25話:矢と影
廊下で、生徒が道を開けた。
前からそうだった。殿下は王子だから。でも質が違う。避けているのではなく、場所を譲っている。すれ違いざまに目を逸らさなくなった。
教官が殿下に声をかけた。
「レクト殿下。先日の件、学生課でも話題になっておりまして」
「恐縮です」
「いえいえ。今度ぜひ、殿下のお考えを——」
一ヶ月前にはなかった光景。壁際の王子の周りに、少しずつ人が集まっている。
嬉しい。素直に嬉しい。何ヶ月かかったかわからないけど、やっと、この人が正しく見られるようになった。
三歩後ろを歩く。すり足。最近は油断すると足音が鳴る。ほんの微かに、石畳を擦る音。気をつけていれば抑えられる。でも気を抜くと——
殿下の周りだけが変わっていく。私はまだ、ここにいる。
◇
手紙は夕方に届いた。
殿下の部屋。ルークが封筒を持ってきた。
「手紙来てたぞ。差出人——」
裏返した。
「……カイ?」
殿下の手が止まった。
ペンを置いた。椅子を引かずに、手だけで封筒を受け取る。封を切る。中の紙は小さかった。
殿下の目が動いた。二行。それだけ読んで、紙を畳んだ。
「ルーク。少し出る」
「は? 今から? ——おい、一人で行くなよ」
「一人で行く」
「だから——」
「カイは、一人で来いと書いている」
ルークの顔が険しくなった。
「罠だろ、どう考えても」
「わかっている」
「わかってて行くのか」
殿下が立ち上がった。上着を羽織る。ルークが腕を掴んだ。
「……俺も行く」
「来るな」
「来るなって——」
「ルーク」
静かな声だった。怒りではない。もっと奥から出ている声。
「カイに聞きたいことがある。あいつが俺の前に出てくるなら、理由がある」
ルークの手が離れた。納得ではない。諦めに近い顔。
「……死ぬなよ」
「死なない」
殿下が部屋を出た。
——私もついていく。
そんなの、考えるまでもない。
◇
練武場の裏手。
学園の敷地の外れにある空き地。古い石壁に囲まれて、雑草が石畳の隙間から伸びている。馬術の練習に使われていた場所だと聞いたことがあるけど、今は誰も来ない。
夕日が壁の上を這っていた。影が長い。
殿下が空き地の中央に立った。周囲を見ている。
風の音。遠くで鳥。石壁の向こうから、かすかに学園の生活音。夕食の鐘が鳴るにはまだ少し早い時間。
——誰もいない?
首の後ろがざわざわした。
何かが空を切った。
音が先だった。ひゅ、と。耳の横を通った。
足元から二歩の場所で、石畳が弾けた。矢が突き立っている。羽根が震えている。
動けなかった。
二本目。
右側。さっきまで立っていた場所。石畳が割れて、破片が足首に当たった。痛い。
『——っ!!』
声にならない。でも身体が動いた。殿下の方へ。
三本目が来た。殿下と私の間の地面。
殿下が動いた。
矢が飛んできた方向を見ていない。矢が刺さった場所を見ている。三本。自分には当たっていない。自分の周囲——何もないはずの空間に、正確に落ちている。
腕を広げた。
何もない空間を庇っている。見えない誰かがそこにいると信じて。
「——出てこい」
声が石壁に跳ね返って、少し遅れて返ってきた。
沈黙。
壁の上に、影が立った。
カイだった。
弓を持っている。背中に矢筒。外套を羽織っているけど、従者の制服ではなかった。
殿下が腕を下ろさないまま、見上げている。
カイが壁を降りた。軽い着地。でも靴が石を叩く音が硬い。
「……お久しぶりです、殿下」
声は丁寧だった。いつもの敬語。でも——間が短い。言葉と言葉の隙間が詰まっている。
前と違う。学園を辞めた時とも、学園祭に現れた時とも。あの時はまだ余裕があった。笑う隙間があった。今のカイの顔には、それがない。
「カイ。何のつもりだ」
「確認です」
カイの目が殿下から外れた。殿下の周囲を見ている。矢が刺さった三箇所を、順番に。
「やはり——加護は、いらっしゃるのですね」
息が止まった。
「そして——殺せるものだ」
矢が刺さった場所。私がいた場所。あれが当たっていたら。
殿下の目が変わった。
「お前、何を——」
「今回は外しました」
カイが弓を下ろした。弦を外す。その手が、かすかに震えていた。
「次は外しません」
殿下が一歩踏み出した。カイが一歩下がった。距離は変わらない。
「待て」
「待てません」
声が揺れた。一瞬だけ。すぐに戻した。でも聞こえた。
殿下が足を止めた。カイを見ている。長く。
「……カイ。お前——」
「失礼します」
背を向けた。石壁に手をかけて跳び上がる。壁の向こうに消えた。
足音が遠ざかっていく。速い。走っている。
殿下が立ったまま、カイが消えた壁を見ていた。
「……あの目は」
独り言。聞こえるかどうかの声。
「追い詰められている人間の目だ」
風が吹いた。空き地の雑草が揺れた。矢が三本、石畳に刺さったまま残っている。
◇
足が震えていた。
石壁に背中をつけて、ずるずると座り込んだ。
怖い。
あの矢は殿下じゃなくて私に飛んできた。見えないのに。姿も声もないのに。それでも矢は刺さる。当たれば死ぬ。
当たり前のこと。当たり前のことなのに、今まで考えたことがなかった。透明なら安全だと、どこかで思っていた。
——私、死ぬんだ。ここで死んだら、誰にも見つからないまま。
手が震えている。指先が冷たい。
殿下が振り返った。空き地を見回している。少しずれてるけど、私のいる方向を。
「聖女」
壁を叩く力が残っていなかった。
「……無事か」
こん。
震える拳で、石壁を一回叩いた。
殿下が息を吐いた。長く。肩の力が抜けるのが見えた。
「すまない。巻き込んだ」
違う。自分でついてきた。ついていかない選択肢なんかなかった。
でも——次も、こうなるかもしれない。カイは次は外さないと言った。あの声は、本気だった。震えていたけど、本気だった。
殿下が矢を一本引き抜いた。矢じりを見ている。
「練武場用ではないな。——殺傷用だ」
矢が飛んできた直後に矢じりの種類を確認している。
——殿下、そういうとこ。
笑えない。笑えないのに口元が動きそうになった。たぶん泣き笑い。
殿下が三本の矢を集めて、懐にしまった。空き地を出ようとして、振り返った。
「ついてこい。——ついてきているんだろう」
こん。
壁を叩いた。一回。
殿下が小さく頷いて、歩き出した。
その背中を追った。足が震えたまま。すり足が雑になって、微かに音が鳴った。
殿下の足が、一瞬だけ止まった。
——聞こえた?
でも何も言わなかった。そのまま歩いた。
私もついていった。
夕日が落ちかけている。石壁を越えた影が、二人分の長さになれない。殿下の影だけが、長く伸びている。
矢が空を切った音が、まだ耳の横に残っていた。
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