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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第七章 消えぬ傷痕の灯火
47/60

 ■1■

 刃が、肉を断つ嫌な音を立てて引き抜かれる。


 白虎族長レイアと、青龍族長ツェヴァン。

 二人が静かに後退した瞬間、支えを失ったケセナの細い身体は、崩れ落ちるように冷たい石床へ倒れ伏した。


「……嘘」


 掠れた声が、ラルの喉から零れる。

 次の瞬間には、ラルはグレンの腕の中から弾かれたように飛び出していた。


「ケセナ!! ケセナぁぁっ!!」


 血だまりの中へ滑り込むように膝をつく。

 だが、動かない。


 ケセナの琥珀色の瞳は開かれたままだった。

 その瞳孔は極限まで開ききり、何の光も映していない。

 ラルは震える両手を伸ばした。

 彼を狂乱させてしまうからと、ずっと我慢していたその手で、真っ直ぐに頬へ触れる。


 まだ、温かい。


 けれど、いつものように呼吸を乱して怯えることも、拒絶して手を振り払うこともない。

 一切の反応がなかった。


 十文字に貫かれた胸と背中。

 黒く焼け焦げた四肢。

 全身の傷口から、止めどなく赤い血が流れ出し、石床に広がっていく。

 ケセナの顔は、ぴくりとも動かなかった。


「嫌だっ……嫌だよっ……!」


 ラルの瞳から大粒の涙が溢れ、愛しい青年の顔すら滲んで見えなくなる。

 背後から歩み寄ったグレンが、血だまりの中で泣き崩れるラルを強く抱きしめた。

 悲鳴とも泣き声ともつかない絶望の叫びが、耳元で痛いほどに響く。

 グレンは、ケセナが命懸けで治してくれたはずの無傷の胸に、鋭い痛みを感じていた。

 凄惨な光景を前にしても、レイアとツェヴァンは冷酷なまでに無言を貫いていた。

 だが。

 この場で、たった一人だけ違う動きを見せた者がいた。


 突如、空気が異様な熱を帯びる。

 酸素が焼き尽くされるような息苦しさが、場を支配した。


 上空から降り立ったガイアだ。


 普段の彼が操る朱色の炎ではない。

 ただ殺意だけで練り上げられた黒い焔が、両手から立ち上っている。

 怒号すらない。

 ただ静かに、その黒炎の切っ先は、ケセナを貫いたレイアとツェヴァンの二人へ真っ直ぐ向けられていた。

 ガイアの両手から吹き上がる黒い焔が、周囲をじわじわと融かしていく。


(……勝てねぇ。そんなことは、分かってる)


 己が四獣の中で最も弱いことなど、ガイア自身が一番よく分かっていた。

 ツェヴァンも、レイアも、自分では届かない高みにいる化け物だ。

 まともに打ち合えば、数刻と持たず首を落とされるだろう。

 それでも、ガイアは奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばった。

 実力差など関係ない。死の恐怖などとうに消し飛んでいた。

 自らの血肉を削るように全身から限界以上の魔力を振り絞り、火精霊へ強引に縋りつく。

 止めどなく溢れ出す悲しみと怒りが、純粋な殺意の焔となって全身を黒く染め上げていく。


「っざけんな……!!」


 静まり返った屋敷に、血を吐くような咆哮が轟いた。


「あいつは……ファルは!! ただ、生きたかっただけじゃねぇか……っ!!」


 怒りで視界が滲む。

 それが涙なのかどうか、ガイア自身にも分からなかった。

 ただ、揺らぐ黒炎の奥に、遠くて近い光景だけが鮮明に蘇る。

 兄と慕って後ろを歩き、名前を呼べば振り返って、不器用に、それでも確かに嬉しそうに笑ってくれた、あの小さな弟の顔が。


 ふっと、ラルを抱きしめていたグレンの腕が離れた。

 グレンは、ふらりと立ち上がる。

 乱れた黒髪が深くかかり、その奥にどんな感情が渦巻いているのかは窺えない。

 だが、その巨体から立ち上る殺気に、ラルは思わず背筋に悪寒を覚えた。

 涙を拭い、見上げた師の背中。

 それは、今すぐ逃げ出したくなるほど濃密な死の気配を纏っていた。


「先生……」

「お前は絶対に手を出すな。いいな。ここでケセナを守れ」


 そう告げると、グレンは静かに剣を構えた。

 そのただならぬ動きに、ツェヴァンがぴくりと反応して顔を向ける。


「……!?」


 その瞬間、グレンの脳裏に強烈な違和感が走った。


(なぜ、師匠が『ここにいる』……!?)


 別れ際、彼は評議会の腹を探ると約束した。

 わざわざレイアと共闘してまで、自分たちを追ってきてファルイーアを殺す理由などないはずだ。


 だが――そんな思考は、血の海に沈むケセナの姿を前に、一瞬で弾け飛んだ。

 彼らがファルイーアの胸に剣を突き立てた。

 それだけで十分だった。


「おおぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」


 グレンは獣のような咆哮を上げ、両手で剣を振り上げた。

 勝てない相手へ向かう恐怖など、もはや微塵も残っていない。

 自分は応龍騎士団だ。

 応龍を守るための、ただ一枚の盾なのだから。


 その死に物狂いの背中を見て、ガイアもまた狙いをレイア一人へ絞った。

 両手に黒炎を滾らせるガイア。

 剣を構えたグレン。

 気づけば二人は、互いの死角を塞ぐように、ぴたりと背中合わせに立っていた。


「死ぬなよ、ガイア」

「へっ。無理だろ。……相打ちくらいにはしてやるけどなっ」


 減らず口を叩く弟子の声に、グレンはふっと口元を緩める。

 その背後では、ラルが血まみれのケセナへすがりつき、必死の形相で光魔法による治癒を試みていた。


「お願い……っ、力を貸して……!」


 悲痛な声で光精霊たちへ懇願する。

 けれど、現実は残酷だった。

 清浄なる光精霊たちは、ケセナの中に眠る黄金龍の禍々しい気配と、彼自身の深い接触の傷を恐れ、どれだけラルが願っても、その身体を癒そうとはしなかった。


 グレンの剣とツェヴァンの仕込み杖が激しくぶつかり、火花が散る。

 その一撃を受けた瞬間、先ほどから燻っていた違和感が一気に広がった。


(……軽い)


 重くないのだ。

 一夜前、裏路地で死闘を繰り広げた時の剣とはまるで違う。

 あの神速の重みも、研ぎ澄まされた鋭さも、息を呑む殺気も、今のツェヴァンからは感じられない。


(これは、本当に師匠なのか……?)


 強烈な疑問が、怒りに染まった思考を急速に冷やしていく。

 軽すぎる一撃を跳ね除け、後退したグレンの背中が、黒炎を操るガイアの背へぶつかった。

 その瞬間、グレンは背中越しに低く告げる。


「……何かがおかしい」

「……え?」


 突然の言葉に、ガイアが怪訝な声を漏らす。

 視界の端に、血だまりの中で泣きじゃくりながら、なおも精霊に応えてもらえず、それでも必死に治癒を続けるラルの姿が映った。


 その瞬間、若い頃のリュウショウの言葉が脳裏に蘇る。


『麒麟は魔術を無効化するって本当かな?』


 もし、それが本当なら。

 もし、今見ているこの惨状そのものが、レイアの創り出した悪辣な幻影だとしたら。


 一か八か。

 グレンは、泣きながらケセナへ縋りつくラルに向かって、戦場を切り裂くような大声で吼えた。


「泣いている暇はないラル!! ケセナを救いたいなら、お前の本当の力を見せろ!!」

「……えっ?」


 ラルが、涙に濡れた顔を上げる。

 彼女自身、自分の風魔術が何であるのかを、本当の意味では理解していない。

 だがグレンは確信を持って、もう一度叫んだ。


「『幻術』を凌駕する風を放て! 麒麟の、『全てを無に帰す風』を!!」


 それはただの伝承だ。

 グレン自身、麒麟族などこの目で見たことはない。

 だが、リュウショウは語っていた。

 応龍、青龍、朱雀、白虎、玄武。そのすべての理を凌駕し、無へ帰す力があるのだと。


 精霊の悲鳴を聞き取り、強固な門を容易く吹き飛ばす規格外の少女。

 その中に眠る力へ、今、全てを賭けるしかない。


「お前の頃合いでいい! 俺たちはそれに合わせる!!」


 グレンがツェヴァンへと突っ込む。

 それに呼応するように、ガイアもレイアへ向けて黒い焔の弾丸を連続して放ち、間髪入れず腰から一本の短剣を抜いた。


 重力操作を扱う際、大きな武器は遠心力と取り回しの邪魔になる。

 そう叩き込んだのは他でもない、師であるグレンだった。


 ガイアは重力を操り、予測不能な軌道でレイアの懐へと決死の接近戦を仕掛ける。

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