだけ出した。すり足を緩めて、靴底が石畳を擦る微かな音。殿下がそれを追って後ろについてくる。ルークが並ぶ。
角を曲がった。細い通路。燭台の灯り。
あの階段が見えた。下に続く暗い段差。冷たい空気が底から這い上がってくる。
立ち止まった。
こん。壁を叩いた。
殿下が階段を見下ろした。暗い。底は見えない。
一歩、降りかけた。
下から声がした。衛兵の声。何を言っているかは聞こえない。でも人がいる。
殿下が足を戻した。
ルークが鼻を鳴らした。
「衛兵つきか。——ここは地下牢だな」
殿下は階段の闇を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「ここの下に、原因があるんだな」
こん。
「人質が、いるのか」
こん。
殿下の横顔が燭台の灯りに照らされている。影が深い。父親の城の地下に、父親が誰かを閉じ込めている。その意味を噛んでいる顔。
「……今は降りられない。だが場所はわかった」
ルークに目を向けた。
「次に来る時に——ここを開ける方法を考える」
ルークが頷いた。静かに。
来た道を戻った。殿下の足音とルークの足音。その間に、私の足音が微かに混じっている。
三人分の足音。
誰にもそうは聞こえないけど。
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