13話:凪
「……消えた、聖女?」
殿下の靴音が途切れた。
「建国王ルヴァイスの伝承さ。あの人がまだ辺境の騎士だった頃、何度も見えない力に助けられたって話がある。毒の杯が勝手に倒れたり、刺客の刃がありえない角度で逸れたり」
ルークの声は軽い。寝る前に祖父から聞かされた話を思い出している、それだけの声。
「じいちゃんが好きでさ、子供の頃よく聞かされた。目に見えない誰かが、ずっとそばにいて守ってくれるんだって」
殿下は何も言わない。窓の外を見ている。回廊の高い窓から、鳩が一羽飛び立った。翼の音だけが石の天井に散って、消えた。
ルークは気づいていない。自分が何を言ったのか。殿下の横顔に何が落ちたのかも。
「まあおとぎ話だけどな。——でもレクトの話聞いてたら思い出した」
軽く笑って、また歩き出す。殿下が半拍遅れてついていく。
私はその後ろを歩いていた。足音のない三人目。
——目に見えない誰か。ずっとそばにいて、守ってくれる。
心臓が、変な打ち方をした。一拍だけ。
おとぎ話だ。千年も前の、綺麗にまとまった話。
……その「誰か」も、厨房のパンの焼き上がり時間を暗記してたりしたのかな。
してないだろうな。聖女だし。
◇
朝。
壁際で目を開けると、もう光が差していた。殿下の部屋の天井。石の隙間を這う蔦の影。窓から入る光の角度で、時間がわかるようになった。
礼拝の鐘の少し前。
殿下はもう机に向かっている。ペンの音。紙をめくる音。またペンの音。この人の朝は、いつも同じだ。
扉をノックする音。
「し、失礼します。レクト殿下——」
トビアス。新しい従者。声がまだ上ずる。
扉を開ける時に書類の角を引っかけて、一枚ひらりと落ちた。慌てて拾う。耳まで赤い。
殿下が振り返った。
「おはよう」
「おっ、おはようございます!」
殿下は待っている。トビアスが書類を整え直すのを、急かさない。カイだったら——あの従者なら、ノックから入室まで一切の無駄がなかった。
でも、この不器用さが部屋に足す空気は、悪くない。
「本日は午前に第三講義室、午後は自習の予定と——」
「ああ、図書室を使う」
「はい! 承知しました!」
返事だけは声が大きい。殿下が少し目を細めた。笑ってるのか怒ってるのか微妙な顔。
——笑ってるほう。たぶん。
◇
食堂。昼。
殿下とルークが席についた。トビアスが給仕を取りに行っている。
隣のテーブルの声が聞こえてきた。
「——監察院、後任の人もう来てるんだって」
「ハイデン先生の件も全部洗い直すらしいよ」
「第三王子殿下でしょ、告発したの。なんか最近すごくない?」
……すごくない? じゃないんだよ。ミーハーどもめ。
こっちはあんたらが見向きもしなかった頃から推してるの。距離三歩の特等席で。毎日。
……。
待って。今の自分でそれ言うと、ただの不審者の供述だ。透明で。壁際に住みついてて。距離三歩って自分から言い出してる。
——早く人間に戻りたい。切実に。
◇
回廊。
殿下とトビアスが歩いている。私は三歩後ろ。
すれ違った女生徒が足を止めて、小さく会釈した。
前はなかった。目を逸らされるか、気づかないふりが普通だった。
もう一人。講義棟の角で、男子生徒がぺこりと頭を下げた。殿下が軽く頷き返す。
食堂でも、回廊でも。空気が変わってきている。
トビアスがちょっと驚いた顔をしている。殿下は表情を変えない。でも歩幅がほんの少しだけ、ゆるくなった。
◇
午後。殿下の部屋。
殿下は図書室。トビアスもついていった。ルークは練武場だろう。午後のルークはだいたいそっちにいる。
壁際の定位置に座って、パンをちぎる。昼前に厨房から持ってきたやつ。この時間帯なら焼きたてが棚に並んでいて、まだ誰も取りに来ない。完璧に覚えた。
ほのかに温かい。小麦と、少しだけバターの匂い。
一人の部屋。
机の上に殿下の筆跡が残った紙。窓の外に中庭の緑。午後の陽が石畳をあたためている。
パンの最後の一口を飲み込んだ時、思った。
——いい天気だな。
それだけ。それだけのことが、少し怖かった。ここが心地よいと感じている自分が。
声を出したい。名前を呼びたい。鏡の前に立って、自分の顔を確かめたい。
——それは変わらない。変わらないけど。
窓の光が、壁際の私のあたりを照らしていた。見えない身体に当たる陽だまりだけが、温かい。
◇
夜。
ルークが来た。ノックしない。
「夕飯行かねえの」
「もう少し」
「あんたのもう少しは長え」
勝手に椅子を引いて座った。殿下の机の向かい。お茶まで淹れ始めている。
殿下はペンを止めない。口元がほんの少しだけ緩んだ。
壁際から二人を見ている。お茶の湯気が部屋の空気にゆっくり広がっていく。
ルークが何か言って、殿下が短く返す。またしばらく黙って、ルークがまた何か言う。たいした話じゃない。講義がどうとか、練武場で誰がどうしたとか。
殿下は聞いている。相槌は少ないけど、ペンを持つ手が止まる瞬間がある。ちゃんと聞いてる。
——一人じゃなくなった。
それを見ていられるだけで、壁際の温度が少し上がる。
◇
翌日。夕方。
殿下が渡り廊下を歩いていた。トビアスが荷物を抱えて半歩後ろ。私はさらにその後ろ。
夕陽が窓の石枠に線を引いている。渡り廊下の先に沈みかけの日。穏やかな色だった。
前方に、人影が見えた。
殿下より先に、足が止まった。見えないのに。身体が先に反応していた。
女生徒が三人。回廊の合流地点に立っている。真ん中の一人を挟むように、両脇の二人が少し引いた位置。
真ん中の女。金の髪。背が高い。制服を着ているのに、ドレスを纏っているみたいな立ち方をしている。
——知ってる。
入学式。壇上。私が断罪された、あの場所。
第一王子エルドの隣で、扇の向こうから笑っていた。面白いものを見る目。値踏みする目。
アリシア・エルドリッジ。第一王子の婚約者。
アリシアが殿下に気づいた。歩みを緩めて、止まる。目を細めて——唇の端だけで笑った。
「あら。レクト殿下」
声が甘い。でもマリエルの甘さとは違う。マリエルは好かれたくて声を作っていた。この女の声には、そういう努力がない。最初から上にいる人間の声。
「最近、お名前をよく耳にしますわ。監察院のこと——大変でしたでしょう?」
殿下が足を止めた。
「これはアリシア嬢。お気遣い恐れ入ります」
丁寧。いつも通り。壁を一枚、間に置いている。
アリシアはそれを気にしない。気にしないどころか、殿下の返事なんて最初から待っていないような顔をしている。視線が殿下の全身を一度、上から下へ流れた。それから周囲——トビアス、ルーク、回廊の空気。
品定め。一秒で全部を値踏みする目。
「——また近いうちにお話しさせてくださいな。殿下のこと、もっとよく知りたいですもの」
言い置いて、歩いていった。殿下の返事を待たなかった。取り巻きが影のようについていく。ヒールの音が回廊に響いて、角を曲がって、消えた。
断る隙がなかった。お茶に誘うのでもない。許可を求めているのでもない。「また来る」と通告しただけ。
——この女。
背筋が冷たい。入学式の壇上で、扇の向こうから私を見下ろしていたのと、同じ目だった。
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