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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第五章 隔絶の向こう側
36/60

 ■5■

「五千の星霜って……長すぎるだろっ」


 肩で激しく息を切らしながら、ケセナは思わず愚痴をこぼした。

 オウセイの記憶にあるはずの道がない。

 逆に、あるはずのなかった建物ばかりが立ち並んでいる。

 街の変貌はあまりにも激しかった。

 いや、五千星霜も経てば、地形ごと変わっていても何らおかしくはない。だが、頼りにしていた脳内地図がまるで役に立たないのは致命的だった。


「ねぇ、これ迷ったの?」


 背後を走るラルの冷ややかな声に、先頭のケセナは反射的に言い返す。


「違……っ、街が変わりすぎてて……!」

「それ、世間では迷ったって言うんじゃありませんか?」

「プラウまで言う!?」


 左手に握った宝刀から、プラークルウの呆れた思念が脳内へ直接飛び込んできて、ケセナは泣きそうになった。


 かくして。

 彼らは命懸けの逃走劇の最中に、盛大に迷子になっていた。


(でも、立ち止まれない……!)


 いつ追手に見つかるかわからない。

 自分たちを逃がすため、グレンは命を懸けてツェヴァンと対峙している。だからこそ、無駄死にだけはできなかった。

 焦燥に背を押され、さらに足を速めようとした、その時だった。

 不意にケセナの足がもつれた。


「……っ」


 石畳へ無様に転がり込む。

 立ち上がろうと手をつくが、視界が白く濁り、身体にまるで力が入らない。


 反動だ。


 無理やり膨大な魔力を行使したあとは、いつもこうなった。

 戦場で幾度となく味わった虚脱感と激痛が、今さらになって全身を駆け巡る。

 あの頃は、誰にも悟られぬよう無表情のまま耐えていられた。だが今のケセナには、それを隠し通す術がない。人間としての痛みと感情が、そのまま身体へ現れてしまう。


(こんな時に、自滅して転がるなんて……っ!)


 歪む視界を取り戻そうと頭を振る。

 だが、身体の芯を侵す震えは止まらなかった。


「ケセナ!」


 ラルが弾かれたように駆け寄る。

 抱き起こそうと手を伸ばし――その指先は、直前でぴたりと止まった。

 触れてはいけない。

 その残酷な制約の前に、ラルは唇を強く噛み、宙を切った手を握りしめるしかなかった。


「……ごめん、半刻も休めば……動けるように、なる……から……」


 ケセナは這うようにして裏路地のさらに奥へと身を引きずった。

 陽の当たらない陰へ辿り着くと、壁に寄りかかってぐったりと目を閉じる。


(グレンさんが命懸けで戦っているのに、俺は……)


 足手まといで、何もできず、挙げ句の果てに転がるだけ。

 情けなさが込み上げ、ケセナは拳を血が滲むほど握りしめた。

 その直後、手から滑り落ちた宝刀が眩い光を放ち、プラークルウが具現化する。

 彼女は周囲を鋭く見渡し、人の気配がないことを確かめると、ラルと共にケセナから少し離れた位置へ下がった。

 それが今の彼にできる、精一杯の気遣いだった。


「周辺に追手の反応はありません。……今のうちに休んでください、ケセナ様」


 プラークルウは腕を組み、痛ましげに主を見つめた。


「……さっきの、なに?」


 ラルが低く問う。


「契約なしで精霊を強制的に使役した反動です。ケセナ様は、魔人と同じように精霊を『服従』させて魔術を使おうとするから……どうしても肉体が耐えきれなくて、ああやって悲鳴を上げちゃうんです」

「……そう」


 ラルは唇を噛み、伏し目がちになった。

 自分にできることが、ただ彼を見守るだけなのだと思い知らされる。


「……って、私、何をぺらぺら喋ってるんですか!」


 突如、プラークルウが両手で頭を抱え、顔を真っ赤にして悶えだした。


「勝手に説明したくせに」

「んもぅ! つい、いつもの癖で! 私のバカ!」


 それから半刻ほどが過ぎた。

 物陰でうずくまっていたケセナは、ゆっくりと立ち上がる。

 まだ身体は鉛のように重い。だが動ける。これなら、平気な顔くらいは作れる。


(感情を殺せ。痛みを切り離せ。――あの頃みたいに)


 冷たい暗示を自分にかけて、ケセナはラルたちの待つ場所へ歩き出した。


「……お待たせ」

「遅いです」

「……う」


 プラークルウの一言に、ケセナは苦笑いを浮かべる。


「大丈夫?」


 ラルが気遣わしげに覗き込む。


「うん、ありがとう。もう大丈夫。それより、ここの位置が……」

「ここにいたのかよ」


 不意に、頭上から低い声が降ってきた。

 三人の肩がびくりと跳ねる。

 ケセナは咄嗟に身構え、視線を上げた。


 ――赤い髪、赤い瞳の、見覚えのある男が、高楼の屋根の上に立っていた。


 その瞳に、強烈な既視感を覚える。

 ただ、今は違う。目の前にいるのは家族のように過ごした誰かではない。評議会に属する四神の一角、『朱雀族長』だ。


「ガイア!」


 名を呼んだ瞬間、赤髪の巨躯が躊躇なく路地へ身を躍らせた。


「ちょ、あぶ……っ!」


 二層分はあろう高さだった。

 だがガイアの身体は落下の直前、羽毛のようにふわりと減速し、ほとんど足音も立てず石畳へ降り立つ。


「んだよ。幽霊でも見たみてぇなツラしやがって」


 怪訝そうに首を傾げるガイアを見て、ケセナは思い出す。

 朱雀族は重力を操る。高所からの落下など、彼らにとっては取るに足らない動作なのだ。

 ケセナは安堵の息を吐き、改めて向き直った。


「……信用できねぇよなぁ、そりゃ」


 ぽりぽりと赤い頭を掻きながら、ガイアが大きく溜息をつく。


「警戒すんな。俺はお前らを『保護』しにきたんだよ」

「ほ、保護……?」

「……と、言いてぇところなんだがな」


 ガイアはひどく言いにくそうに顔をしかめた。


「隠れ場所を探してうろついてたら、ツェヴァンじーさんが来るわ、先生とやり合い始めるわ、肝心のお前らはいなくなるわで……」

「待って……理解が追いつかない……」


 予想外すぎる言葉の連続に、ケセナは琥珀色の瞳を丸くした。


「フェルナリアでも言ったろ、ファル。朱雀族は応龍の配下だ。絶対の敬意をもって忠誠を誓ってる。……俺は味方だ」


 ガイアの朱色の瞳に、嘘はなかった。

 ケセナの肩から少しだけ力が抜ける。


「……で」


 ガイアが真顔になってケセナを見下ろした。


「モノは相談だが、いい隠れ場所、心当たりねぇか?」

「……え?」


 保護しにきた本人が、隠れ場所を聞いてくる。

 ケセナはぱちぱちと瞬きを繰り返した。


「ある……んだけど、その……」

「あん?」

「……行こうとは思ってるんだけど……」

「おう」


 背後から、ラルとプラークルウの痛い視線が突き刺さる。

 嫌な汗が背中を伝った。


「……その、ここが、どの辺りか……」

「……お前」

「迷ってなんていないっ! ……と、思いたい!」

「迷ってんじゃねぇか!!」


 ガイアの容赦ない怒号が、路地いっぱいに響き渡った。

 ケセナはびくっと肩を跳ねさせ、涙目で首をすくめる。


「……で」


 少し怒りを含んだ声が降ってくる。


「目的地はどこなんだよ」

「ぜ、絶壁にある洞窟……西側の、海に面した……」

「……海側?」


 ケセナがこくこくと勢いよく頷く。

 ガイアは天を仰ぎ、地の底から響くような声で告げた。


「正反対じゃねぇか!!」


 ぴしり、と。

 ケセナが石像のように固まる音が、路地に虚しく響いた。

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