■3■
静まり返ったはずの屋敷に、ゆっくりとした、しかし確かな足音が響く。
凍りつくような、白く底知れぬ気配。
土煙の向こうから悠然と歩み寄ってきたのは、『無慈悲の慈愛』――白虎族長レイア・ファンサルだった。
「私の幻影を消すとは。その娘、何者だ? 逃亡の騎士団長」
一切の感情を排した、冷徹そのものの声が戦場に落ちる。
「……逃げた、つもりはないですがね」
「知っている。お前はリュウショウ様のためだけに生きているからな」
その淡々とした応酬を聞きながら、ガイアは息を呑んだ。
(幻影とは、次元が違う……っ!)
全身の肌を粟立たせるような、底知れぬ寒気。
これこそが、本物のレイア・ファンサルの気配だった。
背筋を冷や汗が伝い落ちる。
ガイアは本能で悟らざるを得なかった。絶対に、勝てない、と。
「だが」
レイアの氷のような視線が、グレンの背後で倒れ伏すケセナへと向けられる。
「その『化け物』に対しては違ったと私は記憶している。お前は一体、何がしたい?」
「……」
「リュウショウ様を殺害し、ノヴェリアの残留思念のような……そんな人形を、お前はなぜ庇う?」
ああ、と。
グレンは内心でひっそりと短く息を吐いた。
それが、この世界に広まっている捻じ曲がった『事実』なのだ。
殺気を纏う今のレイアに、正面から何を言っても無駄だろう。
それでも、言わねばならない。捻じ曲げられた事実ではなく、この世界の『本当』を。
どうすれば、この怒れる『無慈悲の慈愛』に言葉が届くのか。
グレンは記憶の底から、親友の手腕を思い出した。そして、一つの強烈な賭けに出る。
「レイア様」
グレンは構えていた剣の切っ先をわずかに下げ、真っ直ぐにレイアを見据えて告げた。
「――陛下より、ご命令がございます」
リュウショウは、もうこの世にはいない。
今、この世界で『陛下』と呼ばれる人物はただ一人。
世界をかつてない混沌に陥れた張本人であり、皇太子として生きてきた――本当の『人形』、フィサルーア・ク・フェスカだ。
「ご命令だと?」
レイアの冷徹な顔色が変わる。
「自分が長きにわたり隠密行動を取っていたのも、すべては陛下からのご命令があったからこそ。『ファルイーアを探し出し、保護せよ』。それが、自分が現陛下より賜った極秘任務です」
「……なぜそれを私に言う?」
極めて真っ当な疑問だった。
グレンの背中を冷たい汗が流れる。
「これを前提として、陛下のご命令をお伝えしたかっただけでございます」
「……私が追っている大罪人は、実は陛下の庇護下にある。つまり、お前たちは私の敵ではない。そう言いたいのか」
「はい」
「……」
レイアは値踏みするようにグレンの目をじっと見据え、しばらく沈黙した。
剣呑な空気が場を支配する。
やがて彼女は、纏っていた刺すような殺気をわずかに緩め、静かに言った。
「聞こう」
グレンは安堵を悟られぬよう、慎重に言葉を選んだ。
「……ファルイーアは、決して大罪人などではありません」
「解せぬな」
即座に、レイアから氷の刃のような反論が飛ぶ。
「ではなぜ、四獣の族長たる我らに『潜伏している最大凶悪戦犯を、抹殺しろ』と命じた? それも、背けば一族を皆殺しにするという条件つきで」
「……っ」
その鋭すぎる指摘に、グレンは完全に言葉を詰まらせた。
『極秘に保護を命じている』という自分の嘘と、
『一族の命を人質にしてまで抹殺を命じている』という現実。
どう考えても辻褄が合わない。
「……そ、それは……」
絶体絶命。
見事な言い訳など一つも思い浮かばず、グレンから冷や汗が噴き出した、その時だった。
「こいつがなかなか見つけねぇから、陛下もおかんむりだったんじゃねぇの?」
極限まで張り詰めた空気をぶち壊すように、ガイアの軽口が割って入った。
「ガ……ッ!」
反射的に叱り飛ばしかけたグレンは、振り返って息を呑む。
ガイアが、ニヤリと不敵に笑っていたからだ。
「……朱雀。お前、知っていたのか?」
レイアの視線がガイアへ向く。
ガイアは肩をすくめ、堂々と言い放った。
「俺は朱雀族長である前に、騎士団団長の弟子だからな。それなりに情報は回ってくる。それに、俺のところにもその『一族の命と引き換えの命令書』は届いてる。だからこそ、俺はここにいるんだよ」
軽口ばかり叩いていても、ガイアもまた四獣の一角を担う朱雀族長だ。
彼が『族長としての立場』で裏付けたことで、グレンの苦し紛れの嘘に一気に説得力が生まれる。
「ふむ。……どうりで」
レイアが顎に手を当て、何事かを納得したように頷いた。
正直、グレンには彼女が何をどう納得したのかよく分からなかったが、これ以上追及される前に、勝機とばかりに一気に畳み掛ける。
「……というわけです。これは現段階において、陛下と、ツェヴァン様、そして自分とガイア族長しか知らぬ極秘事項でございます」
「……何? 青龍も知っておるのか」
「はい」
そう言い切った瞬間、グレンはようやく身体から強張った力が抜けていくのを感じた。
レイアが「知らぬのは私だけか……」と何やら呟いているが、もう待てない。
偽りの刻は、これで終わりだ。
ここから先は、正真正銘の真実だけを語ればいい。
グレンは深く息を吸い込み、レイアへ向けて、この世界の本当の姿を語り始めた。
静寂に包まれた屋敷の中で、グレンの低く重い声だけが響く。
「玉座に座り、お前たち四獣を顎で使っている現皇帝フィサルーア。……あれこそが、皇妃ノヴェリアの禁呪『生物創造』によって生み出された、偽りの人形だ」
「……馬鹿な」
レイアの口から、氷のように冷たい声が漏れた。
「ならば、リュウショウ様を暗殺したというあの大罪人は。私が先ほどまで刃を交えていた、あの底知れぬ化け物は一体何だと言うのだ」
『無慈悲の慈愛』。
その二つ名の通り、彼女は主君を害した『化け物』に対して一切の容赦を持たない。
その確信こそが、彼女の強さそのものだった。
だが、グレンは悲痛な面持ちで首を横に振る。
「目をお覚ましください、レイア様。貴女ほどの慧眼が、なぜ気づかないのですか」
「何を……」
「今、貴女の目の前で血の海に沈んでいるその子供こそが。貴女が心から忠誠を誓った主君、リュウショウ様の正真正銘の『遺児』です」
「――ッ!」
その瞬間、レイア・ファンサルの纏っていた絶対的な殺気が、音を立てて罅割れた。
息を呑み、目を見開く。
あり得ない。そんなはずはない。
だが、彼女の明晰すぎる頭脳は、グレンの言葉を裏付ける事実を次々と弾き出してしまう。
なぜ現皇帝は、四獣の一族の命を人質にしてまで、この青年を異常なまでに排除しようとしたのか。
なぜこの青年は、『精霊捕縛』という絶対の拘束を、己の四肢の肉を削ぎ落としてまで、内側から強引に破壊するという理外の力を行使できたのか。
(……もし、本当に。あの方が、リュウショウ様の血を引く、真の……?)
そうだとしたら、自分は一体何ということをしてしまったのか。
敬愛してやまなかった主君の、たった一人の遺児。
理不尽にすべてを奪われ、絶望の中で生き延びようと足掻いていた幼き命を。
あろうことか、自分は四肢を拘束し、無慈悲に刃を突き立ててしまったのだ。
「あ……」
レイアの喉から、今まで誰一人として聞いたことのないような、ひどく掠れた、か細い声が漏れた。




