19話:陽だまりの裏
学園祭が終わってから、静かになった。
嫌な静かさじゃない。アリシアのちょっかいが止まった。廊下ですれ違っても仕掛けてこない。取り巻きの姿も見ない。嵐の後みたいに、何もない日が続いている。
殿下は普通に講義を受けて、普通に自室に戻って、普通に書類を読んでいる。ルークが横で欠伸をして、トビアスが茶を淹れている。
——平和だ。
平和なのに落ち着かないのは、たぶん性格の問題。
◇
その日は、中庭のベンチだった。
昼の鐘が鳴って、殿下とルークが講義棟から出てきた。いつもの場所。噴水の横のベンチ。ルークがパンを齧りながら何か喋っている。殿下が聞いている。
私はベンチの後ろ、植え込みの影に立っていた。日差しが暖かい。風が花壇のラベンダーを揺らしている。
「——あれ、レクトじゃん」
声がした。
知らない声。明るい。軽い。少し高めで、よく通る。
振り返った。——殿下とルークも振り返った。
渡り廊下の方から、一人の男が歩いてきた。
金に近い茶髪。殿下より少し背が低い。制服の着こなしが緩い。ボタンを一つ開けていて、袖を軽くまくっている。散歩みたいな足取り。
「久しぶり。元気そうだな、レクト」
殿下が立ち上がった。
「——ユリウス兄上」
「兄上はやめろって。堅いんだよ、お前は昔から」
笑いながらベンチに近づいてくる。三歩で隣に来て、ぽんと肩を叩いた。
——えっ、近い。
第二王子。ユリウス・アルベルト。殿下の二つ上の異母兄。名前は知ってる。でも学園で見かけたことは一度もなかった。
「そっちは?」
ユリウスがルークを見た。
「ルーク・ヴァレンです。殿下の——」
「ああ、知ってる知ってる。学園祭のパン粥の人だろ」
「は? なんで知ってんだ」
「食べたよ。美味かった。あの出汁、乾燥肉を前の晩から煮込んだやつだろ」
ルークが目を丸くした。
「マジで食ったのか」
「二杯食べた。おかわりしていいか聞いたら笑顔で盛ってくれたぞ。——え、覚えてない? 傷つくな」
「客多すぎて覚えてねえよ……」
「ひどい。俺は美味かったからわざわざ二杯目取りに行ったのに」
ルークが笑った。
——ルークが笑った。王族相手に。初対面で。
なんだろう、この人。殿下ともルークとも全然違う。近い。距離が。
殿下がまだ少し硬い顔をしている。でも嫌がってはいない。
「何の用だ、ユリウス」
「用がないと弟に会いに来ちゃいけないのか?」
「いつも来ないだろう」
「それは——まあ、否定しない」
ユリウスがベンチに座った。殿下の隣。足を組んで、空を見上げた。
「ちょっと気になることがあってさ」
「気になること?」
「お前、最近ずいぶん目立ってるだろ。審問とか学園祭とか。色々聞こえてくるよ」
殿下の目が少し鋭くなった。
「それがどうした」
「いや、偉いなと思って。純粋に。俺は面倒なことが嫌いだから、ああいうのに首突っ込む気力がない」
笑っている。嫌味がない。本当にそう思ってるみたいな顔。
「——で、ちょっとだけ真面目な話していい?」
ユリウスが足を下ろした。
殿下が頷いた。ルークはパンを齧る手を止めている。
「エルドリッジの令嬢の件、お前がだいぶ掘ったんだろ。審問のことも聞いた。あの子が台本を読まされてたってのもな」
「……どこで聞いた」
「学園中で噂になってるだろ。審問の翌日には広まってた」
殿下が黙った。否定はしない。
ユリウスが声を少し落とした。
「あのさ。エルドリッジの令嬢がやってきたこと——退学の件とか、成績への口利きとか。お前が見つけた分だけじゃないと思うぞ」
「……何を知ってる」
「確証はない。ただ、ちらほら聞こえてくるんだよ。あの家の令嬢が動くたびに、教員の判断が不自然に変わってる話。成績、配置、処分——全部。しかも令嬢一人の力でできる規模じゃないだろ、普通に考えて」
ルークが口を開いた。
「エルドリッジ家が裏で回してるってことか?」
「それだけなら家の権力の話だ。でも——」
ユリウスが殿下を見た。
「学園運営への介入がここまで常態化してるのに、誰も止めてない。止められる立場にいる人間が黙認してるか、協力してるか。そうなると——」
言葉を切った。
殿下が先を引き取った。
「兄上——エルドが関わっている、と?」
「俺の口からは言わない。けど、お前は頭がいいからわかるだろ」
噴水の水音。鳥の声。それだけ。
ルークが腕を組んだ。
「……で、なんでそれをこいつに言いに来たんだ」
——それ。それ聞きたかった。
ユリウスがルークの方を向いた。
「お前の主人が正しいことをしてるからだよ。審問の時、あの子に『今なら許す』って言っただろ。あれ、俺は好きだった」
ルークが殿下を見た。殿下は何も言わない。
「兄上がこの国の次の王になる。俺はそこに口を出す気はない。でもさ——あんな婚約者を好きにさせてて、不正の噂まで出てるのに何もしない人間が、次の王に相応しいと思うか?」
殿下が口を開いた。
「確証がないと言ったな」
「ああ」
「なら、調べる」
「——そうくると思った」
ユリウスが笑った。嬉しそうに。弟の言葉が嬉しかった、みたいに。
「無理すんなよ。何かあったら言えよ。力にはなれないかもしれないけど、話くらいは聞ける」
立ち上がった。伸びをした。
「ルーク、また飯作ってくれよ。次は金払うから」
「客は選ばねえよ。来たら出す」
「最高。——じゃあな、レクト」
手を振って、渡り廊下の方に歩いていった。足音が軽い。来たときと同じ散歩みたいな歩き方。
殿下がベンチに座ったまま、兄の背を見ていた。
「……悪い人じゃないな」
ルークが言った。
「そうだな」
「でも、信用していいかは別の話だぞ」
「わかってる」
——うん。そう。そうなんだけど。
なんだろう。嘘の匂いがしなかった。全然。
◇
翌日から、殿下の動きが変わった。
講義の合間に教官棟に足を運ぶようになった。書庫に入る回数が増えた。夜、机の上の書類が倍になった。
ルークが手伝っていた。書類の束を抱えて、殿下の部屋に運び込んでいる。
「おい、これ全部読むのか」
「必要な部分だけだ」
「どこが必要かわかんねえから全部持ってきたんだけど」
「……ありがとう」
「礼はいい。飯の時間はちゃんと取れ」
殿下が頷いた。でも夕食の時間を過ぎてもペンを置かなかった。ルークが無言でパンとスープを机の端に置いた。
——ルーク、偉い。
私も棚の上から殿下の茶を温め直して、カップの位置を少しだけ手元に寄せた。
殿下がふと手を止めて、カップを見た。
「……茶が温かいな」
「淹れたの俺じゃねえぞ」
「知ってる」
——知ってるの?
いつもの「気のせいだ」は?
殿下はそれ以上何も言わなかった。カップを持ち上げて、一口飲んで、また書類に戻った。
……飲んでくれたから、いいけど。
翌日、ユリウスが殿下の部屋に来た。鞄から紙束を三枚出した。走り書き。
「社交の場で聞いた話をメモっただけだから、精度は保証しない。でもお前が書庫で探す手間は省けると思う」
殿下が受け取った。目を通している。ページをめくる指が速くなった。
「ユリウス。これは——」
「だから確証じゃないって。お前が自分で裏を取れ。俺は情報を出す以上のことはしない。立場上な」
手を広げて見せた。おどけている。殿下が小さく頷いた。
ユリウスが帰っていく。手を振って、廊下に消えた。
◇
翌日の昼。中庭。
殿下とルークがいつものベンチにいた。ユリウスも来ていた。三人並んで座っている。殿下の口元が少し緩んでいる。
——いいな。この空気。殿下の周りが、少しずつ広くなっていく。
ユリウスが立ち上がった。「じゃあな」と手を振った。
渡り廊下の方に歩いていく。足音が軽い。来たときと同じ散歩みたいな歩き方。
角を曲がる直前。足が止まった。
振り返った。殿下たちの方じゃない。誰も見ていない。
口元が動いた。
笑っていた。
さっきまでの笑顔じゃなかった。目が、笑っていなかった。
——え。
角を曲がった。見えなくなった。
振り返った。殿下がメモに目を落としている。ルークがパンを齧っている。
二人とも、見ていない。
——殿下。
指先が冷たい。五月の陽射しの中で、指先だけが凍っている。
殿下が顔を上げた。風がメモの端を揺らしている。
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