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街の西端。
荒れ狂う灰色の海を見下ろす絶壁へ辿り着いたグレンは、岩陰にぽっかりと開いた小さな穴を見下ろし、思わず絶句した。
「……おい、本気か」
「大丈夫。ちょっと狭いだけ」
先に穴へ入ろうとしたラルが、明後日の方向を見ながら歯切れ悪く答える。
「あたしは、通れる」
「おい、不穏な言い方をするな!」
思わず言い返したものの、ラルは振り返ることもなく暗い土の穴へ潜り込んでしまった。
あとに残されたグレンは、重いため息をつき、穴と自分の身体を交互に見比べる。長年の鍛錬で鍛え上げられた屈強な体躯にとって、もはや嫌がらせに近い大きさだ。
「……っ、くそ、狭っ!」
四つん這いになってなお身を屈めなければ通れない。這って進むたび、ツェヴァンに穿たれた胸の傷が容赦なく痛み、グレンは何度も顔を顰めた。
「ラル、少し風で土を削れないか!?」
「散々掘ったから、嫌」
エンジから盗んできたばかりの深緑のチュニックが、土の壁に引っかかって無惨に擦れていく。傷の痛みと息苦しさに文句を垂れながら、グレンは泥だらけになって先へ進んだ。
途中、ラルが妙に楽しそうにしていた気がしたが、たぶん気のせいだろう。
やがて、長い土の通路を抜ける。
「……っ、ようやく、着いたか……」
泥まみれのまま洞窟の内部へ転がり出たグレンの頬を、ひやりとした潮風が撫でた。
ケセナが、どれほど張り詰めた空気の中で身を潜めているのか。
そう身構えて顔を上げた、その視界へ飛び込んできたのは。
「え、何それ。本当にそんなこと言ったの?」
「おうよ。そしたらあのばーさん、顔真っ赤にして怒り出しやがってよ」
波の音が響く洞窟の奥で、談笑し、笑い合うケセナと――いるはずのない朱雀族長、ガイアの姿だった。
「ガイアッ!?」
ありえない人物を見て、グレンは思わず声を上げた。
その声に弾かれたように、談笑していた二人が同時に振り返る。
「先生!」
「グレンさん!」
ガイアはすぐに立ち上がり、気安くこちらへ駆け寄ってくる。
一方、ケセナも立ち上がろうとして腰を浮かせたが――何かに気づいたように動きを止め、再びすとんと岩肌へ腰を下ろした。
その動きを見た瞬間、グレンの胸の奥がぎり、と軋んだ。
自分やガイアが駆け寄った時、万が一にも触れてしまうことを恐れたのだ。発作を警戒し、自ら距離を取ることを選んだ。その姿が痛ましかった。
「怪我、大丈夫か? 先生」
駆け寄ってきたガイアが、深緑のチュニックの隙間から覗く真新しい包帯を見て、真顔で尋ねる。
「……なんでお前が、俺の怪我を知っているんだ」
グレンが鋭く目を細めると、ガイアは「あー……なんでかなぁ」と白々しく視線を逸らした。
「観ていたのは、お前か?」
「青龍族長の監視者なら、別だぜ?」
「だろうな。お前、時計塔の上で観ていただろう」
街中での死闘のあと、失血で意識が飛びかけた中でも感じた特異な気配。あれがこの男なら、辻褄が合う。
「まぁ、探してたら見ちまったというか……」
ガイアはぽりぽりと頭を掻き、少しばつが悪そうな顔をした。
「それで? お前はどうしてここにいる」
「おうよ、このポンコツが俺的にも心配で心配で……」
「ガイア。俺は今、真面目に話している」
グレンの低い一言に、洞窟の空気がぴんと張る。
ガイアはしばらく無言で見返していたが、やがて、先ほどまでの気安い表情をすっと消した。代わりに現れたのは、四獣の一角を担う朱雀族長の顔だった。
「……評議会で勅令が出た。『潜伏している最大凶悪戦犯を、抹殺しろ』」
「!」
「俺のところにも伝令が来た。ただ、今のところはファルイーアが単独行動してると認識されてる。先生が連れてるってことは、まだ気づかれてねぇ。……が、刻の問題だな」
その報告に、グレンは奥歯を噛み締める。
「ついでに、従わなければ『一族皆殺し』だとよ」
「なんだと!」
「えっ……!?」
あまりにも非道な条件に、背後で話を聞いていたケセナも思わず声を上げた。
「そんなこんなで、各族長が動いてる。ツェヴァンじーさんが直々に来たのもそのためだ」
「族長級でなければ、『兵器』は殺せないと判断したか……」
「そうかもな」
重い沈黙が落ちる。
一族の命運を人質に取られているのなら、ガイアがここでケセナを見逃す理由はない。
「……それで」
グレンは静かに腰の剣へ手をかけた。
「お前はどっちだ、ガイア」
鋼が鞘を擦る音が響き、グレンは剣を半ばまで引き抜く。
「先生。俺は確かに朱雀の族長だ。けど、その前にこいつの兄貴分でもある」
「そう言って油断させてから殺すか。ケセナを」
冷徹な言葉とともに、グレンが切っ先を向ける。
ガイアは深く、重いため息を吐いた。
「俺は、あんたの弟子だぜ?」
「その前に、お前は朱雀の族長だ。背負ってるものが違う」
一族の命運を背負う重責を、グレンは誰より知っていた。だからこそ情に流される男ではないと、警戒しているのだ。
「……ああ。そうだ。俺には護らなきゃならねぇ民がいるさ。だがな、先生――」
その時だった。
「ケセナは殺させない」
グレンが地を這うような声で唸る。
「……随分と血ぃ、登ってんな」
ガイアが呆れたように呟き、腰の短剣に手を置いた。
それは他でもない、かつてグレンが叩き込んだ近接用の構えだった。
「ちっと冷えてもらわねぇと、話もできねぇじゃねぇか」
二人の男が、互いに致命的な距離で武器を構える。
つい先ほどまで穏やかだった洞窟は、一瞬にして凄まじい殺気で満ちた。岩陰で見ていたラルとプラークルウは、あまりの急展開に固まっている。
一触即発の、その瞬間。
「待って、グレンさん! ガイアは味方だ!!」
ケセナが咄嗟に立ち上がり、二人の間へ滑り込んだ。
極度の接触恐怖を抱える今の彼にとって、大柄な男二人の間に割って入る距離感は致命的だ。下手をすれば腕や肩が触れ、発作を起こしかねない。
それでも、今は自分の恐怖より、ガイアを庇うことを優先した。
「退け、ケセナ」
「嫌だ!」
それでも、グレンの切っ先は下がらない。
「師だからわかることはある。こいつは一筋縄じゃ……」
「先生、バカ――――ッ!!」
鼓膜を劈くような少女の怒声が、洞窟へ響き渡った。
「……ラル?」
グレンが振り返ると、そこには肩をわなわなと震わせ、ずんずんと足音を立てて近づいてくるラルの姿があった。
彼女はグレンの前へ立つなり、びしっとガイアを指差し、涙目で吠えた。
「敵が! あんな風に! 穏やかに談笑、する!?」
ラルも、完全にガイアの味方だった。
命を狙いに来たかもしれない危険な族長を前に、あろうことか愛弟子が全力で相手を庇い、ついでに自分をバカ呼ばわりしてくる。
予想外すぎる展開に、グレンは完全に虚を突かれ、剣の行き場を失って固まった。
その一部始終を少し離れた岩の上から眺めていたプラークルウが、呆れたように肩を竦める。
「黒バカ、あほー」
最高位の剣精からの辛辣すぎる追撃が、波の音に混じって洞窟へ虚しくこだました。
「……え?」
己の早とちりにようやく気づいたグレンの、情けない声が落ちたのは、そのすぐ後だった。




