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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第六章 堕ちていく傀儡
46/60

 ■7■

 人が行き交う要塞都市の大通りを、ケセナは亡霊のように歩いていた。


 そこは本来なら絶対に避けるべき場所だ。けれど今のケセナには、『裏道に隠れる』という冷静な判断力すら残っていなかった。ただ、『みんなを探さなければ』という焦燥だけが、限界を迎えた身体を無理やり動かしていた。


 すれ違う人々が近くを通るたび、心臓が張り裂けそうなほど早鐘を打つ。


(怖い……っ)


 誰かの腕が揺れるたび、誰かの視線が向くたび、その『手』が自分に向かって伸びてきそうで、恐ろしくてたまらない。吐き気が込み上げ、視界がぐらぐらと揺れた。


「大丈夫かい?」


 唐突に、耳元で声がした。


 あまりにも顔色が悪く、今にも倒れそうにふらついているケセナを見かねて、声をかけてきた者がいたのだ。限界に近いケセナの目は霞んでおり、相手の姿はよく見えない。だが、その声の高さと柔らかい響きから、女性であることだけはわかった。


「だ、大丈夫、です……」


 ひゅっと引き攣る喉から、どうにかそれだけを絞り出す。

 しかし、相手は離れてはくれなかった。


「大丈夫そうには見えないけどね」


 女は、くすりと小さく笑った。


 ケセナは重い瞼を無理やり押し上げ、目の前の女を見ようと必死に目を凝らした。霞む視界の中に映ったのは、プラークルウの銀髪とは違う、冷たく透き通るような白銀の髪と、氷のように冷たい青い瞳を持つ女だった。


「おいで。うちで休むがいい」


 女が、ゆっくりと手を差し出してくる。


 その『手』を見た瞬間、恐怖で限界まで張り詰めていた心臓が、痛みを伴って大きく跳ねた。

 喉が閉じる。胸が軋む。焦りだけが膨れ上がる。


 ――駄目だ。


 絶望と接触の恐怖に耐えきれず、自己防衛のために脳が強制的に機能停止したかのように、ケセナはそのまま意識を手放し、女の腕の中へ崩れ落ちた。


 ------


 見知らぬ天井が、視界いっぱいに広がっていた。


 意識が急速に浮上し、ケセナは弾かれたように飛び起きようとする。


「……っ!?」


 だが、起き上がれない。


 両手と両足に、鈍く重い違和感があった。

 慌てて視線を落とす。そこには、四肢を寝台の支柱へと固く縛りつける木製の拘束具が嵌められていた。


(なんだ、これ……こんなもの、魔術で――)


 即座に魔力を練り上げ、破壊しようとする。

 だが、身体の奥底から引き出しかけた力は、拘束具に触れた瞬間に霧散し、まるで発動しなかった。


「……ちっ、『精霊捕縛』か」


 思わず、ケセナの口から舌打ちと、苛立ちの滲む呟きが零れる。


「御明察。流石だね」


 不意に、入口から声が降ってきた。


 顔を向けると、そこには先ほどの白銀の髪を持つ女が立ち、こちらを青い瞳で見据えていた。その表情は氷のように冷たい。だが、ケセナの奥底に眠るオウセイの記憶が、はっきりとその顔を覚えており、無意識のうちに名前が滑り出た。


「白虎族長、レイア・ファンサル……」

「おや、私を知っていたのか? ――化け物」


 明確な侮蔑の込められたその呼び方に、ケセナは何も返さず、ただ黙って彼女を見た。


「まあいいさ。大人しくしていてくれ」


 レイアは淡々と言い放つ。


「お前を陛下に献上すれば、我が一族の立場は安泰だからね。ああ、逃亡を考えても無駄だよ。精霊の力を封じるその拘束具は、私にしか外せない」


 それだけ告げると、レイアは踵を返し、重い石扉の向こうへ消えていった。

 静寂が落ちる。


 ケセナは部屋を見回した。

 ごく普通の部屋だ。四肢を繋ぐ拘束具以外に、これといった仕掛けは見当たらない。


 どうにか抜け出そうと足掻く。だが、木製の拘束具はぴくりとも動かず、手首や足首の皮膚が擦れて血が滲むばかりだった。魔力も使えない。力任せにも外せない。レイアの言葉は真実だった。


(ああ、もう探しにすら行けない――)


 ケセナはゆっくりと俯いた。


 その瞬間。


 絶望の底に沈んだ『ケセナ』と入れ替わるようにして、泥濘のような深淵から静かに呼び覚まされたものがあった。

 圧倒的な魔力を誇り、ただ命じられるままに破壊を撒き散らした兵器。

 感情を持たず、痛みすら理解しない、『ファルイーア』。


「…………」


 琥珀色の瞳が開く。


 そこに、ケセナの柔らかい光はない。オウセイの冷えた理性もない。あるのは、生命の灯が消えたような空虚だけだった。


 眼前の障害を排除する。

 その命令だけが、今の彼を動かしていた。


 寝台に縛りつけられた両手両足から、ぎしぎしと嫌な音が鳴り始める。

 絶対に外れないはずの特注の拘束具を、ファルイーアは『内側』から破壊しようとしていた。


 それは、彼自身が戦場で編み出した力の使い方だった。

 本来は絶対的な防御を誇る応龍族の『守護の壁』。その術式を、拘束具と皮膚の間の僅かな隙間へ極限まで圧縮し、一気に外側へ膨張させる。


 次の瞬間。


 鼓膜を叩く轟音とともに、四肢を拘束していた木枠が内側から爆ぜた。

 木片が飛び散る。


 当然、その反動は術者自身にも牙を剥いた。


 手首と足首の肉は大きく抉れ、過剰な摩擦と熱によって皮膚は黒く焦げついている。

 だが、ファルイーアは一切それを気にしない。


 表情ひとつ動かさず、砕け散った拘束具を無感動に見下ろす。

 ぽた、ぽた、と。

 抉れ、焼け焦げた傷口から、血が床へ滴る。


 ファルイーアはそのまま、ゆっくりと寝台から降り立った。裸足が冷たい床を踏む。

 そして、空洞のような瞳を虚空へ向けたまま、己の奥底に眠る最大魔力を、無制限に解放し始める。


 部屋の空気がびりびりと震える。

 凄まじい密度の魔力が暴風となって渦を巻いた。

 それはまさに、かつて世界を絶望の底に突き落とした兵器の起動そのものだった。


 ------


 迷路のような路地裏を走っていたラルが、不意に弾かれたように足を止めた。


「……っ!」


 肌を刺すような悪寒。

 大気そのものが悲鳴を上げている。


 ラルには聞こえた。

 自然界に漂う無数の精霊たちが、意思を強制的に捻じ曲げられ、一点へ収束させられ、次々に『消えていく』断末魔が。


(――ケセナの魔術!)


 昨夜のものとは比べ物にならない。

 街全体を揺るがすほど、巨大で禍々しい魔力の波動だった。


 ラルは即座に身を翻し、精霊たちが吸い込まれていく『中心』へ向かって全速力で駆け出した。


「ラル!?」


 後方から猛追してきていたグレンとすれ違う。

 だが、説明している暇などなかった。


「駄目、ケセナ……!」


 祈るような呟きが口から漏れる。

 あんな規模の魔法を使えば、精霊が死ぬだけではない。ただでさえ限界を迎えているケセナ自身の器が、今度こそ完全に壊れてしまう。


「駄目っ!!!」


 ラルは血を吐くような思いで石畳を蹴った。

 そのただならぬ様子に事態の深刻さを察したグレンと、上空を跳ぶガイアも、一直線にラルの背中を追う。


 辿り着いたのは、街の南側に位置する、高い石壁に囲まれた豪奢な屋敷だった。


 屋根伝いに到着したガイアが、眼下の紋章を見て苦々しく顔を歪める。


「……マジかよ。よりによって、レイアの別宅かよ……」


 白虎族長レイア・ファンサルの拠点。

 なぜケセナがそんな場所にいるのか、ガイアには見当もつかなかった。


 だが、ラルにはそんなことはどうでもよかった。

 そこにケセナがいる。それだけで十分だった。


 ラルは足を止めることなく、固く閉ざされた重い鉄格子の門へ両手を突き出す。


「邪魔っ!!」


 小柄な身体から、爆発的な風の魔術が放たれた。


 轟音。

 強固なはずの門がひしゃげ、凄まじい勢いで内側へ吹き飛ぶ。


 ラルは、門の残骸が土煙を上げて崩れ落ちるよりも早く、その隙間を縫うように敷地内へ飛び込んだ。

 中心へ。精霊が泣き叫ぶ、その中心へ。


 だが。


 彼女の願いも虚しく、その瞬間は訪れた。


 視界のすべてが、音もなく圧倒的な『白』に塗り潰された。

 屋敷の奥から、膨大な光が溢れ出したのだ。


 ケセナではない。

 感情を失った兵器『ファルイーア』が、破壊の術式を編み終え、最大魔法を解き放った光だった。


「ラル!!!」


 すべてを呑み込む白光と衝撃波が押し寄せる直前。

 背後から飛び込んできたグレンの太い腕がラルを強引に引き寄せ、その小さな身体を庇うように、きつく抱きしめた。


 圧倒的な白光。

 凄まじい暴風。

 極寒の冷気と、肌を焦がす熱波が狂ったように入り乱れる。

 抉り取られた大地の破片が、凶悪な礫となってグレンの背中へ叩きつけられた。


(ラル……っ!)


 グレンは、腕の中にいる愛弟子だけは何がなんでも守り抜くと、その身体を己の巨体で覆い隠すように抱き締めた。


 激痛が走る。

 だが、それもすぐに遠のいていく。


 耳鳴りがすべての音を奪い去り、背中を引き裂くような痛みさえ薄れていった。

 自分はきっと、ここで死ぬのだろう。


(……最後に、あいつに……)


 薄れゆく意識の中で、グレンの脳裏に浮かんだのは、ただ一つの後悔だった。

 彼を兵器として扱ってしまったこと。今もなお、一人で苦しませてしまっていること。

 最後に、ケセナへ謝りたかった。


 ふと。


 嵐が嘘のように止み、唐突に不気味な静寂が訪れた。

 腕の中には、確かな温もりが残っている。


 ああ、ラルは助けられたのだ。


 その事実に安堵し、グレンは最後に愛弟子の顔を見ようと、死を覚悟した黒い双眸をゆっくりと開いた。


 だが。


 腕の中で顔を上げたラルの表情は、安堵でも悲しみでもなかった。

 ただ、底知れない『絶望』に満ちていた。


 瞳孔は極限まで開き、声にならない悲鳴を上げるように口だけがぱくぱくと動いている。

 その視線は、グレンではなく、グレンの背後――静まり返った屋敷の奥の『一点』に縫いつけられていた。


「……ラル?」


 ただ事ではない。

 その異様さに、グレンはゆっくりと彼女の視線の先へ顔を向けた。


 土煙の晴れた先。

 そこには、最大魔法を発動させたはずのケセナが立っていた。


 その両脇には、彼を縫い止めるように二人の人物が並んでいる。

 一人は、白銀の髪を持つ白虎族長レイア・ファンサル。

 そしてもう一人は、昨日グレンと死闘を繰り広げた、師にして青龍族長ツェヴァン・ロン。


 二人の達人の手によって、同時に、深々と。

 その細い胸へ十文字に、無慈悲な刃が突き立てられていた。


「ファルイーア!!!!!」


 血を吐くようなグレンの絶叫が、静まり返った街にこだました。

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