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【完結】断罪された悪役令嬢は存在ごと消されました ~見えません、聞こえません、でも殿下の毒杯くらいは弾けます~  作者: Lihito


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25話:矢と影

廊下で、生徒が道を開けた。


前からそうだった。殿下は王子だから。でも質が違う。避けているのではなく、場所を譲っている。すれ違いざまに目を逸らさなくなった。


教官が殿下に声をかけた。


「レクト殿下。先日の件、学生課でも話題になっておりまして」


「恐縮です」


「いえいえ。今度ぜひ、殿下のお考えを——」


一ヶ月前にはなかった光景。壁際の王子の周りに、少しずつ人が集まっている。


嬉しい。素直に嬉しい。何ヶ月かかったかわからないけど、やっと、この人が正しく見られるようになった。


三歩後ろを歩く。すり足。最近は油断すると足音が鳴る。ほんの微かに、石畳を擦る音。気をつけていれば抑えられる。でも気を抜くと——


殿下の周りだけが変わっていく。私はまだ、ここにいる。





手紙は夕方に届いた。


殿下の部屋。ルークが封筒を持ってきた。


「手紙来てたぞ。差出人——」


裏返した。


「……カイ?」


殿下の手が止まった。


ペンを置いた。椅子を引かずに、手だけで封筒を受け取る。封を切る。中の紙は小さかった。


殿下の目が動いた。二行。それだけ読んで、紙を畳んだ。


「ルーク。少し出る」


「は? 今から? ——おい、一人で行くなよ」


「一人で行く」


「だから——」


「カイは、一人で来いと書いている」


ルークの顔が険しくなった。


「罠だろ、どう考えても」


「わかっている」


「わかってて行くのか」


殿下が立ち上がった。上着を羽織る。ルークが腕を掴んだ。


「……俺も行く」


「来るな」


「来るなって——」


「ルーク」


静かな声だった。怒りではない。もっと奥から出ている声。


「カイに聞きたいことがある。あいつが俺の前に出てくるなら、理由がある」


ルークの手が離れた。納得ではない。諦めに近い顔。


「……死ぬなよ」


「死なない」


殿下が部屋を出た。


——私もついていく。


そんなの、考えるまでもない。





練武場の裏手。


学園の敷地の外れにある空き地。古い石壁に囲まれて、雑草が石畳の隙間から伸びている。馬術の練習に使われていた場所だと聞いたことがあるけど、今は誰も来ない。


夕日が壁の上を這っていた。影が長い。


殿下が空き地の中央に立った。周囲を見ている。


風の音。遠くで鳥。石壁の向こうから、かすかに学園の生活音。夕食の鐘が鳴るにはまだ少し早い時間。


——誰もいない?


首の後ろがざわざわした。


何かが空を切った。


音が先だった。ひゅ、と。耳の横を通った。


足元から二歩の場所で、石畳が弾けた。矢が突き立っている。羽根が震えている。


動けなかった。


二本目。


右側。さっきまで立っていた場所。石畳が割れて、破片が足首に当たった。痛い。


『——っ!!』


声にならない。でも身体が動いた。殿下の方へ。


三本目が来た。殿下と私の間の地面。


殿下が動いた。


矢が飛んできた方向を見ていない。矢が刺さった場所を見ている。三本。自分には当たっていない。自分の周囲——何もないはずの空間に、正確に落ちている。


腕を広げた。


何もない空間を庇っている。見えない誰かがそこにいると信じて。


「——出てこい」


声が石壁に跳ね返って、少し遅れて返ってきた。


沈黙。


壁の上に、影が立った。


カイだった。


弓を持っている。背中に矢筒。外套を羽織っているけど、従者の制服ではなかった。


殿下が腕を下ろさないまま、見上げている。


カイが壁を降りた。軽い着地。でも靴が石を叩く音が硬い。


「……お久しぶりです、殿下」


声は丁寧だった。いつもの敬語。でも——間が短い。言葉と言葉の隙間が詰まっている。


前と違う。学園を辞めた時とも、学園祭に現れた時とも。あの時はまだ余裕があった。笑う隙間があった。今のカイの顔には、それがない。


「カイ。何のつもりだ」


「確認です」


カイの目が殿下から外れた。殿下の周囲を見ている。矢が刺さった三箇所を、順番に。


「やはり——加護は、いらっしゃるのですね」


息が止まった。


「そして——殺せるものだ」


矢が刺さった場所。私がいた場所。あれが当たっていたら。


殿下の目が変わった。


「お前、何を——」


「今回は外しました」


カイが弓を下ろした。弦を外す。その手が、かすかに震えていた。


「次は外しません」


殿下が一歩踏み出した。カイが一歩下がった。距離は変わらない。


「待て」


「待てません」


声が揺れた。一瞬だけ。すぐに戻した。でも聞こえた。


殿下が足を止めた。カイを見ている。長く。


「……カイ。お前——」


「失礼します」


背を向けた。石壁に手をかけて跳び上がる。壁の向こうに消えた。


足音が遠ざかっていく。速い。走っている。


殿下が立ったまま、カイが消えた壁を見ていた。


「……あの目は」


独り言。聞こえるかどうかの声。


「追い詰められている人間の目だ」


風が吹いた。空き地の雑草が揺れた。矢が三本、石畳に刺さったまま残っている。





足が震えていた。


石壁に背中をつけて、ずるずると座り込んだ。


怖い。


あの矢は殿下じゃなくて私に飛んできた。見えないのに。姿も声もないのに。それでも矢は刺さる。当たれば死ぬ。


当たり前のこと。当たり前のことなのに、今まで考えたことがなかった。透明なら安全だと、どこかで思っていた。


——私、死ぬんだ。ここで死んだら、誰にも見つからないまま。


手が震えている。指先が冷たい。


殿下が振り返った。空き地を見回している。少しずれてるけど、私のいる方向を。


「聖女」


壁を叩く力が残っていなかった。


「……無事か」


こん。


震える拳で、石壁を一回叩いた。


殿下が息を吐いた。長く。肩の力が抜けるのが見えた。


「すまない。巻き込んだ」


違う。自分でついてきた。ついていかない選択肢なんかなかった。


でも——次も、こうなるかもしれない。カイは次は外さないと言った。あの声は、本気だった。震えていたけど、本気だった。


殿下が矢を一本引き抜いた。矢じりを見ている。


「練武場用ではないな。——殺傷用だ」


矢が飛んできた直後に矢じりの種類を確認している。


——殿下、そういうとこ。


笑えない。笑えないのに口元が動きそうになった。たぶん泣き笑い。


殿下が三本の矢を集めて、懐にしまった。空き地を出ようとして、振り返った。


「ついてこい。——ついてきているんだろう」


こん。


壁を叩いた。一回。


殿下が小さく頷いて、歩き出した。


その背中を追った。足が震えたまま。すり足が雑になって、微かに音が鳴った。


殿下の足が、一瞬だけ止まった。


——聞こえた?


でも何も言わなかった。そのまま歩いた。


私もついていった。


夕日が落ちかけている。石壁を越えた影が、二人分の長さになれない。殿下の影だけが、長く伸びている。


矢が空を切った音が、まだ耳の横に残っていた。

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