21話:一度だけ
——レクト視点——
部屋は薄暗かった。窓が高い位置にあって、陽の光が床の半分にしか届かない。
やることがなかった。書類もペンもない。食事は一日二回、衛兵が盆を置いて去っていく。会話はなかった。
本棚には埃をかぶった古書が十数冊あった。離宮の建築記録、儀礼の手引き、税制の変遷史。すぐに読み終えて、読み返す気にもならなかった。
もう一度本棚を見た時に、一冊だけ背表紙の質感が違うものが目に入った。革表紙で、角が擦り切れている。背表紙の文字は半分消えかけていた。
『建国期奇譚集』。
手に取ったのは、他にすることがなかったからだ。
ページをめくっていると、ルークの声が蘇った。回廊で、何でもないように話してくれた夜のことだった。——建国王ルヴァイスの伝承さ。あの人がまだ辺境の騎士だった頃、何度も見えない力に助けられたって話がある。
あの時はおとぎ話だと思って聞いていた。
黄ばんだ紙にインクが薄く残っている。「消えた聖女」と題された章を見つけた。
建国王がまだ一介の辺境騎士だった頃。毒を盛られた杯が倒れた。背後からの刃が逸れた。戦場で道を見失った夜に、正しい方角へ灯りが燈った。王はそれを女神の加護と呼んだが、側近たちの記録は違っていた。加護には意志があった。人の振る舞いを見ていた。必要な時にだけ、必要な分だけ動いた。
聖女。名を残さなかった女。姿を見た者はいない。声を聞いた者もいない。ただ、王の傍に「何か」がいたのだと、複数の側近が書き残している。
本を膝に置いた。
毒杯のことを思い出していた。あの夜、何もないところから杯が弾け飛んだこと。周囲に誰もいなかったこと。決闘の際、短剣の男が何もないところで転んだこと。
それから——茶のことを考えた。自分の部屋で、誰も淹れていないのに温かかった茶。書庫で探していた書類が、いつの間にか手前に出ていたこと。
毒杯や短剣とは違った。窮地を救う力とは、違うものだった。
しばらく、本を閉じたまま窓の光を見ていた。
建国王の人物像を思い出していた。ルヴァイスは王家の子供なら誰でも学ぶ人物だった。身分に関わらず人と接し、功績よりも人柄で人心を集めた王。王妃は即位の前後に突然名が出てきた女性で、特に高位の家の出でもなく、政略的な意味もなかったとされている。損得ではなく人を見た王だったのだろうと——そう教わった。
そんな人間が、自分を幾度も救った恩人のことを、なぜ正史に残さなかったのだろう。
本を開き直した。最後の節。王が王位についた後、加護は消えた。建国王自身の記録にはただ一文——「彼女は還った」。その前にもう一行、かすれた文字があったが、千年の時が消していた。
窓の光を見上げた。高い窓から差す光の角度が、少しだけ変わっていた。
◇
——リゼット視点——
離宮に来てから、日を数えるのをやめた。
殿下の部屋には入れなかった。壁が厚くて、扉が重くて、窓が高い。透明でも壁は抜けられない。もう何回目だろう、これ。
食事を運ぶ時だけ扉が開く。衛兵が盆を置いて、すぐ閉まる。その一瞬で見えたのは、窓辺に立っている殿下の背中と、手に持った本だけだった。
ルークが来た。毎日来てる。毎日断られてる。
「面会は許可されておりません」
「伝言だけでいい」
「伝言もお受けできません」
ルークの拳が白くなるのを見るのも、もう何度目かわからない。殴らないのが偉い。私なら殴ってる。殴れないけど。
「明日も来る」
ルークが背を向けた。正面口に向かって歩いていく。
——ルーク。まだ帰らないで。
先回りして、正面口の閂を落とした。重い木の扉。外からは押しても引いても開かない。
ルークが扉を押した。びくともしない。
「……さっき開いたじゃねえか」
苛立って周りを見ている。横の通路の先に別棟へ続く渡り廊下があった。そっちの扉は開けておいた。ルークが舌打ちして渡り廊下に入っていく。
——そう。そっち。
別棟の廊下を抜けて、ルークは中庭に出た。裏口を探しているらしい。
その間に私は別棟の一階に戻った。記録庫の扉を開けた。埃っぽい小部屋に棚が三つ並んでいる。何日も前から場所は確認してあった。
棚の二段目から封蝋で留められた書面を引き抜いた。「第三王子レクト・アルベルトの自室待機に関する命令書」。封蝋が割れる音がやけに大きく聞こえた。服の内側に挟んだ。
壁の燭台に蝋燭が一本、横に火打ち石が置いてある。
手が震えた。
殿下の背中を思い出した。扉の隙間から見えた、窓辺に一人で立っている背中。
火打ち石を打った。一回目は空振りした。二回目で蝋燭に火がついた。棚の下段に積まれた古い管理台帳に火を寄せたら、乾ききった紙が一瞬で燃え移った。
——早っ。
煙が目に沁みた。走った。記録庫を出た。
「煙だ!」
管理人の声が本棟の方から聞こえた。走ってくる足音が複数ある。
「火事か!? 水を持ってこい!」
「記録庫だ! 命令書の原本がある場所だぞ!」
殿下の扉の前にいた衛兵の一人が記録庫の方に走っていった。もう一人が残っている。
ルークが中庭の方から戻ってきた。煙の匂いを嗅ぎつけて走ってくる。殿下の扉の前まで来て、残った衛兵の前に立った。
「おい。何が燃えてる」
「記録庫です——」
「命令書の原本があるとこだろ。まだあるのか?」
衛兵の顔が強張った。
「……確認を——」
「確認しに行けよ。行けないか。お前一人だもんな」
ルークの目が据わっている。パンを齧っていた時とは別の顔だった。
「命令書がないなら、殿下を閉じ込めてる根拠がない。根拠なしに王族を拘束し続けたら——お前、どうなると思う」
「上に——」
「上は火を消してる」
煙の匂いが廊下まで流れてきていた。衛兵が扉と廊下の先を交互に見ている。
「……責任は取れません」
「俺が取る。鍵を開けろ」
衛兵の手が震えていた。鍵を出して、鍵穴に差し込んで、回した。
扉が開いた。
殿下が立っていた。騒ぎを聞いて窓辺から扉の方を向いたのだろう。手に本を持っている。
「ルーク」
「迎えに来た。出るぞ」
「……何があった」
「後で話す。今なら出られる」
殿下が一瞬だけ部屋を振り返った。窓から差す光だけの、何もない部屋だった。
振り返らずに、歩き出した。
◇
離宮を裏口から出た。管理人たちがボヤに集まっている間に。
ルークが近くの街に馬車を用意してあった。毎日通っていたのは、こうなった時のためでもあったらしい。
——ルーク。本当にルーク。
馬車の中。殿下が向かいの席に座っている。ルークが隣。私はルークの反対側。揺れている。
「話せ」
「記録庫が燃えた。命令書が入ってた部屋だ。衛兵は原本を確認できなかった。拘束の根拠がないだろって押し切った」
殿下が黙ってルークを見ている。
「正式な手続きじゃないのはわかってる。でもまず出なきゃどうにもならないだろ」
「……ああ」
殿下はそれだけ言って、膝の上の本に目を落とした。
ルークがしばらく黙っていた。やがて口を開いた。
「出来すぎてるんだよ。俺がちょうどいる日に記録庫が燃えて、正面の扉がなぜか開かなくて別棟にいたから、すぐ近くにいた」
「偶然じゃない」
殿下の声は静かだった。
「ルーク。お前が前に話してくれた消えた聖女の話——この本に載っていた」
「……建国王のやつ?」
殿下がページを開いてルークに見せた。
「毒杯が倒れた。刃が逸れた。姿の見えない何かが、王の傍にいた」
殿下がルークから本を戻して、膝の上に置いた。
「——俺の傍にも、いる。ずっと」
ルークは殿下の顔を見て、本を見て、また殿下の顔を見た。
「……茶。お前の部屋で、俺が淹れてないのに温かかった茶」
「ああ」
「書庫の書類が手前に出てたのも」
「ああ」
馬車の音だけが続いた。
「……辻褄は合う。合いすぎてて怖えけど」
殿下が顔を上げた。
私の方を見た。見えていないはずの方を。
「ずっと——俺を守ってくれていたのか」
声が少しだけ震えていた。
「もしいるなら。一回だけ、音を鳴らしてくれ」
視界の端で、光が揺れた。淡く。一瞬だけ。
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