22話:聖女の初仕事
馬車の壁を叩いた。
こん。
小さい音だった。馬車の振動に紛れそうなくらいの、拳ひとつ分の音。でも確かに鳴った。
殿下の目が見開かれた。ルークが息を呑んだ。
視界の端で光が揺れた。淡く、一瞬だけ。あの日と同じ——透明になった時と同じ、音のない光。目の奥が熱くなった。
殿下が壁を見ている。私が叩いた場所を。見えていないのに、正確にそこを見ていた。
「……いるのか」
声が掠れていた。
——いる。いるよ。ずっといた。
もう一回壁を叩いた。こん。殿下の肩が震えた。
ルークが殿下と壁を交互に見ている。
「……マジか」
壁を叩いた。こん。
「マジかよ」
壁を叩いた。こん。
「いやちょっと待て——おい、レクト、今の——」
「聞こえた」
殿下の声は静かだったけれど、手が膝の上で握り締められていた。
「聞こえたよ」
——ああ。
泣きそうだった。泣いてるかもしれない。透明だからわからないけれど、頬が熱い。
聞こえた。私の音が。初めて。
殿下が姿勢を正した。壁に向かって——違う、私に向かって。見えていないのに、向き合おうとしている。
「声は出せるか?」
——出せない。出したい。でも出せない。
壁を二回叩いた。こん、こん。
殿下が少し考えた。
「今の——二回は、否定か?」
壁を一回叩いた。こん。
ルークが「おおっ」と声を上げた。
「一回がはい、二回がいいえ——それでいけるか?」
こん。
「すげえ……会話してる……」
ルークが身を乗り出してきた。殿下が珍しく少しだけ笑った。見たことのない表情だった。こんな顔もするんだ、この人。
——ちょっと。笑わないで。心臓に悪い。
「姿は見えないんだよな?」
ルークが周囲を見回している。
「触ったらわかるのか?」
——え、触る?
こん、こん。反射的に叩いた。全力で叩いた。
「二回。だめだってよ」
「聞けばよかっただろ、いきなり触ろうとすんな」
殿下がルークを睨んだ。ルークが首をすくめている。
——殿下が庇ってくれてるのか、私を? 見えない相手を?
なんか変な気持ちになった。嬉しいのか恥ずかしいのか、よくわからない。
◇
馬車が止まった。ルークが用意していた宿だった。街の外れの小さな宿で、部屋は二階の奥。窓から裏口に降りられる。
ルークが扉を閉めて、椅子を引いた。殿下が窓辺に立った。考え事をする時の癖だ。
「ここからの話をする」
殿下が振り返った。部屋の中央あたり——私がいるはずの方向からは少しずれていたけれど、話しかけようとしているのはわかった。
「その前に、呼び名が要る。お前のことを何と呼べばいい」
——え。
名前は言えない。文字は書けない。壁を叩くことしかできない。
殿下がしばらく考えていた。
「お前は奇譚集の聖女と同じ存在なのかもしれない。——聖女、と呼んでいいか」
——聖女。
こん。
別に構わないけど。
……聖女って。私パン屋のバイトしてた一般人なんだけど。前世。
ルークがにやにやしている。
「聖女って。お前ほんとに——」
「他に呼びようがないだろう」
殿下の耳が赤い。
——あ。
照れてるのか。この人。聖女とか呼んでおいて自分で照れてるのか。
なんかもうだめだ。心臓がおかしい。
◇
殿下が壁に背をつけた。表情が変わった。さっきまでの柔らかさが引いて、考える目になった。
「状況を整理する」
ルークが向かいの椅子に座り直した。
「軟禁は一時的に解けただけだ。命令書の原本がどうなったか向こうが把握した時点で、再拘束の手続きに入る。猶予はそう長くない」
ルークが腕を組んだ。
「どれくらいだ」
「異議申し立ての機会が一度だけある。王族の拘束命令に対する正式な手続きで、期限内に申し立てれば審理の場が設けられる。そこで覆せなければ——廃嫡まである」
部屋が静かになった。
「今のまま審理に臨んでも、前と同じだ。エルドは手続きの正当性で潰しにくる。こちらに反論の材料がなければ、何度やっても同じ結果になる」
殿下が私の方を——正確にはずれてるけど——向いた。
「聖女。頼みがある」
こん。
「エルドとユリウスの部屋を見てきてほしい。今回の件に関わる書類——命令書の写し、指示書、書簡、何でもいい。裏付けになるものがあれば、それを起点に考えられる」
——初仕事。
初めて頼まれた。殿下に。名前で呼ばれて——名前じゃないけど——直接、「頼みがある」と言われた。
こん。
力を込めて叩いた。
「頼んだ」
殿下がまっすぐ前を向いて言った。少しずれてるけど。ずれてるけど、いい。
◇
王宮に戻った。一人で。透明なので門は素通りできる。
いつもの道。見慣れた廊下。でも今日は違った。背中にちゃんと目的がある。殿下が待っている。ルークが待っている。帰る場所がある。
——聖女、張り切っていくよ。
東棟の階段を上がった。エルドの居室は三階の突き当たり。以前、殿下の尋問の時に場所は覚えていた。
三階に上がったところで気づいた。
足音が鳴っている。
自分の足音。石の床を踏む、小さな、でも確かな音。
——え。いつから。
立ち止まった。音が止んだ。一歩踏み出した。ぺた、と鳴った。
——鳴ってる。
これまで足音なんてしなかった。いつも無音で歩いていた。それが、壁を叩けるようになったのと同じで——意図した音だけじゃなく、足音まで出るようになっている。
廊下の向こうから侍女が歩いてきた。すれ違う。侍女がふと足を止めて、振り返った。
——今、聞こえた?
侍女は首を傾げて、そのまま行ってしまった。
……危なかった。すり足にしよう。そっと、そっと歩く。忍者か私は。
エルドの居室の前に来た。扉は閉まっている。護衛はいない。鍵がかかっていたけれど、鍵なんて——内側から開けられる窓があった。三階だから普通は入れない。透明で軽い私なら、隣の部屋の窓枠を伝っていける。
部屋に入った。
整っていた。本棚。書き物机。衣装棚。調度品。エルドの部屋は几帳面に整理されていて、埃ひとつない。
机の上を見た。インク壺とペン。便箋が数枚。何も書かれていない。引き出しを開けた。文房具と白紙の封筒。手紙の束があったけれど、中身は社交の案内状と儀礼的な返信ばかりだった。
本棚を見た。法律書と歴史書。書き込みがあるものを引き抜いて中を見たけれど、勉強の跡であって、今回の件と関わるものではなかった。
衣装棚の裏、ベッドの下、窓枠の裏。
何もない。
ユリウスの部屋に移った。こちらは東棟の二階。部屋はエルドと対照的に散らかっていたけれど、散らかっているのは服と本と菓子の包み紙であって、書類の類は一枚もなかった。
机の引き出しは空だった。棚の奥も見た。ベッドの枠の隙間も確認した。私物はたくさんあるのに、紙が一枚もない。
——おかしい。散らかってるのに、紙だけない。
西棟に移った。すり足で。エルドの執務に使われているはずの部屋がある。扉の前に来た。
護衛が二人立っていた。
——日中に護衛つき。
もう一つ、評議会の記録室の前にも護衛がいた。
部屋の中が見えない。扉が開く気配もない。
他を当たった。東棟の倉庫。書庫の分室。文書管理室。関係がありそうな場所は全部回った。鍵がかかっている部屋は窓から、開いている部屋はそのまま入った。
——何もない。
殿下の軟禁命令に関する書類。エルドからの指示書。ユリウスとのやり取り。証言者への圧力の記録。何ひとつ、どこにもなかった。
最後にもう一度、ユリウスの部屋に戻った。もう一回、隅から隅まで見た。
服。本。菓子の包み紙。空っぽの引き出し。
——何もない。
ほんとに何もない。初仕事なのに。殿下に頼まれた最初の仕事なのに。
「頼んだ」って、あんなまっすぐ言ってくれたのに。
——聖女、何も持って帰れるものがありません。
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