24話:正しい場所
審理室は前と同じ部屋だった。同じ長机、同じ椅子、同じ窓からの光。エルドが正面に座って、その隣にユリウス。殿下が手前の席についている。裁定官が三人、壁際に並んでいた。
ルークは廊下。殿下の付き添いとして認められたのはそこまでだった。その後ろに、三人の女性がいるはず。
私は壁際に入った。すり足で。
エルドが書類を広げた。金具を外して、ページを開く。丁寧な手つき。前と同じだった。
始まった。
手続きの不備。権限の逸脱。証拠の取り扱い。一つずつ、同じテンポで、同じ温度で。殿下の調査がいかに逸脱していたか。評議会への申請を経ていないこと。証言者への接触が不適切だったこと。
前と同じだ。同じ声。同じ速さ。同じ手つきでページがめくられていく。
でも殿下が違った。前は拳が白くなっていた。今は膝の上に手を置いて、力が入っていない。エルドの言葉を一つずつ聞いている。揺れていない。
——殿下。なんでそんな顔でいられるの。
私の方がよっぽど心臓が痛い。
エルドのページが五枚目に入った。殿下の視線が一度だけ私のいる壁際に向いた。ずれているけど、そっちを見た。
——大丈夫。いるよ。
裁定官が殿下を見た。
「申立人。反論はありますか」
殿下が口を開いた。
「手続きに不備があったことは認めます」
エルドの指が止まった。
「評議会への申請を経ずに議事録を閲覧しました。証言者への接触も、然るべき手順を踏んでいたとは言えません。その点は、異論ありません」
裁定官が顔を見合わせた。エルドの目が細くなった。
「ですが、それと——私が言い残したいことは別の話です」
「言い残したいこと?」
裁定官の一人が促した。
殿下がユリウスを見た。それから、エルドを見た。
「ユリウス兄上には、助けてもらいました」
ユリウスの表情がわずかに動いた。
「情報を提供してもらった。相談にも乗ってもらった。——エルド兄上の話もよく聞かせてもらいました」
エルドの視線がユリウスに向いた。
「あの人なりに、この国の行く末を案じていたのだと思います。誰がこの国を率いるべきか——そういう話を、率直に聞かせてくれました」
殿下の声は穏やかだった。感謝を述べているだけに聞こえる。ユリウスへの好意的な言葉に聞こえる。
でもエルドの顔には、そうは届いていなかった。
エルドの指がページの端を押さえた。ユリウスを見ている。目が冷たくなっていく。
——刺さった。
ユリウスがエルドを見た。エルドの目を見て、ほんの一瞬、体が固くなった。
それからユリウスが笑った。いつもの軽い笑み。でも——目が笑っていなかった。
「なあ、エルド兄」
「今は審理の場だ」
「審理ね。じゃあ審理の場で聞くけどさ」
ユリウスが足を組み替えた。
「俺を切るつもりだろ」
エルドが答えなかった。
「部屋に入られてるって怒ってたよな。栞がなくなったって。——俺だと思ってるんだろ」
「私的な話は後にしろ」
「後なんかあるのか? レクトを潰したら次は俺だろ。——最初からそのつもりだったんじゃないのか」
ユリウスの声はまだ軽い。でも椅子の背を掴む指が白くなっていた。
「お前の正義はいつもそうだ。使える間は使って、邪魔になったら裁く側に回る。正義って便利だよな。どっち側にでも立てるから」
エルドの顎が引き締まった。
「黙れ。審理を妨害するなら——」
「妨害? お前がやってることの方がよっぽど——」
私は廊下側の壁を叩いた。こん、こん、こん。
扉が開いた。
ルークが入ってきた。後ろに女性が三人。一人は裏庭で泣いていた人だった。目が赤かったけれど、今はまっすぐ前を見ている。
「裁定官。第二王子による被害を証言する女性がおります」
裁定官がルークと女性たちを見た。ユリウスが三人を見た。
笑みが浮きかけて、止まった。
エルドが立ち上がった。裁定官を見ず、ユリウスを見ていた。
「裁定官。証言の聴取を許可いただきたい」
——エルドが食いついた。
裁定官が頷いた。
裏庭の女性が前に出た。声が震えていた。でも話し始めた。名前は言えない。でもユリウスに何をされたか。どう近づかれて、何を囁かれて、飽きたらどう捨てられたか。
二人目が続いた。三人目が続いた。
ユリウスは座ったまま動かなかった。足を組み替えることもしなかった。
エルドが証言を聞いている間、殿下のことは見なかった。ユリウスだけを見ていた。裁ける相手を見る目。飢えた目。
「第二王子」
エルドの声が低くなった。
「これだけの証言がある。女性に対する——」
「うるさいな」
ユリウスが遮った。声が変わっていた。軽さが消えていた。
「お前に裁かれる筋合いはない。お前だって同じだろ。正義面して、裏では不正を見て見ぬ振りして、都合が悪くなったら弟を軟禁して——」
「黙れ」
「黙らない」
ユリウスが上着の内側から紙束を取り出した。折り畳まれていた。広げた。机の上に叩きつけた。
殿下の字だった。最後のページの右下に、殿下の署名がある。
「これはレクトが俺に渡した調査資料だ。中身はお前の派閥の不正の証拠だよ。帳簿の改竄。業者への圧力。——お前はこれを捏造だって言ったよな」
エルドが紙束を見た。
「捏造だって言って、レクトを軟禁した。正しい手続きだって言ってな。——じゃあ聞くけど」
ユリウスがエルドの目を見た。
「捏造なら、なんで証言者を全員黙らせた?」
審理室が静まった。
「捏造なら放っておけばいいだろ。検証すれば嘘だってわかるんだから。でもお前は検証しなかった。証言者に圧力をかけて、証拠を先回りして潰した」
ユリウスが笑った。渡り廊下で仮面が外れた夜と同じ、薄い笑い。
「潰したのは、本物だったからだろ」
エルドの顔から色が引いていた。
裁定官の一人が紙束を手に取った。ページをめくっている。
殿下が立ち上がった。
「裁定官」
静かな声だった。怒りも、勝ち誇りもない。事実を述べる声。
「私の調査資料は、捏造ではありません。それは今、ユリウス兄上自身が証明してくれました」
殿下がエルドを見た。
「エルド兄上。あなたは私の調査を——捏造と呼ばれても仕方のない行為だ、と仰った。その上で軟禁を命じた。しかし、捏造であるなら証拠を隠滅する必要はなかったはずです」
エルドの口が開いた。閉じた。
「証言者への圧力。証拠の先回りした処分。すべて、私の調査が事実に基づいていたから行われたことです。——兄上はそれを知っていた」
裁定官が三人とも殿下を見ていた。
「そして、ユリウス兄上は今、この場で自ら——私から調査資料を受け取ったと明言しました。私の味方を装い、情報をエルド兄上に流していたことも認めました」
ユリウスが殿下を見た。何かを言いかけて、やめた。
「私の異議申し立ての趣旨は以上です。軟禁命令の根拠は崩れました。調査の内容は捏造ではなく事実であり、手続きの問題をもって私を拘束し続ける正当性はありません」
裁定官が協議を始めた。声は低かったが、長くはかからなかった。
「軟禁命令を取り消す。第三王子レクト・アルベルトの異議申し立てを認容する」
殿下は頭を下げた。静かに。
エルドは座ったままだった。動かなかった。紙束が机の上に広がったまま。自分の派閥の不正が、自分の隣に座っていた男の口から、公の場に晒されたまま。
ユリウスも座っていた。足を組む気力もないように見えた。女性たちがまだ部屋にいた。三人とも、ユリウスを見ていた。
殿下が振り返った。
ルークが扉の横に立っていた。頷いた。それだけ。
殿下が歩き出した。審理室を出ていく。背筋が伸びている。あの部屋に一人で座っていた時と同じ背中。でも今は、一人じゃない。
——終わった。
廊下に出た。殿下の後ろを歩いた。足音が鳴っている。小さな音。すり足でも少しだけ鳴る。
殿下が足を止めた。振り返った。私の方を——少しずれてるけど。
「ありがとう、聖女」
——ずるい。
泣きそうだった。泣いてるかもしれない。
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