23話:型と栞
宿に戻った。すり足で階段を上がって、二階の部屋の扉を叩いた。こん、こん、こん。三回。私だよの合図。
ルークが扉を開けた。殿下が窓辺から振り返った。
二人の目が——見えないけど——期待してるのがわかった。
壁を叩いた。こん、こん。
いいえ。
ルークが椅子の背にもたれた。殿下が目を閉じた。
壁を叩いた。こん、こん。もう一回。こん、こん。何回叩いても二回は二回だった。いいえしか言えない。いいえ、何もなかった。いいえ、見つからなかった。
「……そうか」
殿下の声は責めていなかった。それが余計につらい。
「まあ、ないだろうなとは思ってた」
ルークがあっさり言った。
——思ってたなら先に言ってよ。
「いや、行ってもらわないとわかんないだろ。ないって確認するのも仕事だって」
壁を叩いた。こん。こん。こん。こん。こん。
「何回叩いてんだよ。はいでもいいえでもないだろそれ」
——文句。文句を言ってるの。タップ式では伝わらないけど。
殿下が少しだけ笑った。前に初めて見た笑い方とはまた違う、もう少し軽い表情だった。
「ありがとう、聖女。ないとわかったことは大きい」
——大きいの?
こん。
「ないのが異常なんだ」
殿下が壁に背をつけた。
「エルドの部屋にもユリウスの部屋にも、今回の件に関する書類が一枚もない。命令書の写しすらない。あれだけの手続きを踏んだ人間が、控えを残していないのは不自然だ」
ルークが腕を組んだ。
「誰かが片付けさせたってことか」
「片付けたんじゃない。最初から残していない。——誰かが、物的証拠を残すなと助言している」
殿下がそこで黙った。窓の外を見ている。それから、小さな声で言った。
「……カイ、か」
——カイ。
あの名前が出た瞬間、胸の底がざわついた。従者の顔をして殿下の隣に立っていた男。毒を仕込んで、帳簿を偽造して、「お仕えする振りは嫌いではありませんでした」と言って去っていった男。
あいつが王子の後ろにいるなら、証拠がないのは当然だった。あの男は自分の蝋の型すら衣装棚の奥に隠すような人間だった。
ルークが殿下を見た。
「今なんか言ったか?」
「いや……考え事だ」
殿下はそれ以上言わなかった。首を振って、椅子に座り直した。
「考えていても仕方がない。正面から証拠を探す方法は塞がれている。別の手を使う」
ルークが身を起こした。
「作戦があるのか」
「ある。ただ、その前に——聖女」
こん。
「ユリウスのことを少し話しておく。あいつの噂は以前から耳にしていた。噂だと思っていたが、審問の場での振る舞いを見て——本当かもしれないと思った」
殿下が言いにくそうに間を置いた。
「女性に手をつけては飽きたら捨てる、という話だ。一人や二人ではないらしい」
ルークの目が変わった。
「……マジかよ」
「噂の域は出ない。だが、被害を受けた女性がいるなら——その人たちの証言は、ユリウスを追い詰める材料になる」
殿下が立ち上がった。
「やることは三つだ」
ルークと私が——片方は椅子に座って、片方は壁際に立って——殿下を見た。見えない目でも、見た。
「一つ目。聖女、エルドの部屋に入ってくれ。物の配置を変えろ。本棚の本の順序、机の上のペンの位置、何でもいい。意味のない変更を繰り返せ。——自分の部屋に誰かが入っている、と思わせたい」
こん。
「気づかれるものを一つ抜いてもいい。大切にしているものの方がいい。なくなったことに気づいた時、あいつは疑心暗鬼になる」
こん。
「二つ目。聖女、ユリウスを尾行してくれ。女性と接触する場面を見つけて、相手が誰なのかを特定してほしい。——不快な仕事を頼むことになる。すまない」
殿下がそう付け加えた。私に言っている。見えない相手に頭を下げようとしている。
——やるよ。
こん。
「三つ目。ルーク、聖女が特定した女性たちに接触してくれ。協力を取り付けて、審問の当日に連れてきてほしい」
ルークが頷いた。「任せろ」とは言わなかった。代わりに、ルークらしい聞き方をした。
「何人くらいだ」
「二人か三人。証言が複数あれば、一人を潰しても残りが残る」
「わかった。——で、お前は」
「俺は戻る」
ルークの顔が固まった。
「……離宮に、か」
「異議申し立ての期限内に審理が開かれる。その場に出るには、俺は正規の手続きの中にいなければならない。逃亡中の王子の申し立ては受理されない」
——戻るの。あの部屋に。
「逃げたまま戦っても、エルドに『逃亡という不正を犯した人間の言い分』として処理される。手続きの正当性で戦うなら——俺が手続きの内側にいなければ意味がない」
ルークが黙った。反論はしなかった。正しいと分かっているから。
殿下が窓の外を見た。通りに馬車が止まっている。宿の階下で人の声がする。
「時間がない。向こうが動き出す前に——」
階下の扉が叩かれた。重い音が三回。
殿下とルークが同時に動いた。ルークが窓際に寄った。殿下は扉の方を見た。
「開けなさい。王宮警務局の者です」
殿下の表情は変わらなかった。来ると思っていた顔だった。
ルークを見た。
「ルーク、聖女。頼んだ」
それだけ言って、扉を開けた。
警務官が二人立っていた。殿下は何も抵抗しなかった。促されるまま廊下に出て、階段を下りていった。
ルークが窓からそれを見ていた。拳が白い。
「……行くぞ、聖女」
こん。
◇
ユリウスを見つけるのに時間はかからなかった。東棟の中庭。昼過ぎ。木陰のベンチに座って、女の子と話していた。
女の子は下級生だった。制服が新しい。頬が赤くなっている。ユリウスが何か言って、女の子が笑った。
あの声だった。殿下の前でパンの話をしていた時と同じ声。軽くて、温かくて、人の警戒を溶かす声。
ユリウスの手が女の子の肩に触れた。ほんの一瞬だけ。自然な動作。何気ない優しさに見える仕草。
——吐きそう。
別の日。ユリウスは違う女性と歩いていた。上級生。髪の長い、綺麗な人。ユリウスが何か耳元で囁いて、女性が俯いた。
同じ声だった。同じ目だった。肩に触れるタイミングまで同じだった。
奥歯が軋んだ。殿下にパン粥の二杯目を勧めていた時の顔が浮かんで、消えなかった。
別の日。夕方。ユリウスが西棟の裏庭で、泣いている女性の前に立っていた。女性が何か訴えている。ユリウスは聞いている風で、目が退屈そうだった。
「わかった。少し距離を置こう」
穏やかな声だった。さっきまでと同じ声。あの子たちに向けていたのと同じ声で、この人を捨てている。
女性が崩れた。膝が折れて、地面に座り込んだ。ユリウスはもう背を向けていた。足取りが軽い。来た時と同じ散歩みたいな歩き方。渡り廊下で殿下の仮面が外れた夜と、同じ足取り。
——殴りたい。透明の拳でも殴りたい。殴ったところで何も届かないけど。
裏庭に残された女性の名前と顔を覚えた。この人だ。この人に、ルークが話をしに行く。
他にもいた。避けるように目を伏せる子。ユリウスの名前が出ると顔が強張る子。探せば見つかった。見つかるのが嫌だった。
ルークに伝えた。女性たちがいる場所をタップ式で——東棟か西棟か、上級生か下級生か、一つずつ絞り込んで。時間がかかった。でもルークは辛抱強く聞いてくれた。
「……わかった。俺が行く」
ルークが立ち上がった。顔が硬い。
「聖女。嫌なもん見せたな」
こん。
「——ありがとな」
ルークが出ていった。
◇
エルドの部屋に入った。窓から。三階。すり足で。
机の上を見た。ペンが三本、等間隔に並んでいる。インク壺が右端。便箋の束が左端。本棚の本は背の高い順に並んでいる。
——この人、几帳面すぎて怖い。
ペンの位置を入れ替えた。右端のペンを左端に、左端のペンを真ん中に。インク壺を五寸だけ左にずらした。
本棚の中段。法律書が四冊並んでいる。二番目と三番目を入れ替えた。背表紙の色が微妙に違うから、気づく人は気づく。エルドなら気づく。
窓から出た。
翌日また入った。今度は便箋の束を三枚だけ抜いた。書き物机の引き出しの中の封蝋を一つ、隣の段に移した。
その翌日。本棚の一番上の段に置いてあった革の栞を抜いた。使い込まれていて色が変わっている。大切にしているものだとわかった。これをユリウスの部屋の近くの廊下に落としておいた。
◇
——エルド視点——
部屋に入った瞬間、わかった。
ペンの位置が違う。昨日は左から黒、青、赤の順に並べた。今日は青が右端にある。
抽斗を開けた。封蝋が隣の段に移動している。便箋が減っている。三枚。
本棚を見た。法律書の二巻と三巻が入れ替わっている。
——三度目だ。
最初は気のせいだと思った。二度目は、自分の記憶違いを疑った。三度目は、もう疑いようがなかった。
誰かがこの部屋に入っている。
窓の鍵は内側から確認している。扉の鍵は自分しか持っていない。侍従が入る時間は決まっている。侍従の出入り以外の時間に、何者かがこの部屋に侵入し、物を動かし、物を抜いている。
革の栞がなかった。父上からいただいたもの。本棚の上段に置いていた。間違いない。
席についた。手を組んだ。
考えるべきことは一つだ。誰が、何の目的で。
窓からの侵入は困難だ。三階で、足場になるものがない。鍵の複製か。あるいは——内通者がいるのか。
浮かんだのは、一つの顔だった。
あの男。第二王子。
利用価値があるから組んでいるだけの、軽薄な男。こちらの部屋の配置を知っているのは、以前打ち合わせで入室させたからだ。鍵の複製くらい、あの手の人間はやりかねない。
——だが、目的は何だ。
何も盗まれていない。書類は触れられていない。ただ配置が変わり、些末なものが抜かれているだけ。嫌がらせにしては地味すぎる。脅迫ならもっと直接的にやる。
意味がわからない。意味がわからないことが、一番不快だった。
……まあいい。
あの男の件は、レクトを片付けてからだ。審理の期日は決まっている。手続きは整えてある。今度こそ、あの独善的な弟を正しい場所に据える。
正しいことを、正しい手順で。
それだけのことだ。
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