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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第七章 消えぬ傷痕の灯火
48/60

 ■2■

 血だまりの中で取り残されたラルは、ただ呆然と震えていた。


(そんなこと、言われても……っ)


 どうすればいいのか、全く分からない。

 麒麟の風? すべてを無に帰す魔術?

 そんなもの、一度も意識して使ったことなどない。

 目の前には、生命の灯火が消えようとしているケセナ。

 圧倒的な悲しみと絶望でいっぱいのラルの心には、未知の魔術を練り上げる余白など、どこにも残されていなかった。


「……まったく、本当に手が掛かりますね」


 不意に。

 頭上から、凛とした声が降ってきた。

 聞き慣れた声。

 いつも誰かに文句を言い、素直になれずに罵ってばかりいる、あの生意気で甲高い声。


「プラウ……!?」


 ラルが涙で滲む顔を上げると、そこには淡い光の粒子を纏ったプラークルウが宙に浮いていた。

 彼女は、いつもケセナに見せるような子供っぽい泣き顔でも、怒った顔でもなく――どこか自信に満ちた、彼女らしくない不敵な笑みを浮かべていた。

 そして、倒れ伏すケセナを見下ろし、優しく、けれど力強く告げる。


「嫌いだけど……大好きな、ケセナ様。必ず助けるから、今はまだそこで寝ていてください」


 そう言い残すと、プラークルウは空中でくるりと反転し、ラルを真っ直ぐに見据えた。


「ラル、力を貸しなさい」

「……え?」


 呆然とするラルに、プラークルウは誇り高く胸を張り、最高に頼もしい言葉を宣言した。


「貴女の力を、この『最強の剣精』である私が使ってあげる!」


 空中に浮かぶプラークルウの銀髪が、戦場を吹き荒れる風の中で美しく舞う。

 だが、ラルにはどうすればいいのか全く分からなかった。

 倒れ伏したケセナの冷たくなりつつある手を、すがるように両手でぎゅっと握りしめる。


「教えて……ケセナ……っ」


 祈るように囁いても、当然、彼からの答えはない。

 絶望に押し潰されそうになりながら、ラルがきつく目を閉じた、その時だった。


『まだ大丈夫』

『救世主、頑張ってる』

『救世主、必死で面白い』


 ふと、脳内に無邪気な声が響き渡った。

 それは、ラルが生まれつき聞き取ることのできる、自然界に漂う無数の精霊たちの囁きだった。


 ハッとして、ラルは勢いよく顔を上げる。

 血の海に沈む、青白いケセナの顔を真っ直ぐに見つめた。

 精霊は、決して嘘をつかない。

 真実しか口にしない。

 彼らが『まだ大丈夫』と言っている。

 『救世主』が必死に頑張っていると笑っている。

 なら、彼はまだ生きている。

 この絶望的な死体すらも、白虎が作り出した悪辣な幻影に過ぎないと、精霊たちの声が証明してくれたのだ。


(ケセナは、生きている……!)


 途端に、ラルの瞳から絶望の色が消え去り、強い光が宿る。

 彼女は前を見据え、己の気に深く集中し始めているプラークルウへ向かって、力強く問いかけた。


「どうすればいいの!」


 すると、プラークルウから間髪入れずに、ひどく苛立った怒号が返ってきた。


「私を『的』にして、貴女のありったけの魔力をぶち当てればいいだけでしょぉ!!」

「……っ!」


 プラークルウのヒステリックな怒号に、ラルはハッと我に返り、ふらつく足に力を込めて立ち上がった。


「待ってて。……すぐ終わらせるから」


 血まみれのケセナに短くそう告げると、ラルは両手を前に突き出し、己の内に眠る『麒麟』の魔術の構成を一気に組み上げ始めた。

 出し惜しみはしない。今の自分が放てる最大の出力を、すべて叩き込む。

 途端に、周囲の大気がざわめき、無数の風精霊たちがラルの手元へと嬉々として集まってきた。


『力、貸すよ』

『貸してあげるー』


 無邪気に囁きながら集う風精霊たちの気配に、ラルは微かに苦笑した。

 先ほど、どれだけ泣き叫んで懇願してもケセナの治療を拒絶した光精霊たちとは、あまりにも対照的だ。

 吹き荒れる暴風の中心で、ラルは空中に浮かぶプラークルウへ向けて、練り上げた極大の魔術を一直線に放った。


「受け取って! プラークルウ!」

「遅いですよ! 待ち疲れたです!!!」


 いつもと変わらない返しに、ラルは思わず安心してしまう。


(剣精の彼女に、すべてを任せよう!)


 麒麟の風は、すべてを無に帰す絶対の力だ。

 それを真っ向から受ければ、精霊である彼女自身もただでは済まない。

 ラルから放たれた致死量の魔力の奔流を前に、プラークルウは逃げるどころか、今まで編み続けていた己の『剣精としての気』を限界まで解放して真正面から受け止めた。


 すべてを無に帰す暴風が、彼女の小さな身体を削り取っていく。


 やがてプラークルウは、振り返ることなく、まるで背後のラルへ遺言を残すように、ふわりと笑って一言だけ呟いた。


「――ケセナ様に伝えて。一緒に旅ができて、楽しかったって」


 その言葉の意味をラルが理解するより早く、プラークルウは受け取った規格外の風を、消えかける己の命を触媒にして『剣の魔術』へと強制変換した。

 光と闇。

 相反する二つの極光が交互に舞い、螺旋を描きながら、圧倒的な破壊力となって屋敷の空間そのものを呑み込んでいく。


「レイア・ファンサル! その罪を知りなさい!!」


 プラークルウの絶叫と共に放たれた、すべてを無に帰す極光が、白虎族長レイアの創り出した悪辣な幻影のすべてを、轟音と共に白く呑み込み――


 ――完全に、消滅させた。


 すべてを放ち終えた屋敷の中は、先ほどまでの死闘が嘘のように、不気味なほどの静寂に包まれていた。


「……やったか?」


 息を乱すグレンが、土煙の向こうを睨みつけながら呟く。


「どーだろな。レイアの殺気は、そのまんまだぜ?」


 黒炎をくすぶらせたガイアが、冷や汗を流しながら油断なく短剣を構え直す。

 男たちの緊迫した声が交差する中、魔力を使い果たしてその場にへたり込んでいたラルは、土煙が晴れた先の光景に目を向け――息を呑んだ。


 倒れている。

 ケセナを見つけたのだ。


「ケセナ!!」


 ラルは弾かれたように駆け出した。

 幻影が晴れたのだ。彼が重傷を負っているにせよ、あんな残酷な姿であるはずがない。

 幻影であってほしい。もう、あんな無残なケセナは見たくない。


 そう必死に祈りながら、ケセナの傍へ膝をつき――ラルの心臓は絶望に凍りついた。


 そこに横たわるケセナは、あの『幻影』と、まったく同じ姿だったのだ。

 十文字に深く貫かれた胸と背中。

 内側から弾け、ただれ落ちた四肢。

 とめどなく溢れ出す現実の血が、すでに石畳の上に底なしの血の海を作り出していた。


 精霊の言葉は嘘ではなかった。

 彼は『まだ生きて』いて、『必死に頑張って』いた。

 ただ、その現実の姿が、白虎の創り出した幻影と寸分違わず同じだった――それだけのことだった。

 静まり返った屋敷に、悲痛なラルの叫び声が響き渡る。


「嫌だ! 嫌だ! 嫌だよ、ケセナ!!!」


 その悲鳴に、前線を警戒していたグレンとガイアが弾かれたように振り向いた。

 二人の目に飛び込んできたのは、幻影と寸分違わぬ血の海に沈むケセナの凄惨な姿と、その傍らで膝をつくラルの絶望だった。


(……死んでるのか!?)


 男たちの顔色が一瞬で蒼白になる。

 だが、一番近くにいるラルだけは知っていた。

 ケセナは、まだ必死に頑張っている。命を繋ぎ止めようと、あのボロボロの身体で足掻いている。

 精霊たちが、先ほど確かにそう教えてくれたのだから。


(助けなきゃ……っ!)


 先ほどのプラークルウとの連携魔法で、ラルの魔力はすでに底を突き、枯渇寸前だった。

 視界は明滅し、指先さえ満足に動かない。

 それでも、ラルは倒れ伏すケセナの胸に震える手を翳し、再び魔術の構成を必死に紡ぎ出した。


 今必要なのは、風ではない。

 破壊でもない。

 彼を癒やすための絶対的な治癒、『光魔法』だ。

 そのためには、どうしても清浄なる光精霊たちの力が必要だった。


「お願い……っ、来て……!」


 彼を恐れ、光精霊たちは先ほどからずっと遠巻きに逃げてしまっている。

 掠れた声で何度懇願しても、光の粒子は集まらない。

 ラルの意識が途切れそうになった、その時だった。


 ――ふわり、と。


 耳元を、ひどく優しくて、どこか呆れたような温かい風が通り抜けた。


『意地を張るのやめなさい、光』


 声が、聞こえた気がした。

 それが風精霊たちの囁きだったのか、それともプラークルウの遺した思念だったのか、ラルには分からなかった。

 だが、その一陣の風が通り抜けた次の瞬間、奇跡が起きた。

 今までどれだけ呼んでも頑なに近づこうとしなかった光精霊たちが、まるで背中を押された子供たちのように、恐る恐る、しかし次々とケセナの周囲へ集まり始めたのだ。


「あ……」


 ぽろぽろと、淡く温かい光の粒子が降り注ぐ。

 それは瞬く間に数を増し、血に染まったケセナの痛々しい身体を、慈しむように眩い光の繭で包み込んでいった。

 そのあまりにも神秘的で美しい光景を前に、駆け寄ろうとしていたグレンも、息を呑んだガイアも、そして魔力を振り絞るラル自身でさえ、ただ声もなく見つめることしかできなかった。


 やがて、眩い光の繭が弾け、淡い粒子が空中に溶けていく。


『疲れたー』

『もう無理〜』

『限界ー』


 ケセナの身体を包んでいた光精霊たちが、口々に無邪気な愚痴をこぼしながら、ふらふらとそれぞれの方向へ散っていく。


 後に残されたのは、冷たい廊下の上に横たわるケセナだった。

 あれだけ治癒の光を浴びてもなお、彼の身体が完治することはなかった。

 どくどくと流れていた血が止まった程度だ。

 両手首には、魔力によって内側から肉が削げ落ちた痛々しい痕が残り、胸と背中を十文字に貫いた致命傷も、完全に塞がりきることなく、赤黒く生々しい傷痕として無残に刻まれている。


 光精霊たちは全力を尽くしてくれた。

 だが、ケセナの奥底に巣食う『他者からの干渉を拒絶する心の傷跡』が、命を救うための光の魔術すらも、無意識のうちに弾き返してしまっていたのだ。


 それでも。


 彼は、確かに息をしている。

 規則正しく上下するその細い胸を確認した瞬間、ラルは堰を切ったように再び泣き出した。


「よかった……っ、よかったよぉ……っ」


 大粒の涙をこぼし、ケセナの傍らで泣きじゃくるラル。

 ふらつく足で歩み寄ってきたグレンが、その大きく分厚い腕で、彼女の小さな肩をそっと抱き寄せた。


「……お前、最近、泣いてばかりだな」

「うるさいっ……。先生っ……」


 涙声で悪態をつく、いつもの生意気なラルの調子。

 それを聞き、グレンは深く息を吐き出して、張り詰めていた心をほんの少しだけ安堵させた。


「……余韻に浸ってる暇はねぇぜ? 先生」


 その束の間の温もりを断ち切るように、背後でガイアが警戒を極限まで濃くした声を上げた。

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