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ケセナたちが路地の奥へ消え、その気配が完全に遠ざかるのを感じながら、グレンは深く息を吐いた。
胸の深い切り傷から、どくどくと血が滴り落ち、石畳を赤く濡らしていく。
ツェヴァンの水と雷を乗せた剣は、まさしく神速だった。
それだけではない。
先ほどケセナが放った、火、水、土、風――四大精霊を一息に巻き込んだ暴威。
あの戦場で『化け物』が振るった絶望そのものを、この老人は力任せに捩じ伏せたのではない。杖に纏わせたわずかな水流だけで、その『核』を正確に断ち切り、赤子の手を捻るように無力化してみせたのだ。
底の見えない技量の差に、グレンは自らの死すら覚悟し始めていた。
「可愛い教え子を痛めつける趣味はないわい」
ツェヴァンが、余裕の笑みを浮かべながら、杖に仕込まれた刃をくるりと遊ばせる。
「なら、引いてくれませんかね、師匠」
荒い息を吐きながらグレンが返すと、老人は「そうしたいのは山々じゃが、の!」と笑い、再び神速の剣を振り下ろしてきた。
だが、その一撃には先ほどまでの必殺の雷も水も纏われていない。
鋭い刃がグレンの右頬を紙一重で掠め、二人の顔が極限まで近づいた、その瞬間。
「儂は監視されておる。悪いが付き合え、グレン」
耳元へ、誰にも拾えぬほど小さな声が滑り込んだ。
「!」
驚愕に目を見開くグレンへ、ツェヴァンはにやりと笑いかける。
「安心せい。監視は儂についておる。『人形』にはついて行ってはおらん」
その意味を理解した瞬間、グレンは内心で大きく安堵し、すぐに表情を引き締めた。
「派手にやるぞ、坊や」
ツェヴァンが杖を天へ掲げた、次の瞬間。
空が、不気味な低音を響かせた。
晴れていたはずのジェグヌの空が、一瞬で分厚い漆黒の雷雲に覆い尽くされる。陽光は遮られ、昼の街が真夜中のように沈み込んだ。無数の紫電が蛇のように空を這い回る。
「師匠! やりすぎでは!?」
「手加減はしてやる。死ぬ気で防げ!」
再び剣が交差した。
そこから始まったのは、命を懸けた『茶番』だった。
全力ではない。
だが、一人の魔力だけで要塞都市ひとつの天候を支配する――四獣の一角『青龍族長』の真の規模を見せつける、災害めいた舞台装置だった。
朝の静けさは吹き飛び、住人たちが窓から顔を出し、怯えた表情で空を見上げている。
「目立ち過ぎです、師匠!」
グレンは堪らず叫んだが、その声はツェヴァンの雷鳴にあっけなく呑み込まれた。
だが、これでいい。
ケセナたちが十分に遠ざかり、監視の目に『青龍族長が本気で抹殺へ動いている』と錯覚させられるなら、それでいいのだ。
胸の傷が焼けるように痛む。
それでもグレンは歯を食いしばり、師の連撃に応じ続けた。
意識が遠のきそうになるたび、ツェヴァンは絶妙な剣捌きでグレンの体勢を立て直させる。見えぬ水の冷気で密かに傷口の出血を抑えながら、果てしない剣戟を演じ続けた。
半刻が過ぎた頃。
「はぁっ……はぁっ……」
肩で息をする二人の間へ、不意に静寂が落ちた。
空を覆っていた雷雲が嘘のように霧散し、朝の陽光が再び路地へ差し込む。
怯えていた住人たちが、恐る恐る空を見上げている。建物にも人にも被害が及んでいないことを見て、グレンは心の底から安堵した。
そこでようやく限界を迎え、その場へ片膝をつく。
ツェヴァンは剣を杖へ戻し、空を見上げて忌々しげに呟いた。
「やっと帰ったか。まとわりつく視線が消えおったわい」
その一言で、グレンの全身から一気に力が抜けた。
「だからって、こんな街中で……」
ぼやくグレンを見下ろし、ツェヴァンは肩を竦める。
「じゃが、被害はなかろう?」
「街の被害は、でしょう。俺の被害は甚大ですがね」
血塗れの胸元を恨めしげに指差すと、老人は悪びれもせず目を細めた。
「すまぬな、玄武の坊や。手荒な真似をして」
「……その呼び方、いい加減にしてください。俺はもう、小さな子供ではないんですよ」
「何を言う。儂にとっては、まだまだ子供じゃ」
楽しそうに笑うツェヴァンへ、グレンは苦々しい顔で荒い息を整える。
誤魔化していた胸の傷が、今さらになって激しく自己主張を始めていた。
そこへ、ツェヴァンが懐から小さな壺を取り出す。
「……見せてみい」
その壺を見た瞬間、グレンの顔からさっと血の気が引いた。
壺の口から覗くのは、どろりとした深緑色の軟膏だ。
「……ツェヴァン様、それは……」
「青龍族秘伝の外傷薬じゃ。肉の治りを無理やり引き摺り上げる」
「その“激痛秘薬”を、そんな穏やかな顔で出さないでください!!」
本気の悲鳴を上げて這うように後退ろうとするグレンを、ツェヴァンは「黙れ、坊や」と一蹴し、壺から掬い取った得体の知れぬ軟膏を、傷口へ容赦なく塗りたくった。
「ぐぅぁぁぁぁっ!!??」
先ほどの死闘よりよほど切実な絶叫が、裏通りへ響き渡る。
歴戦の騎士であるはずのグレンの黒い瞳から、大粒の涙が溢れた。
「よし」
満足げに呟き、ツェヴァンが立ち上がる。
「……それにしても」
その視線が、先ほどまでケセナが立っていた場所へ向いた。
「あれは、随分と『人』になった。何もかもが弱く、脆い。……グレン、情けをかけたか? あれは、我が君であるリュウショウ陛下の仇じゃろうて」
その問いに、痛みに呻いていたグレンの表情がすっと冷えた。
「違ったんですよ」
「何?」
グレンはゆっくり立ち上がり、かつての師を真っ直ぐ見返す。
「ファルイーアは、リュウショウ様を殺していない。……殺したのは、フィサルーアだったんです」
「……なんじゃと?」
ツェヴァンの顔から、完全に余裕が消えた。
老人の足元の石畳が、無意識に漏れ出した雷の覇気だけで深い亀裂を走らせていく。
周囲の空気が凍りつくように重くなる。
「信じられないのはわかります。ですが、俺はこの目で見ました」
グレンは、ケセナの精神世界で見たこと、そして記憶を取り戻したケセナが語った真実を、一つ残らず告げた。
静かに聞き終えたツェヴァンは、怒りに震える拳を杖の柄へ押しつけ、重く、冷たい息を吐いた。
「……色々と調べることが増えたわい」
ツェヴァンは杖を突き直し、グレンへ背を向ける。
その背中は、もはや老人のものではなかった。紛れもない化け物の覇気を纏っている。
「グレン。儂はこちらで、その腐った腹の中を探ってみる。何か掴めば伝えよう」
「……ありがとうございます、師匠」
「死ぬなよ、坊や」
ツェヴァンは振り返ることなく手を振り、朝霧の中へ静かに姿を消した。
一人残された裏通りで、グレンは大きく息を吐き、よろめくように一歩を踏み出した。
胸の傷は、あの恐ろしい薬のおかげで完全に塞がっている。
だが、流した血の量が多すぎた。
踏み出した瞬間、ぐらりと視界が大きく揺れ、ひどいふらつきに襲われる。
「さて……あいつら、どこまで逃げたか……」
無事に逃げ切れたのか。
合流できるのか。
不器用な弟子たちの顔を思い浮かべ、グレンはもう一度、今度は少し呆れたように息を吐いた。
その時だった。
ふと、時計塔の屋根の辺りから、微かな気配を感じた。
見覚えのあるような――本来なら、こんな場所にいるはずのない特異な気配。
(……気のせいか)
グレンは小さく首を振る。
失血で感覚まで鈍っているらしい。
重い足を引きずりながら、グレンは喧騒の戻り始めた大通りへ歩き出した。




