■3■
白虎領の境界、古の結界に守られた『静寂の森』。
馬を降り、木々の間を歩むケセナの足取りは重かった。肉体の疲労もある。だが、それ以上に、森の奥から漏れ出す『圧』が、空気そのものに質量を持たせていた。
「……ケセナ、大丈夫?」
隣を歩くラルが、不安げに袖を引く。
ケセナは短く頷いたが、琥珀色の瞳は鋭く細められたままだった。
(……何かが、おかしい)
静寂という名の通り、虫の音一つしない森の闇。
それが、まるで巨大な怪物が口を開け、獲物を待っているように感じられた。
やがて、巨木に囲まれた開けた空間へ辿り着く。
そこには、『四獣の族長』たちが、互いに不干渉の距離を保ち、殺気すら混じる牽制の空気を放って立っていた。
「……遅いのぅ、レイア。年寄りを夜風にさらして、我が領土でも奪う算段かのぅ」
しゃがれた声で毒を吐いたのは、百歳の老人に擬態した青龍族長ツェヴァンだった。
「その遺児が本当に『王』を名乗るに相応しい器かどうか。ここで見極めてやろうかのぅ。死んで証明することにならねばよいが」
そう言って細めた眼の奥では、爬虫類のような冷たい光が揺れている。
だが次の瞬間には、「ふんす」と鼻を鳴らし、面倒臭そうに杖へ体重を預けた。
「……とは言ったものの、やれやれ。他人の器を測るなど、この老体には骨が折れる作業じゃて。こんな湿気た森の中では腰も痛むし、何より羽虫が飛んできそうで気が気でないわい」
(じーさん、マジで虫嫌いなんだな)
ガイアはふと、洞窟で聞いた話を思い出す。
だが、この場にいる誰も、ツェヴァンの奥底に隙など一片もないことを理解していた。油断して踏み込めば、一瞬で喉笛を食い破られる。それがツェヴァン・ロンという男だ。
「老いぼれたふりはやめよ、ツェヴァン。本題に入る」
レイアが氷の刃のような声で言い放つ。
そこに女らしい柔らかさは微塵もなく、ただ一族を統べる絶対者としての威厳だけがあった。
一方、円卓の一角に腰掛けていた玄武族長ビャクレンは、退屈そうに爪先を見つめている。
実の弟であるグレンにすら視線を向けようとはしない。
場に流れるのは、肌を焼くような不信と敵意。
それを背後で見守っていたグレンは、苦い溜息を漏らした。
リュウショウという絶対の重石が取れた今、ここに集まった猛獣たちは、もはや牙を隠そうともしない。
「親書に記した通りだ」
レイアが中心に立つケセナを示した。
「皇都の玉座に座る『フィサルーア』は、ノヴェリアが禁呪で創り出した肉人形。真の皇位継承権を持つのは、ここにいるリュウショウの遺児、ファルイーアただ一人。我ら四獣は結集し、偽りの皇帝を討つ。……異論はあるか」
「異論しかないな」
即座に返したのは、ビャクレンだった。
「第一、その『本物』とやらを見てみろ。立っているのがやっとの顔色だ。治りきらぬ傷を庇い、己の魔力すら制御できずに弾いている……哀れな欠陥品ではないか。そんな壊れた兵器のために、一族の血を流せと言うのか?」
びくりと、ケセナの身体が震えた。
(この男は……俺の限界に気づいている)
「――兵器ではありません、兄上」
静寂の森を裂くように、怒りを孕んだ声が響く。
グレンだった。
実の兄へ向ける、三十星霜ぶりの言葉。
情ではなく、ただ一人の青年を守るためだけに放たれた、静かな刃だった。
「死んだ男の血筋など、今の世に何の価値もない。……愚弟よ」
ビャクレンは冷酷に切り捨てる。
「大体、白虎の女傑ともあろう者が、随分と感傷に浸ったものだ。玉座の中身が人形だろうが化け物だろうが、世が回っているならそれでいい。我ら玄武は、とうの昔に勝者の側に立っているのだからな」
「……血迷ったか、玄武。評議会の犬に成り下がるのがお前たちの誇りか」
「誇りで飯が食えるのは、頭の中がお花畑のそこの騎士様だけだ。政治という盤面において、お前たちはすでに『詰んで』いる」
白虎の冷徹な殺意。
玄武の傲慢な嘲笑。
それに青龍の食えない態度が絡み合い、森の空気はもはや呼吸すら苦しいほどの毒気を帯びていた。
腹の探り合い。
言葉尻を捕らえた牽制。
一向に進まない議論。
その政治的駆け引きを、朱雀の席で腕を組んで聞いていた若き族長が、ふいに赤い髪をガシガシと掻きむしった。
「……あー、もう。マジでうぜぇ……」
静寂の森に、ガイアの心底うんざりしたような声が響く。
全員の視線が、不機嫌そうに顔を上げた朱雀の長へ集まった。
「あんたら、さっきから回りくどいんだよ。本物だの偽物だの、誇りだの盤面だの……。朱雀は、あの皇都でふんぞり返ってる気に食わねぇ偽物をブッ飛ばして、ここにいるファルイーアを助けたい。ただそれだけだ」
単純明快。
一切の政治的配慮を投げ捨てた発言に、ツェヴァンが目を丸くし、やがて「くかっ」と吹き出した。
「くかっ、くかかかか! まったく、朱雀の坊主は相変わらずじゃのぅ! 政治の場に土足で踏み込んで卓を蹴り飛ばすようなその馬鹿さ加減、嫌いではないぞ!」
「馬鹿って言うな、じーさん!」
族長同士が噛み付くその横で、ケセナは痛む胸を押さえながら、短く息を吐いた。
(……俺が、ちゃんと言わなきゃ駄目だ)
ケセナはよろめく足に無理やり力を込めて、一歩、前へ出た。
「……俺は、あなたたちに命を懸けてほしいわけじゃない」
芯のある声だった。
ビャクレンの黒い瞳が、面白そうにケセナを捉える。
「玉座も要らない。王として崇められたいわけでもない。……ただ、フィサルーアを止めなきゃいけないんだ。あいつの奥にいる『魔人』が、リュウショウ陛下が遺したこの世界を壊してしまう前に」
魔人。
その単語が出た瞬間、ツェヴァンの顔から老人の笑みが消え、レイアの目が鋭く細められた。
だが、ただ一人。ビャクレンだけは鼻で嗤って立ち上がった。
「……魔人だと? 狂気に当てられて幻覚でも見たか。それとも、己の不出来を奴らのせいにしたいのか」
「違う! 本当に――」
「もういい。見極めは終わった」
ビャクレンが片手を高く挙げた。
それは、逆賊に対する死刑宣告の合図だった。
「――っ! 来るッ」
ケセナの中にあるオウセイの直感が、森の異変をいち早く捉えた。
ただの暗殺者ではない。森の奥から、空気を腐らせるような『魔人の気配』が急激に膨れ上がっていたのだ。
ケセナが咄嗟に結界を展開したのと、頭上の巨木から『黒い雨』が降り注いだのは、ほぼ同時だった。
空気を裂く鋭い音。
無数の黒い刃が月光を反射し、円卓の空間へ一斉に殺到する。
「――ッ!」
ケセナの琥珀色の瞳が鋭く見開かれ、咄嗟に展開された防壁が、その凶刃を弾き返す。
だが、その衝撃は限界を迎えていた肉体を容赦なく打ち据え、彼は血を吐いて片膝をついた。
「ケセナ!」
ラルの悲鳴が響く。
彼女は即座に両手を天へ掲げた。
「――力を貸して!」
声に応えた風精霊たちが、喜ぶように彼女の周囲を舞い、緑色の突風となって残りの刃を空へ吹き飛ばした。
「チッ、数が多いぜ!」
ガイアが短剣を閃かせ、闇から飛び出した刺客の喉笛を的確に掻き切る。
レイアは一歩も動かず、ただ白虎の覇気だけで近づく者の臓腑を潰し、ツェヴァンは「やれやれ」とぼやきながら、杖の先から放つ水刃で刺客の足を正確に削いでいく。
四獣の長たちと、皇都の暗殺部隊による乱戦。
その血みどろの光景を、ビャクレンは岩場から冷ややかに見下ろしていた。
「……期待外れだな。あの程度の奇襲を凌ぐのに、精一杯か」
ビャクレンは退屈そうに立ち上がり、刺客たちに背を向けて森の奥へ歩み出した。
「待て、兄上ッ!!」
グレンが剣を振り被り、その背を追おうと地を蹴る。
だが、行く手を三人の特級暗殺者が音もなく塞いだ。
「退けッ!!」
魔力を持たぬグレンの、鍛え抜かれた純粋な剣技が刺客たちの刃を弾き飛ばす。
だがその数刻の足止めのあいだに、ビャクレンの姿はすでに闇に溶けようとしていた。
「せいぜい足掻け、愚弟。そして白虎も、青龍も……ここで歴史の敗者として土に還るがいい」
冷酷な捨て台詞と共に、玄武族長は完全に姿を消した。
「……ッ、グレンさん、後ろ!」
ケセナが叫ぶ。
ビャクレンがその場を去ったことで、森の奥に潜んでいた魔術兵たちが、ついに大規模殲滅魔術の詠唱を完了させていた。
狙いは、膝をついたケセナ。
「させねぇよ!!」
ガイアが割って入ろうとするが、刺客の波に阻まれて届かない。
ツェヴァンもレイアも、多勢に無勢の防衛戦で一瞬の隙を作れずにいた。
(……駄目だ。このままじゃ、ラルが……みんなが!)
ケセナの意識が、絶望と激痛の中で明滅する。
その瞬間だった。
『――退け』
ケセナの脳裏で。
いや、世界の深淵そのもので。
絶対的な救世主の声が響いた。
五千星霜前の蒼髪の救世主――オウセイの記憶が、防衛本能としてケセナの肉体を強引に乗っ取ったのだ。
「……え?」
ラルが息を呑む。
膝をついていたケセナが、ふらりと立ち上がった。
その琥珀色の瞳は、先ほどまでの痛みに耐える青年のものではない。
一切の感情を排した、冷酷で、底知れぬ傲慢さを湛える眼光だった。
ケセナは、無造作に右手を虚空へ向けた。
詠唱はない。
祈りもない。
契約すら、存在しない。
「――来い」
ただ一言、命じる。
それは魔術ではない。
世界そのものを理不尽に捻じ曲げる、絶対支配の力――『魔法』。
次の瞬間、森の空気が悲鳴を上げた。
ラルの魔術に協力していた風の精霊たち。
そして周囲の木々に宿る地の精霊たち。
それらすべてが、目に見えぬ巨大な力によって強制的に引き剥がされ、ケセナの右手へ凄まじい勢いで吸い寄せられていく。
「や、やめて……! 精霊たちが、泣いてる……ッ!」
精霊の声を聞くことのできるラルが、耳を塞いでしゃがみ込む。
魔法とは、搾取だ。
集められた精霊たちは、ケセナの右手の中で極限まで圧縮され、その生命力を最後の一滴まで強制的に絞り取られていく。
光の粒子が断末魔のような音を立てて砕け散り、ケセナの手のひらに、純粋な破壊だけが黒く渦巻いた。
「消えろ」
ケセナが腕を振るった。
同時に、右腕から黄金龍が解き放たれる。
だが、それは光り輝く龍ではなかった。
精霊の命を喰らい、どす黒い怨念に染まりきった、禍々しい龍だった。
黒き龍の閃光は、魔術兵たちが放とうとしていた大規模魔術を紙のように食い破り、そのまま森の一角を、三十人近い暗殺部隊もろとも完全に『消滅』させた。
爆音すらない。
ただ、そこにあったはずの空間だけが、抉り取られたように消え去った。
後に残されたのは、魔法の代償として存在そのものを燃やし尽くされた精霊たちの、『死の残滓』だけだった。
「…………な、にを……」
ガイアが短剣を取り落とし、呆然と呟く。
ツェヴァンの顔から完全に余裕が消え去り、レイアでさえ戦慄に目を見開いていた。
彼らが見たのは、英雄の力ではない。
精霊を犠牲にし、世界を喰らって放たれる、世界を滅ぼしかけた『魔法』そのものだった。
「あ……」
オウセイの意識が退き、ケセナは自らの右手と、灰が舞う惨状を見つめた。
痛みが消えたわけではない。ただ、自分が無意識のうちに振るった力のあまりのおぞましさに、全身の血が凍りついていた。
黄金龍すら屈服させた、オウセイの力。
偽りの皇帝を討つための『切り札』は、味方であるはずの精霊を虐殺する、呪われた力だった。
静寂の森に、かつてないほど重く冷たい沈黙が降りた。




