■5■
「五千の星霜って……長すぎるだろっ」
肩で激しく息を切らしながら、ケセナは思わず愚痴をこぼした。
オウセイの記憶にあるはずの道がない。
逆に、あるはずのなかった建物ばかりが立ち並んでいる。
街の変貌はあまりにも激しかった。
いや、五千星霜も経てば、地形ごと変わっていても何らおかしくはない。だが、頼りにしていた脳内地図がまるで役に立たないのは致命的だった。
「ねぇ、これ迷ったの?」
背後を走るラルの冷ややかな声に、先頭のケセナは反射的に言い返す。
「違……っ、街が変わりすぎてて……!」
「それ、世間では迷ったって言うんじゃありませんか?」
「プラウまで言う!?」
左手に握った宝刀から、プラークルウの呆れた思念が脳内へ直接飛び込んできて、ケセナは泣きそうになった。
かくして。
彼らは命懸けの逃走劇の最中に、盛大に迷子になっていた。
(でも、立ち止まれない……!)
いつ追手に見つかるかわからない。
自分たちを逃がすため、グレンは命を懸けてツェヴァンと対峙している。だからこそ、無駄死にだけはできなかった。
焦燥に背を押され、さらに足を速めようとした、その時だった。
不意にケセナの足がもつれた。
「……っ」
石畳へ無様に転がり込む。
立ち上がろうと手をつくが、視界が白く濁り、身体にまるで力が入らない。
反動だ。
無理やり膨大な魔力を行使したあとは、いつもこうなった。
戦場で幾度となく味わった虚脱感と激痛が、今さらになって全身を駆け巡る。
あの頃は、誰にも悟られぬよう無表情のまま耐えていられた。だが今のケセナには、それを隠し通す術がない。人間としての痛みと感情が、そのまま身体へ現れてしまう。
(こんな時に、自滅して転がるなんて……っ!)
歪む視界を取り戻そうと頭を振る。
だが、身体の芯を侵す震えは止まらなかった。
「ケセナ!」
ラルが弾かれたように駆け寄る。
抱き起こそうと手を伸ばし――その指先は、直前でぴたりと止まった。
触れてはいけない。
その残酷な制約の前に、ラルは唇を強く噛み、宙を切った手を握りしめるしかなかった。
「……ごめん、半刻も休めば……動けるように、なる……から……」
ケセナは這うようにして裏路地のさらに奥へと身を引きずった。
陽の当たらない陰へ辿り着くと、壁に寄りかかってぐったりと目を閉じる。
(グレンさんが命懸けで戦っているのに、俺は……)
足手まといで、何もできず、挙げ句の果てに転がるだけ。
情けなさが込み上げ、ケセナは拳を血が滲むほど握りしめた。
その直後、手から滑り落ちた宝刀が眩い光を放ち、プラークルウが具現化する。
彼女は周囲を鋭く見渡し、人の気配がないことを確かめると、ラルと共にケセナから少し離れた位置へ下がった。
それが今の彼にできる、精一杯の気遣いだった。
「周辺に追手の反応はありません。……今のうちに休んでください、ケセナ様」
プラークルウは腕を組み、痛ましげに主を見つめた。
「……さっきの、なに?」
ラルが低く問う。
「契約なしで精霊を強制的に使役した反動です。ケセナ様は、魔人と同じように精霊を『服従』させて魔術を使おうとするから……どうしても肉体が耐えきれなくて、ああやって悲鳴を上げちゃうんです」
「……そう」
ラルは唇を噛み、伏し目がちになった。
自分にできることが、ただ彼を見守るだけなのだと思い知らされる。
「……って、私、何をぺらぺら喋ってるんですか!」
突如、プラークルウが両手で頭を抱え、顔を真っ赤にして悶えだした。
「勝手に説明したくせに」
「んもぅ! つい、いつもの癖で! 私のバカ!」
それから半刻ほどが過ぎた。
物陰でうずくまっていたケセナは、ゆっくりと立ち上がる。
まだ身体は鉛のように重い。だが動ける。これなら、平気な顔くらいは作れる。
(感情を殺せ。痛みを切り離せ。――あの頃みたいに)
冷たい暗示を自分にかけて、ケセナはラルたちの待つ場所へ歩き出した。
「……お待たせ」
「遅いです」
「……う」
プラークルウの一言に、ケセナは苦笑いを浮かべる。
「大丈夫?」
ラルが気遣わしげに覗き込む。
「うん、ありがとう。もう大丈夫。それより、ここの位置が……」
「ここにいたのかよ」
不意に、頭上から低い声が降ってきた。
三人の肩がびくりと跳ねる。
ケセナは咄嗟に身構え、視線を上げた。
――赤い髪、赤い瞳の、見覚えのある男が、高楼の屋根の上に立っていた。
その瞳に、強烈な既視感を覚える。
ただ、今は違う。目の前にいるのは家族のように過ごした誰かではない。評議会に属する四神の一角、『朱雀族長』だ。
「ガイア!」
名を呼んだ瞬間、赤髪の巨躯が躊躇なく路地へ身を躍らせた。
「ちょ、あぶ……っ!」
二層分はあろう高さだった。
だがガイアの身体は落下の直前、羽毛のようにふわりと減速し、ほとんど足音も立てず石畳へ降り立つ。
「んだよ。幽霊でも見たみてぇなツラしやがって」
怪訝そうに首を傾げるガイアを見て、ケセナは思い出す。
朱雀族は重力を操る。高所からの落下など、彼らにとっては取るに足らない動作なのだ。
ケセナは安堵の息を吐き、改めて向き直った。
「……信用できねぇよなぁ、そりゃ」
ぽりぽりと赤い頭を掻きながら、ガイアが大きく溜息をつく。
「警戒すんな。俺はお前らを『保護』しにきたんだよ」
「ほ、保護……?」
「……と、言いてぇところなんだがな」
ガイアはひどく言いにくそうに顔をしかめた。
「隠れ場所を探してうろついてたら、ツェヴァンじーさんが来るわ、先生とやり合い始めるわ、肝心のお前らはいなくなるわで……」
「待って……理解が追いつかない……」
予想外すぎる言葉の連続に、ケセナは琥珀色の瞳を丸くした。
「フェルナリアでも言ったろ、ファル。朱雀族は応龍の配下だ。絶対の敬意をもって忠誠を誓ってる。……俺は味方だ」
ガイアの朱色の瞳に、嘘はなかった。
ケセナの肩から少しだけ力が抜ける。
「……で」
ガイアが真顔になってケセナを見下ろした。
「モノは相談だが、いい隠れ場所、心当たりねぇか?」
「……え?」
保護しにきた本人が、隠れ場所を聞いてくる。
ケセナはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「ある……んだけど、その……」
「あん?」
「……行こうとは思ってるんだけど……」
「おう」
背後から、ラルとプラークルウの痛い視線が突き刺さる。
嫌な汗が背中を伝った。
「……その、ここが、どの辺りか……」
「……お前」
「迷ってなんていないっ! ……と、思いたい!」
「迷ってんじゃねぇか!!」
ガイアの容赦ない怒号が、路地いっぱいに響き渡った。
ケセナはびくっと肩を跳ねさせ、涙目で首をすくめる。
「……で」
少し怒りを含んだ声が降ってくる。
「目的地はどこなんだよ」
「ぜ、絶壁にある洞窟……西側の、海に面した……」
「……海側?」
ケセナがこくこくと勢いよく頷く。
ガイアは天を仰ぎ、地の底から響くような声で告げた。
「正反対じゃねぇか!!」
ぴしり、と。
ケセナが石像のように固まる音が、路地に虚しく響いた。




