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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第八章 四獣集いし宴
55/60

 ■1■

 大陸の北方。

 一星霜中、凍てつく風が吹き荒れる極寒の市街『ブルーアカス』。

 四獣の一角、『玄武』の広大な本城の奥深くで、重厚な執務机に一人の男が座っていた。

 玄武族長、ビャクレン・ラティア。

 五人兄弟の長男である彼の、漆黒の髪と闇のように深い黒の瞳は、一切の感情を透かさない。一族の絶対的な支配者としての威圧感を纏う彼の手元には、つい先ほど『裏の経路』から届けられたばかりの、白虎の紋章が封蝋された親書が広げられていた。


「……五千星霜前の歴史の再現。四獣の極秘会談、か。白虎の女傑も、随分と夢見がちになったものだ」


 ビャクレンは鼻で嗤い、豪奢な羊皮紙を無造作に机の上に放り投げた。


「先の戦争で評議会と現皇帝の側につき、確固たる地位を築いた我ら玄武が、今更あの道化一人のために反旗を翻すとでも思ったのか。政治というものを欠片も理解しておらん」

「いかがなさいましょうか、族長」


 部屋の影から、音もなく側近が進み出る。

 ビャクレンは冷ややかな目で窓の外、吹雪に煙る北の大地を見下ろした。


(……皇帝の座など、とうの昔に我ら玄武の掌の上だというのに)


 ビャクレンの脳裏に、今は亡き妹、ノヴェリアの顔がよぎる。

 『次代の皇帝の母となる』という、一族の、そして彼女自身の狂気じみた野望。

 政略結婚でリュウショウの妃となったノヴェリアだったが、玄武を嫌悪していたリュウショウは、彼女に指一本触れようとはしなかった。

 だがその一方で、側妃が身籠ったと知ったノヴェリアの嫉妬と野望は、越えてはならない一線を越えた。


『――次代の皇帝は、私が生み出す』


 身籠った側妃を秘密裏に誘拐し、胎児の肉体を削り取るという正気の沙汰ではない凶行。

 麒麟族の術士を脅し、その肉片を核として禁呪『生物創造』を行わせ、胎児と瓜二つの人形を創り出した。そして誕生と同時に、本物の皇子とすり替えたのだ。

 麒麟の術士夫婦を惨殺したノヴェリアもまた、すでにこの世にはないが、彼女が残した『最高傑作』は、今も玉座に座っている。


「……本物の皇子から肉を抉り出して創られた、哀れで滑稽な肉人形。それが己を本物の皇帝だと信じ込み、評議会を従え、世界を回している」


 くくっ、と。ビャクレンの喉の奥から、底冷えのするような笑い声が漏れた。


「そして、すべてを奪われ、兵器として創られたと偽の記憶を植え付けられた『本物』を、白虎と朱雀が必死に守り、王として担ぎ上げようとしている。……滑稽だな。これだから、歴史の傍観者はやめられん」


 ビャクレンの黒い瞳に、微かな、しかし決定的な『殺意』が宿る。

 この完璧な盤面に唯一の泥を塗ったのは、すべてを捨てて逃げ出した、あの愚かな末弟だ。

 玄武の血にありながら情に絆され、リュウショウに懐き、あまつさえ本物の皇子を拾って育てているというグレン。


「グレン。……お前はどこまで玄武の顔に泥を塗れば気が済むのだ」


 ビャクレンは机の上の親書を再び手に取ると、側近へと冷酷に言い放った。


「この親書を、即座に皇都の『評議会』へ送れ。……それから、フィサルーアの側近にもだ」

「よろしいので? それでは、白虎と朱雀が完全に逆賊として……」

「構わん。我ら玄武の『忠誠』を示す、これ以上ない手土産になる」


 ビャクレンは口角を歪め、一族の長としての冷徹な決断を下す。


「玉座で踊る狂った人形も、それを裏で操るつもりの評議会の狸共も、いずれ我ら玄武がすべてを喰い破る。だが、今はまだその時ではない。……白虎と朱雀には、あの忌々しい本物の遺児もろとも、我が一族の繁栄のための礎となってもらおう」


 北の凍てつく風が、窓をガタガタと揺らした。

 ケセナたちが白虎の城で過酷なリハビリに励み、四獣の結集という希望に向けて歩み出し始めたその裏で。

 世界の真実を握る実の兄による冷酷な裏切りの刃が、彼らの喉元へと静かに、そして確実に突きつけられようとしていた。


------


 玄武の極寒の城から遠く離れた、大陸の東方。

 深い霊峰の霧に包まれた『青龍』の本拠地、『ウルタニア』。

 その最奥にある静謐な座敷で、青龍族長ツェヴァンは、香炉から立ち昇る一筋の煙を静かに見つめていた。

 薄く透き通るような水色の髪を緩く束ね、澄んだ水面のような淡い青色の瞳。

 齢六十を超える男、それが青龍族長、ツェヴァン・ロンの本来の姿だ。

 彼の手元には、マジョルドが放った白虎の親書が置かれている。


「……応龍族の完全殲滅、そして四獣への脅迫。皇都の『人形』も、いよいよ狂気を隠さなくなってきたな」


 ツェヴァンの声は、怒りも焦りも帯びていない。ただ、ひどく冷たく透き通っていた。


「ツェヴァン様」


 襖の向こうから、青龍の側近が恭しく声をかける。


「評議会からの通達の通り、我が領地にも皇都の監視の目が入り始めております。いかがなさいますか。白虎からの親書、握り潰すのが賢明かと思われますが」


 側近の言葉はもっともだった。今、白虎の呼びかけに応じることは、皇都への明確な反逆を意味する。玄武のように密告し、一族の保身を図るのが政治の定石だ。

 だが、ツェヴァンは静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。

 彼の脳裏に蘇るのは、中継要塞都市ジェグヌの路地裏で、血塗れになりながらも「ファルイーアはリュウショウ様を殺していない」と、真実を泣き叫ぶように語った、愛弟子の顔。

 あの日以来、ツェヴァンは評議会の懐に潜り込み、従順な老人のふりをしながら、玉座に座る狂王の腐った腹の中を探り続けてきたのだ。


「……五千星霜前。我ら青龍の祖は、蒼髪の救世主の背中を、誰よりも近くで守り抜いた」

「ツェヴァン様……?」

「その誇り高き血脈が、我が君を暗殺した『出所不明の薄汚い肉人形』などに、これ以上傅かねばならん道理はない」


 静かな口調の中に潜む、絶対的な怒りと、揺るぎない忠誠。

 ツェヴァンはゆっくりと立ち上がると、自らの肉体に宿る『水分量』を魔力で操作し始めた。

 張りのあった六十の肌からスッと水分が抜け、薄い水色の髪は一瞬にして雪のような白髪へと変わり、顎には長く立派な白髭が伸びていく。

 わずか数刻。そこに立っていたのは、百歳を優に超えるであろう『威厳に満ちた枯れた老爺』だった。評議会の監視の目を欺き続けるための、完璧な擬態である。


「……レイアめ。随分と強気に出たものだ」


 長く伸びた白髭を撫でながら、老爺の姿となったツェヴァンは、手元の親書を見つめてフッと柔らかく笑った。


「それにしても。あの時、泣きそうになりながら背後で震えておった小童が、四獣の中央に立つ『王』の顔をするようになったとはな」


 ツェヴァンの周囲に、清冽な水の魔力が渦を巻く。その枯れた外見からは到底想像もつかない圧倒的な覇気に、襖の向こうの側近が息を呑んだ。


「玄武の坊やも、少しはまともな教え方をするようになったか」


 ツェヴァンの水色の瞳が、東の空の彼方、白虎の領地へと向けられる。


「待たせたな。……我ら青龍、喜んで世界を敵に回そう――」


 力強い反逆の宣言の途中で、親書の端を、不気味な節足を持った手のひらほどの大きさの黒い虫が這い回り、ツェヴァンは背筋を凍らした。


「――ひぃっ!?」


 鼓膜を破る落雷の音が響く。

 先ほどまでの重厚な覇気も、百歳を超える老爺の威厳もすべて消し飛び、ツェヴァンは神速の雷を纏って部屋の隅まで後退りしていた。そして、彼が振るった無意識かつ全力の雷撃により、レイアからの親書もろとも、最高級の紫檀でできた文机が黒焦げの木端微塵に吹き飛ぶ。


「な、なんじゃあいつは!脚が多すぎるじゃろうが!!」


 部屋の隅で震えながら、ツェヴァンは完全に素の齢六十の動きで壁にへばりついている。


「……ツェヴァン様」


 襖が開き、焦げ臭い煙が充満する部屋に入ってきた側近が、冷ややかに慣れた様子の溜息をついた。


「また机を粉砕されたのですね。二十夜内で五つ目です」

「し、仕方なかろう!あんな禍々しい生命体が侵入しておるんじゃぞ!結界班は何をしておる!」

「山の中ですので、虫くらい出ます。それより親書まで燃やしてしまって……極秘会談の場所と刻は覚えておいでですか?」

「あ」


 ツェヴァンは間抜けた声を漏らし、黒焦げになった床の残骸を見た。


「…………たしか、白虎の領地の、どこかの森じゃったか?」

「はぁ……」


 側近の深いため息が、霊峰の青龍の間に空しく響き渡る。

 東の霊峰に上がった反逆の狼煙は、一匹の虫によって締まらない形で幕を開け、青龍は極秘会談の場へと静かに動き出すのだった。


------


 皇都『オーレルディア』の皇宮。

 光に満たされていた、かつての面影はない。

 そこは、昼間でも窓が厚いカーテンで閉ざされ、至る所に燭台の炎が揺らめく、閉塞感と死の香りが漂う。


「――ねぇ、聞こえる? また『僕』が泣いているよ」


 玉座の間。

 豪奢な椅子に深く腰掛け、退屈そうに銀の細剣で床をなぞっている青年がいた。

 フィサルーア。

 ファルイーアと瓜二つの容姿を持ちながら、その右目は黒い眼帯で覆われ、さらにそれを隠すように右側の前髪が長く伸び、顔の半分を陰らせている。眼帯の下にあるのは、禁呪の唯一の失敗作とされる、不透明な灰色の瞳だ。

 彼の左瞳……『真紅』の瞳には本来の知性はなく、ドス黒い、どろりとした『何か』が蠢いていた。


「兄上……。あはは、可哀想に。今度は白虎の女狐に拾われて、また兵器の真似事をさせられているんだね」


 『兄上』と呼ぶその声には、敬意など微塵も存在しない。あるのは、自分という完璧な存在に泥を塗る、忌々しいファルイーアへの、吐き捨てるような侮蔑の響きだけだ。

 フィサルーアは虚空を見つめて残忍な笑みを浮かべた。

 彼にとって、ファルイーアは兄弟ではない。

 完璧な偽物としての生を脅かす『不要な人形』でしかなかった。


 その時、重厚な扉が開き、評議会の重鎮たちが入ってきた。


「皇帝陛下。……北の玄武より、極めて興味深い報せが届きました」


 先頭に立つ老人が、ビャクレンが売った白虎の親書を差し出す。


「ふぅん……?」


 フィサルーアが書状を奪い取るようにして目を通す。読み進めるうちに、彼の真紅の左瞳に宿る魔人の影が激しく蠢き、口角が釣り上がった。


「あはははは!四獣結集!極秘会談!凄いね、あの落ちこぼれたちが、必死に私を引きずり下ろそうとしているよ!」


 狂ったような笑い声が広間に響き渡る。評議会の老人たちは、フィサルーアを『皇帝』と呼びながらも、その目は珍しい見世物を見るような冷ややかさを湛えていた。


「いかがなさいましょうか。極秘会談の場所は、白虎の領地『静寂の森』の奥深くのようです」

「いかがも何もないよ。……あの目障りな人形を、処分しろ」


 フィサルーアは椅子から立ち上がると、銀の細剣を音を立てて鞘に収めた。


「評議会の皆さんは、直属の部隊を貸してよ。ビャクレンに送ってくれる?……あ、そうだ」


 フィサルーアはふと思い出したように、老人の一人に顔を近づけた。魔人の汚染が強まり、その顔は一瞬、人ではない何かのように歪む。


「玄武のビャクレンには伝えておいて。『妹の最高傑作を売らなかった君の賢明さに感謝する。……ところで弟の首は、君が自分で狩るかい?』ってね」


 老人が満足げに頷き、退室していく。

 一人残された広場で、フィサルーアは自らの左胸を強く掻きむしった。

 そこには、かつてファルイーアの胎児としての肉片を抉り取って埋め込んだとされる、歪な傷跡がある。

 そして。

 前髪に隠された眼帯の奥、決して光を映さないはずの灰色の瞳が、意志とは無関係に、一筋の涙を流した。


「ああ……疼くよ。母上に『貴方は最高傑作よ』と抱きしめられた時から、ずっと。……ねぇ、ファルイーア。君が死ねば、私はこの乾きから解放されるのかな?」


 狂王の独り言は、誰に届くこともなく闇に溶けていった。

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