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大陸の北方。
一星霜中、凍てつく風が吹き荒れる極寒の市街『ブルーアカス』。
四獣の一角、『玄武』の広大な本城の奥深くで、重厚な執務机に一人の男が座っていた。
玄武族長、ビャクレン・ラティア。
五人兄弟の長男である彼の、漆黒の髪と闇のように深い黒の瞳は、一切の感情を透かさない。一族の絶対的な支配者としての威圧感を纏う彼の手元には、つい先ほど『裏の経路』から届けられたばかりの、白虎の紋章が封蝋された親書が広げられていた。
「……五千星霜前の歴史の再現。四獣の極秘会談、か。白虎の女傑も、随分と夢見がちになったものだ」
ビャクレンは鼻で嗤い、豪奢な羊皮紙を無造作に机の上に放り投げた。
「先の戦争で評議会と現皇帝の側につき、確固たる地位を築いた我ら玄武が、今更あの道化一人のために反旗を翻すとでも思ったのか。政治というものを欠片も理解しておらん」
「いかがなさいましょうか、族長」
部屋の影から、音もなく側近が進み出る。
ビャクレンは冷ややかな目で窓の外、吹雪に煙る北の大地を見下ろした。
(……皇帝の座など、とうの昔に我ら玄武の掌の上だというのに)
ビャクレンの脳裏に、今は亡き妹、ノヴェリアの顔がよぎる。
『次代の皇帝の母となる』という、一族の、そして彼女自身の狂気じみた野望。
政略結婚でリュウショウの妃となったノヴェリアだったが、玄武を嫌悪していたリュウショウは、彼女に指一本触れようとはしなかった。
だがその一方で、側妃が身籠ったと知ったノヴェリアの嫉妬と野望は、越えてはならない一線を越えた。
『――次代の皇帝は、私が生み出す』
身籠った側妃を秘密裏に誘拐し、胎児の肉体を削り取るという正気の沙汰ではない凶行。
麒麟族の術士を脅し、その肉片を核として禁呪『生物創造』を行わせ、胎児と瓜二つの人形を創り出した。そして誕生と同時に、本物の皇子とすり替えたのだ。
麒麟の術士夫婦を惨殺したノヴェリアもまた、すでにこの世にはないが、彼女が残した『最高傑作』は、今も玉座に座っている。
「……本物の皇子から肉を抉り出して創られた、哀れで滑稽な肉人形。それが己を本物の皇帝だと信じ込み、評議会を従え、世界を回している」
くくっ、と。ビャクレンの喉の奥から、底冷えのするような笑い声が漏れた。
「そして、すべてを奪われ、兵器として創られたと偽の記憶を植え付けられた『本物』を、白虎と朱雀が必死に守り、王として担ぎ上げようとしている。……滑稽だな。これだから、歴史の傍観者はやめられん」
ビャクレンの黒い瞳に、微かな、しかし決定的な『殺意』が宿る。
この完璧な盤面に唯一の泥を塗ったのは、すべてを捨てて逃げ出した、あの愚かな末弟だ。
玄武の血にありながら情に絆され、リュウショウに懐き、あまつさえ本物の皇子を拾って育てているというグレン。
「グレン。……お前はどこまで玄武の顔に泥を塗れば気が済むのだ」
ビャクレンは机の上の親書を再び手に取ると、側近へと冷酷に言い放った。
「この親書を、即座に皇都の『評議会』へ送れ。……それから、フィサルーアの側近にもだ」
「よろしいので? それでは、白虎と朱雀が完全に逆賊として……」
「構わん。我ら玄武の『忠誠』を示す、これ以上ない手土産になる」
ビャクレンは口角を歪め、一族の長としての冷徹な決断を下す。
「玉座で踊る狂った人形も、それを裏で操るつもりの評議会の狸共も、いずれ我ら玄武がすべてを喰い破る。だが、今はまだその時ではない。……白虎と朱雀には、あの忌々しい本物の遺児もろとも、我が一族の繁栄のための礎となってもらおう」
北の凍てつく風が、窓をガタガタと揺らした。
ケセナたちが白虎の城で過酷なリハビリに励み、四獣の結集という希望に向けて歩み出し始めたその裏で。
世界の真実を握る実の兄による冷酷な裏切りの刃が、彼らの喉元へと静かに、そして確実に突きつけられようとしていた。
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玄武の極寒の城から遠く離れた、大陸の東方。
深い霊峰の霧に包まれた『青龍』の本拠地、『ウルタニア』。
その最奥にある静謐な座敷で、青龍族長ツェヴァンは、香炉から立ち昇る一筋の煙を静かに見つめていた。
薄く透き通るような水色の髪を緩く束ね、澄んだ水面のような淡い青色の瞳。
齢六十を超える男、それが青龍族長、ツェヴァン・ロンの本来の姿だ。
彼の手元には、マジョルドが放った白虎の親書が置かれている。
「……応龍族の完全殲滅、そして四獣への脅迫。皇都の『人形』も、いよいよ狂気を隠さなくなってきたな」
ツェヴァンの声は、怒りも焦りも帯びていない。ただ、ひどく冷たく透き通っていた。
「ツェヴァン様」
襖の向こうから、青龍の側近が恭しく声をかける。
「評議会からの通達の通り、我が領地にも皇都の監視の目が入り始めております。いかがなさいますか。白虎からの親書、握り潰すのが賢明かと思われますが」
側近の言葉はもっともだった。今、白虎の呼びかけに応じることは、皇都への明確な反逆を意味する。玄武のように密告し、一族の保身を図るのが政治の定石だ。
だが、ツェヴァンは静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。
彼の脳裏に蘇るのは、中継要塞都市ジェグヌの路地裏で、血塗れになりながらも「ファルイーアはリュウショウ様を殺していない」と、真実を泣き叫ぶように語った、愛弟子の顔。
あの日以来、ツェヴァンは評議会の懐に潜り込み、従順な老人のふりをしながら、玉座に座る狂王の腐った腹の中を探り続けてきたのだ。
「……五千星霜前。我ら青龍の祖は、蒼髪の救世主の背中を、誰よりも近くで守り抜いた」
「ツェヴァン様……?」
「その誇り高き血脈が、我が君を暗殺した『出所不明の薄汚い肉人形』などに、これ以上傅かねばならん道理はない」
静かな口調の中に潜む、絶対的な怒りと、揺るぎない忠誠。
ツェヴァンはゆっくりと立ち上がると、自らの肉体に宿る『水分量』を魔力で操作し始めた。
張りのあった六十の肌からスッと水分が抜け、薄い水色の髪は一瞬にして雪のような白髪へと変わり、顎には長く立派な白髭が伸びていく。
わずか数刻。そこに立っていたのは、百歳を優に超えるであろう『威厳に満ちた枯れた老爺』だった。評議会の監視の目を欺き続けるための、完璧な擬態である。
「……レイアめ。随分と強気に出たものだ」
長く伸びた白髭を撫でながら、老爺の姿となったツェヴァンは、手元の親書を見つめてフッと柔らかく笑った。
「それにしても。あの時、泣きそうになりながら背後で震えておった小童が、四獣の中央に立つ『王』の顔をするようになったとはな」
ツェヴァンの周囲に、清冽な水の魔力が渦を巻く。その枯れた外見からは到底想像もつかない圧倒的な覇気に、襖の向こうの側近が息を呑んだ。
「玄武の坊やも、少しはまともな教え方をするようになったか」
ツェヴァンの水色の瞳が、東の空の彼方、白虎の領地へと向けられる。
「待たせたな。……我ら青龍、喜んで世界を敵に回そう――」
力強い反逆の宣言の途中で、親書の端を、不気味な節足を持った手のひらほどの大きさの黒い虫が這い回り、ツェヴァンは背筋を凍らした。
「――ひぃっ!?」
鼓膜を破る落雷の音が響く。
先ほどまでの重厚な覇気も、百歳を超える老爺の威厳もすべて消し飛び、ツェヴァンは神速の雷を纏って部屋の隅まで後退りしていた。そして、彼が振るった無意識かつ全力の雷撃により、レイアからの親書もろとも、最高級の紫檀でできた文机が黒焦げの木端微塵に吹き飛ぶ。
「な、なんじゃあいつは!脚が多すぎるじゃろうが!!」
部屋の隅で震えながら、ツェヴァンは完全に素の齢六十の動きで壁にへばりついている。
「……ツェヴァン様」
襖が開き、焦げ臭い煙が充満する部屋に入ってきた側近が、冷ややかに慣れた様子の溜息をついた。
「また机を粉砕されたのですね。二十夜内で五つ目です」
「し、仕方なかろう!あんな禍々しい生命体が侵入しておるんじゃぞ!結界班は何をしておる!」
「山の中ですので、虫くらい出ます。それより親書まで燃やしてしまって……極秘会談の場所と刻は覚えておいでですか?」
「あ」
ツェヴァンは間抜けた声を漏らし、黒焦げになった床の残骸を見た。
「…………たしか、白虎の領地の、どこかの森じゃったか?」
「はぁ……」
側近の深いため息が、霊峰の青龍の間に空しく響き渡る。
東の霊峰に上がった反逆の狼煙は、一匹の虫によって締まらない形で幕を開け、青龍は極秘会談の場へと静かに動き出すのだった。
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皇都『オーレルディア』の皇宮。
光に満たされていた、かつての面影はない。
そこは、昼間でも窓が厚いカーテンで閉ざされ、至る所に燭台の炎が揺らめく、閉塞感と死の香りが漂う。
「――ねぇ、聞こえる? また『僕』が泣いているよ」
玉座の間。
豪奢な椅子に深く腰掛け、退屈そうに銀の細剣で床をなぞっている青年がいた。
フィサルーア。
ファルイーアと瓜二つの容姿を持ちながら、その右目は黒い眼帯で覆われ、さらにそれを隠すように右側の前髪が長く伸び、顔の半分を陰らせている。眼帯の下にあるのは、禁呪の唯一の失敗作とされる、不透明な灰色の瞳だ。
彼の左瞳……『真紅』の瞳には本来の知性はなく、ドス黒い、どろりとした『何か』が蠢いていた。
「兄上……。あはは、可哀想に。今度は白虎の女狐に拾われて、また兵器の真似事をさせられているんだね」
『兄上』と呼ぶその声には、敬意など微塵も存在しない。あるのは、自分という完璧な存在に泥を塗る、忌々しいファルイーアへの、吐き捨てるような侮蔑の響きだけだ。
フィサルーアは虚空を見つめて残忍な笑みを浮かべた。
彼にとって、ファルイーアは兄弟ではない。
完璧な偽物としての生を脅かす『不要な人形』でしかなかった。
その時、重厚な扉が開き、評議会の重鎮たちが入ってきた。
「皇帝陛下。……北の玄武より、極めて興味深い報せが届きました」
先頭に立つ老人が、ビャクレンが売った白虎の親書を差し出す。
「ふぅん……?」
フィサルーアが書状を奪い取るようにして目を通す。読み進めるうちに、彼の真紅の左瞳に宿る魔人の影が激しく蠢き、口角が釣り上がった。
「あはははは!四獣結集!極秘会談!凄いね、あの落ちこぼれたちが、必死に私を引きずり下ろそうとしているよ!」
狂ったような笑い声が広間に響き渡る。評議会の老人たちは、フィサルーアを『皇帝』と呼びながらも、その目は珍しい見世物を見るような冷ややかさを湛えていた。
「いかがなさいましょうか。極秘会談の場所は、白虎の領地『静寂の森』の奥深くのようです」
「いかがも何もないよ。……あの目障りな人形を、処分しろ」
フィサルーアは椅子から立ち上がると、銀の細剣を音を立てて鞘に収めた。
「評議会の皆さんは、直属の部隊を貸してよ。ビャクレンに送ってくれる?……あ、そうだ」
フィサルーアはふと思い出したように、老人の一人に顔を近づけた。魔人の汚染が強まり、その顔は一瞬、人ではない何かのように歪む。
「玄武のビャクレンには伝えておいて。『妹の最高傑作を売らなかった君の賢明さに感謝する。……ところで弟の首は、君が自分で狩るかい?』ってね」
老人が満足げに頷き、退室していく。
一人残された広場で、フィサルーアは自らの左胸を強く掻きむしった。
そこには、かつてファルイーアの胎児としての肉片を抉り取って埋め込んだとされる、歪な傷跡がある。
そして。
前髪に隠された眼帯の奥、決して光を映さないはずの灰色の瞳が、意志とは無関係に、一筋の涙を流した。
「ああ……疼くよ。母上に『貴方は最高傑作よ』と抱きしめられた時から、ずっと。……ねぇ、ファルイーア。君が死ねば、私はこの乾きから解放されるのかな?」
狂王の独り言は、誰に届くこともなく闇に溶けていった。




