14話:噂
アリシアは、翌日も来た。
講義棟の前。殿下が出てきたところを待っていた。偶然の顔。——偶然じゃないのは私が知ってる。殿下が出てくる五分前からそこに立ってたから。
「殿下、監察院の件、本当にご立派でしたわ」
「恐れ入ります」
「学園の空気が変わりましたもの。殿下のおかげですわ」
殿下はいつも通り丁寧に返して、それ以上近づけない。
次の日も。その次の日も。
中庭。渡り廊下。食堂の入口。場所を変えて、毎回同じ。殿下が壁を一枚置いたまま、アリシアを通さない。
——この女、いつまで来るんだろ。
そう思い始めた四日目。
ふと、アリシアの目が殿下から離れた一瞬が見えた。
目が笑っていなかった。口は笑ったまま。
——あ、怒ってる。
理屈じゃない。でもわかった。今まで余裕の笑顔を貼りつけてたのが、ほんの一瞬だけ剥がれた。殿下には見えない角度で。
なんか——嫌な感じ。
◇
噂が流れ始めたのは、その直後だった。
最初に気づいたのは食堂だった。
殿下が席についた時、さっきまで話していた隣のテーブルがぱたりと黙った。
——え?
一週間前は「すごくない?」って目を輝かせてた子たちだ。今は目が泳いでる。殿下の方をちらっと見て、すぐ逸らす。
何。何なの。
◇
次の日の朝。講義室に向かう廊下で、女生徒が二人、小声で話していた。
「——前の従者、殿下に追い出されたんだって」
足が止まった。
「嫌になって辞めたんじゃないの?」
「ただ辞めただけならいいけど。なんか殿下がきつくあたってたらしいよ」
「えー……あの穏やかそうな顔で?」
「そういう人が一番怖いんだよ」
——は?
何言ってんの。何言ってんのこの人たち。
カイは自分から出ていったんだよ。殿下は追わなかった。もう聞こえない距離で名前を呼んでた。あの声知ってる? 知らないよね。見てないもんね。誰も見てなかったもんね、あの部屋の中。
拳を握った。爪が掌に食い込んだ。声にならない怒りが喉の奥に溜まって、出口がない。
いつもと同じ。声は出ない。叫べない。否定できない。
◇
回廊でも、同じだった。
すれ違う生徒の会釈が減った。殿下の前を足早に通り過ぎていく。目を合わせない。
一週間前に戻ってる。いや、前よりひどい。前は「興味がない」だった。今は「関わりたくない」になってる。
殿下は何も言わない。気づいていないわけがない。でも、いつも通り歩いている。
「……なんかやったか、俺ら」
ルークが首を捻った。この人は鈍いんじゃなくて、噂に興味がないだけだ。
◇
食堂。昼。
殿下とルークの斜め後ろのテーブルで、男子生徒が話していた。
「殿下のそばにいるあの男、怖くない? 平民のくせに態度でかいし」
「用心棒なんじゃないの。金で雇った的な」
「うわ、まじ?」
——ルークのことまで。
ルークは平民でもないし、ヴェルナーが学園に入れただけで、殿下は何の関与もしていない。今は殿下の横にいたくているだけだ。何も知らないくせに。
渡り廊下で、また別の声。
「ヴェルナー先輩も、ハイデン先生も、監察院のトップの人も。殿下に逆らった人って、全員消えてるよね」
「怖……」
「次、誰がいなくなるんだろうね」
——違う。
違う。殿下がやったんじゃない。グレーヴェルが書類を改竄したから。ハイデンが不正をしていたから。全部、向こうが先にやったことだ。殿下はそれを正しただけ。
でもそんなこと、誰にも言えない。声が出ないから。文字が書けないから。
壁に手をついた。
こんなに近くにいるのに。全部見てきたのに。何も言えない。一言も。
◇
もう我慢できなくなって、その夜、アリシアの部屋に忍び込んだ。
確証なんてない。でもあの女の目が変わった時期と、噂が出始めた時期が——いや、そんな冷静な話じゃない。あいつだと思った。それだけ。
扉が閉まる前に身体を滑り込ませて、壁に背をつけた。
部屋は広かった。調度品が全部重い。カーテンは二重。窓際に花が活けてある。
アリシアはソファに座っていた。取り巻きが二人、向かいに立っている。
立ったまま。座らせてもらってないんだ。
「——で? 何か出てきた?」
声が軽い。お菓子の感想を聞くくらいの温度。
「あの……従者の件は広まっていますけど、それ以上は——」
「ないの?」
「殿下は本当に問題を起こしたことがなくて……」
アリシアが髪を指に巻きつけた。取り巻きの顔を見ていない。天井の方を向いている。
「ないなら作ればいいでしょ」
——今なんて言った?
「従者の話もっと盛って、他にもいくつか混ぜなさいよ。事実かどうかなんて誰も確かめないから」
さらっと言った。注文を追加するみたいに。「あとデザートも」くらいの軽さで。
取り巻きが顔を見合わせた。困ってる。でも逆らわない。
「……わかりました」
「よろしい」
立ち上がった。窓辺に歩いていって、花の位置を直しながら——
「あんまりのんびりしてると退屈するの。退屈すると機嫌悪くなるの。知ってるでしょ?」
——この女。
お腹の底が冷たくなった。
こいつだ。全部こいつがやらせてる。殿下の悪口も、ルークの噂も、全部この女がこのソファに座ったまま——
自分じゃ何もしてない。命じてるだけ。汚れるのは取り巻きの手で、自分の爪は一本も汚れない。
なんなの。なんなのこいつ。
殿下が何した。あなたに何かしましたか。話しかけてきたのはそっちでしょ。殿下はいつも通り丁寧に対応しただけでしょ。それで気に入らないから潰す? 理由、それだけ?
——最悪。
最悪だ。今まで戦ってきた相手の中で、一番タチが悪い。
◇
殿下の部屋に戻った。
ルークがいた。いつもの椅子に座って、腕を組んでいる。眉間の皺が深い。
「殴りてえ」
「何を」
「噂の出どころ」
「出どころがわかるのか」
「……わかんねえけど」
椅子が軋む。ルークの苛立ちが音になって漏れている。
——わかるよ。殴りたいよね。私も殴りたい。透明の拳だけど。
殿下は窓の外を見ていた。しばらく黙って、
「噂に反論しても、騒ぎが大きくなるだけだ」
「じゃあどうすんだよ」
「やることをやる。今まで通りに」
ルークが口を開きかけて、閉じた。納得はしていない。でも殿下がそう言うなら、という顔。
壁際で膝を抱えている。
——でも、私はどうすればいい。
殿下は「今まで通り」でいい。ルークも殿下のそばにいればいい。でも私は。
今までは物を動かして戦ってきた。手紙を抜いた。蝋の型を移した。帳簿を見つけた。手が届く範囲に、触れる何かがあった。
アリシアの部屋には何もなかった。命令は口頭。証拠は残らない。盗む物がない。
——どうしよう。
膝に額を押しつけた。冷たい。
廊下の向こうから、声が聞こえた。
アリシアの取り巻き。部屋に戻っていく足音が二つ。
「……ねえ、大丈夫なの? 私たち、あの人のそばにいて」
「今さら離れたら何されるかわかんないでしょ。あの子のおかげで推薦もらえたくせにって、ああいう顔で言うのよ」
「推薦のことまで持ち出されたら……」
「しっ。——とにかく、逆らったら終わりよ」
足音が遠ざかっていった。
顔を上げた。
——推薦?
何かが引っかかった。まだ全然わからない。でも——何か。
爪が掌に食い込んでいる。
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