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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第六章 堕ちていく傀儡
45/60

 ■6■

 誰もいない、冷たい階段の下。


 置き去りにされたという絶望に苛まれながらも、ケセナはどうにか痛む身体を奮い立たせ、冷たい石壁に手をついて立ち上がった。


 探さなければ。

 別れが言いたい。けれど。

 遠目でもいい。姿が、見たかった。


 そうして彼がふらふらと歩き出してから、わずか後のことだった。


「おーい、起きてるかぁ?」


 両手にパンや果物の入った麻袋を抱え、ガイアが階段の下へ戻ってきた。

 水と食料を調達し、グレンたちより一足先に野営地へ帰ってきたのだ。

 だが、そこにいるはずのケセナの姿はない。

 あるのは、彼を寝かせていたわずかな痕跡だけだった。


「……は? おい、嘘だろ」


 ガイアの手から麻袋が滑り落ち、乾いた音を立てて転がる。


「待てよ、あのバカっ! どこ行った!?」


 ただでさえ『人に触れられると発狂する』という心の傷を抱えているのだ。

 それに加えて、今のケセナの身体はまともに歩ける状態ではない。そんな状態で一人で街をうろつくなど、自殺行為に等しかった。

 焦燥に駆られたガイアは、放り投げた荷物にも目もくれず、血相を変えてジェグヌの街へ駆け出した。


 ------


 一方その頃。

 ジェグヌの街にある武器屋の奥では、呆れ果てた店主と図太い元上司のやり取りが繰り広げられていた。


「ほら、請求書! 薬代に服の修繕費、一の夜前にあなたが持って行った深緑のチュニック代! それから極めつけに、あなたの弟子がぶち破った『特注の無垢材木扉二枚』の修理代! きっちり払ってもらいますからね、元団長!」

「ああ、分かってる。出世払いできっちり払う約束だろ」


 エンジから突きつけられた、目玉が飛び出るような金額の請求書を適当にあしらいながら、グレンは己の『応龍騎士団の制服』に袖を通していた。


 一夜前、ツェヴァンとの死闘で切り裂かれ、血に染まっていたはずの漆黒の制服。

 それが一晩のうちに、見事に縫い合わされ、綺麗に修繕されている。


「……しかし、驚いたな。あのズタズタの制服をここまで直せるとは」

「徹夜ですよ、徹夜! 剣の修繕より気を使いましたよ! というか、一の夜前は半死半生だったくせに、傷一つなく完治してるんですか!? 化け物ですかあなたは!」

「俺の治癒力じゃない。……ちょっと、規格外がいてな」


 ケセナの顔を思い浮かべ、グレンは少しだけ目を伏せた。だがすぐに元の調子へ戻り、エンジの肩を軽く叩く。


「さすがは騎士団のお母さんだ。手縫いの腕も一級品だな」

「全然嬉しくないですよ、その二つ名!」


 文句を言いながらも、どこか誇らしげなエンジを笑い飛ばし、グレンは剣を腰へ帯びた。


(さて。戻るか)


 そう思って立ち去ろうと、仮留めされた店の扉へ手をかけた、その時だった。


 扉が乱暴に開け放たれた。

 エンジが「ああっ、また木扉が!」と短い悲鳴を上げる。

 だがグレンは、扉の先を凝視した。

 息を切らしたガイアが、血相を変えて飛び込んできたのだ。


「……ガイア? どうした」


 普段の飄々としたガイアらしからぬ剣幕に、グレンの顔から笑みが消える。


「ファルが……ファルが、いなくなった……!」


 その報告が最後まで終わるか終わらないかのうちに。

 請求書の金額に目を丸くしていたラルの顔から、さっと血の気が引いた。


「ケセナっ……!」


 悲鳴のような声を上げ、ラルは弾かれたように武器屋を飛び出していく。


「ラル! 待て!」


 グレンの制止にも一切振り向かず、小柄な背中は迷路のようなジェグヌの街並みへ瞬く間に消えた。

 無理もない。

 ケセナがあの身体で人混みの中へ紛れ込めば、混乱を起こして自滅しかねない。

 短く舌打ちをし、グレンは即座に頭を切り替える。


「ガイア、上から見られるか?」

「あったりめーだ!」


 短く応じるなり、ガイアは風を纏うような身軽さでジェグヌの高い石壁を駆け上がり、上空からの広域索敵へ移った。

 グレンもすぐさま後を追おうと地を蹴り――その直前で振り返り、店主へ鋭く言い放つ。


「エンジ! 金髪の青年――……いや、『ファルイーア』を見かけたら、どうにかして確保しろ! いいな!」


 彼が今、『ケセナ』として彷徨っているのか、それとも『ファルイーア』として動いているのか分からない。

 その危険性を含んだ警告だけを残し、グレンは漆黒の制服を翻して街の喧騒へ駆けていった。


 嵐のように現れ、嵐のように去っていった三人の背中を見送り。

 誰もいなくなった風通しの良すぎる店舗の中で、エンジは深々とため息をついた。


「……確保しろって言われても、俺じゃあの人形には勝てませんよ」


 ぼやきながらも、その口元にはどこか呆れたような、それでいてかつての上官を懐かしむような微かな笑みが浮かんでいる。


「まったく……やっぱり団長は、あの人形の『保護者』ですねぇ」


 誰に聞かせるでもなくそう呟くと、エンジは床に落ちていた請求書を拾い上げ、やれやれと肩をすくめたのだった。


 ------


「いない! ここにもっ……!」


 迷路のように入り組んだジェグヌの路地裏を、ラルは息を切らして駆け回っていた。

 人の多い大通りには、絶対に行かないだろう。

 ケセナの状態を考えれば、必然的に身を隠せるような暗い裏道を選ぶはずだ。

 そう踏んで薄暗い路地を虱潰しに探す。だが、一向に見つからない。

 そのうち、自分が今どこにいるのかすら見失いそうになっていた。

 それでも、ラルは足を止めない。


(いつからだろう……)


 走りながら、ふと思う。

 ケセナのことが、こんなにも大切だと思うようになったのは。

 最初は、自分の両親を殺した憎い犯人だと思っていた。

 殺してやりたいとすら思っていた。

 けれど、それは濡れ衣だった。

 彼はずっと、一人で罪を被っていた。

 疑ってしまったことを謝りたくて。

 彼が「したい」と願うことに協力してきた。


 フェルナリアの崖の洞窟で出会った季『繁茂の季』から、『収奪の季』を迎えようとしている。

 一緒に旅をして、一緒に笑って、一緒に死線を潜り抜けてきた。


 いつの間にか、ケセナのいない時間など考えられなくなっていた。


「ケセナ……っ!」


 どうか、無事でいて。

 祈るような悲痛な叫びを上げ、ラルはさらに奥の路地へ駆け込んでいった。


 ------


 修繕されたばかりの漆黒の応龍騎士団の制服を翻し、グレンは街中を疾走していた。


 先に飛び出したラルの背中は、この迷路のような街ではすぐに見失った。

 だが、焦りはあっても迷いはない。

 目印は上空。

 家々の屋根の上を、一直線に跳び抜けていくガイアの姿だ。

 ガイアが向かう先にラルがいる。

 そして、ラルがいるその先に、必ずケセナがいる。


「ファルイーア……!」


 名を呼ぶと、暗く、感情を忘れ去った『ファルイーア』の瞳が脳裏に浮かぶ。

 だが、今のあいつは違う。

 ケセナは、泥臭く、必死に生きようとしている。


 これは贖罪なのだと、グレンは強く噛み締める。

 過去の彼に対して、自分がしてしまった取り返しのつかない過ち。

 それに気づけず、傷つけてしまった日々。


(だから今度こそ、俺が――)


 強い決意を胸に、グレンは入り組んだ街路を猛然と駆け抜けた。


 ——


 瓦屋根を蹴る音が響く。


 朱雀族に与えられた『自身の重力を操作する』異能。

 それを行使し、ガイアは鳥のような身軽さで、ジェグヌの高く連なる屋根と屋根の間を飛び越えていた。

 もう翼はない。

 本物の鳥のように空を飛ぶことはできない。

 かつて自分たちの先祖には立派な翼があった、という伝承を聞いたことはあるが、ガイア自身はそんなおとぎ話を信じてはいなかった。

 眼下を見下ろせば、入り組んだ路地を必死に走るラルの姿が見える。

 そしてその後方、ラルの姿など到底見えないはずの地上の死角を、自分を目印にしてグレンが猛追してきている。


 皆が、血眼になって探している。

『ファルイーア』という名の、小さくて、弱々しい弟を。

 幼い頃のファルイーアは、感情も言葉も知らなかった。

 当たり前のことを教えるだけでも難しくて、つい苛立って当たってしまったこともあった。


 それでも、あれは確かに、自分にとってたった一人の可愛い弟だったのだ。


 四星霜前の戦争中。

 絶対的な力の渦へ呑まれていく弟に、近づくことすらできなかった。

 何もしてやれなかった。

 その結果が今の彼だ。

 触れられることすら拒絶するほどに心が壊れ、己の命を削ってまで他人のために魔法を行使する、あの痛々しい姿だ。


(この先は、何がなんでも助けてやる……!)


 強い風が、燃えるような赤髪を後ろへ流す。

 もう二度と、あんな思いはさせない。


 ガイアは屋根の端を強く蹴り、重力を置き去りにするように、大きく空へ跳んだ。

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