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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第八章 四獣集いし宴
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 ■2■

 白虎の本城、その裏手に広がる修練場。

 『収奪の季(秋)』から『封還の季(冬)』へと向かう、肌を刺すように冷たい朝の空気の中、鋭く鈍い金属音と荒い呼気が痛々しいほど響き渡っていた。


「――そこだ、ファル! 動きが鈍い!」


 ガイアの声と共に、右手から繰り出された短剣が、目にも留まらぬ速さでケセナの死角を突く。


(……軌道は、見えている!)


 オウセイの戦闘経験が、その刃の届く位置を正確に告げていた。

 咄嗟に刀で弾き、身を捻って避けようとする。


 だが、酷使され続けた肉体は、その思考の速度にまるで追いついていなかった。


「……っ!?」


 無理な動きに筋肉が悲鳴を上げ、胸から背へ抜ける十文字の傷痕に、肉が焼けるような激痛が走る。

 わずかに遅れた反応の隙を突き、短剣の柄がケセナの脇腹を強く打った。


 土煙を上げて膝をついたケセナは、荒い息を吐きながら、無意識に自らの胸元――シャツの奥に隠された、塞がりきっていない傷痕を強く押さえた。


「……そこまでだ」

「ケセナ!」


 修練場の隅で腕を組み、静かに見守っていたグレンと、その傍らにいたラルが足早に駆け寄ってくる。


「……ごめん。ありが……っ、痛っ」


 悲鳴を上げる四肢を堪えながら、ケセナは差し出されたラルの手を借りず、自力で立ち上がろうとして、足元に落ちた刀を拾い上げた。


 それは、かつて剣精が宿っていた応龍宝刀、プラークルウだ。

 だが、手にしたそれは冷たく、ただの鉄の塊のようだった。軽いはずなのに、振るうにはあまりにも重い。


 打ち合っても、あの澄んだ共鳴音は響かない。

 姿も見せず、あの騒がしい声も聞こえない。


 精霊を強制的に搾取する外道の魔術を使った自分に、心底愛想を尽かし、怒って口も利いてくれないのだろうか。

 謝りたい。けれど今のケセナには、彼女に完全に拒絶されることが恐ろしくて、その名を呼ぶことすらできなかった。


 そして、あの呪わしい黄金龍も、不気味なほどに囁かない。

 内にも外にも広がる絶対的な静寂が、かえって魂を押し潰すような重い恐怖を運んでくる。


 それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。

 何より、一昼夜後には四獣の族長たちが集う『極秘会談』の刻が迫っている。自分が『王』として中心に立たねば、すべてが終わるのだ。


「……行こう。四獣の、会議へ」


 這いつくばるような声でそう告げた、直後だった。


「――あ……」


 拾い上げたはずの刀が、力なく手からこぼれ落ちた。

 ケセナの視界から急速に色が失われ、世界がぐらりと傾く。


 治癒魔術を無意識に弾いてしまう肉体。

 その自然治癒力だけに頼りながら、三十夜のあいだ一度も止まることなく己を追い込み続けた肉体も精神も、とうに限界を越えていたのだ。


 どさり、と重い音を立てて、ケセナは冷たい地面に突っ伏した。


「ケセナ!!」


 ラルの悲鳴のような絶叫が響く。

 グレンが瞬時に駆け寄り、泥にまみれたケセナの身体を抱き起こした。


「……熱いな」


 吐く息も白くなる凍てつく朝の空気の中で、ケセナの身体だけが異常なほどの高熱を発していた。

 それでいて呼吸は浅い。限界を超えた活動に、身体そのものが悲鳴を上げているのだ。


「……無理もない。この三十夜、こいつは一度も『人間』として休んでいなかった」


 グレンの低く苦い声が、静まり返った修練場に落ちる。


 抱きかかえられたケセナの顔は、気を失ってなお、苦痛に耐えるように歪んでいた。

 その足元に転がる、精霊を失った宝刀を見つめ、ラルは血が滲むほど唇を噛み締める。


 彼女はまだ伝えられずにいた。

 プラークルウは消えたのだという、あまりにも残酷な真実を。

 今それを告げれば、この細い命の糸すら、ぷつりと切れてしまいそうで、ラルはただ沈黙の業を背負うことしかできなかった。


「……準備を整えておけ」


 修練場の入り口に、白虎族長レイアが姿を現した。

 その佇まいは冷徹なまでに凛としているが、倒れたケセナを見つめる青い瞳には、わずかな沈痛の色が混じっている。


「予定通り、今夜出発する。場所は白虎領の境界、『静寂の森』。……族長たちが集う場だ。それまでに、何としてでもその遺児を叩き起こせ」


 レイアはそれだけ言い残し、ばさりと外套を翻して去っていった。


 冷たい地面に残されたのは、癒えぬ傷と、折れそうなほど疲弊した一人の青年。

 そして、彼を無理やりにでも死地へ立たせなければならない、大人たちの重い覚悟。


 それは、反逆の舞台へ向かうにはあまりにも頼りない、それでも確かな出発の合図だった。


 ------


 深い、泥濘のような暗闇の中。

 ケセナは高熱に浮かされながら、音のない世界を彷徨っていた。


 手を伸ばしても、銀色の髪はふわりと消え去ってしまう。

 自分の手が汚れきっているから、誰も触れてはくれないのだと、絶望が胸を焼く。


 だが、窓の外から響く低い鐘の音が、ゆっくりとその意識を暗闇の底から引き上げた。


「……っ」


 目を開けようとして、あまりの瞼の重さに一度断念する。

 全身に鉛を流し込まれたように重く、修練場で打ち据えられた場所が、心臓の鼓動に合わせてどくどくと熱く疼いていた。


 視界が少しずつ焦点を結ぶ。

 そこにあったのは、孤独な夢とは違う、卓上のランプの淡い光に照らされた、見覚えのある三人の確かな影だった。


「……気が付いたか」


 寝台の傍らで腕を組み、椅子に深く腰掛けていたグレンが静かに声をかけた。

 その膝の上には、冷たいままの宝刀プラークルウが置かれている。


 隣ではラルが、祈るような仕草でケセナの額の熱いタオルを取り替えていた。


「グレン、さん……。ラル、ガイアも」

「……倒れるまでやるなんて、バカ。出発直前なのに。置いていくとこだった」


 ラルは毒づきながらも、その声は安堵で微かに震えていた。


 ガイアは壁に背を預け、自らの短剣を弄びながら顔を上げる。


「ま、会議の最中に倒れそうだったら、俺が後ろから首根っこ掴んで無理やり立たせてやるよ」


 わざとらしく鼻で笑い、短剣を鞘に納める。

 ケセナは震える腕で上半身を起こそうとしたが、脇腹と胸を走る激痛に顔を歪めた。


 やはり、傷は塞がっていない。

 魔術を強く拒絶する彼の肉体は、己の生命力だけを燃やして、この限界を越えようとしているのだ。


「……ごめん」

「謝るな。お前はよくやった。……だが、これから向かうのは、寝不足や高熱が言い訳になるような生易しい場所ではないぞ」


 グレンは膝の上から刀を取り、ケセナの枕元へ静かに立てかけた。

 そして横に置かれていた水差しを手に取り、木椀へ水を注ぐ。


「静寂の森まで、馬で陽の半巡。……族長たちが待っている」


 差し出された木椀を、ケセナは震える手で受け取った。

 砂漠のように乾ききった喉へ冷たい水を流し込むと、ぼやけていた意識が少しずつ澄んでいく。

 その先に残ったのは、逃げようのない決意だけだった。


「……うん。行こう」


 ケセナはふらつきながらも、自分の力で寝台から冷たい床へと足を下ろした。


 その背中は、三十夜前より一回り小さく見えるほどに消耗していた。

 それでも立ち上がったその瞳――オウセイの記憶が混じる琥珀色の瞳には、決して消えない覚悟の火が、なおも静かに灯っていた。


 ――幾刻かの後。


 城の門前では、精鋭の白虎騎士たちを引き連れたレイアが、冷徹な月光を浴びて馬に跨っていた。

 整然と並ぶ騎士たちは一言も発さない。だが、彼らの纏う重圧が、これから向かう場所がただの会議ではないことを物語っている。


 吐く息が白く染まる極寒の夜。

 重い足取りで現れたケセナを一瞥し、レイアは氷のような声で告げた。


「……死に損なったようだな、遺児。よく生きて戻った」


 白虎族長なりの、不器用な労いの言葉。

 ケセナは何も言い返さず、ただ深く、静かに一礼した。


 言葉など、要らなかった。


 癒えぬ傷を抱え、体力の限界という細い糸を綱渡りするような、絶望的な旅路。

 世界の命運を決める四獣会議へ向けて、一行は月明かりの中を静かに出発した。

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