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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第五章 隔絶の向こう側
34/60

 ■3■

 薄暗い宿の一室に、窓の隙間から鋭い朝日が差し込んでいた。


 その光に気づき、ケセナは机に伏せたまま、ゆっくりと意識を浮上させる。泥のように眠りへ沈む直前、頭を優しく撫でられたような、熱を帯びた大きな手の感触を夢うつつに覚えていた。


 幻か、現実か。


 確かめようとはしなかった。

 ただ、自分の中に残った微かな温もりだけを、消えないうちに胸の奥へそっとしまい込む。

 その時、部屋の扉が静かに開き、ラルとプラークルウが入ってきた。


「あ。おはよう、ケセナ」

「おはようございます! ケセナ様!」

「おはよう、二人とも」


 変わらない二人の姿に、ほっとしたように微笑む。

 けれど、窓際のガラスに映った自分の顔はひどく憔悴していて、ケセナはすぐに視線を逸らした。

 その先で、ラルの手に目立たない灰色のローブと一本の革紐が握られていることに気づく。


「髪、隠さないと。結ぶから、姿勢を正して」


 促されるまま、ケセナは椅子へ座り直した。

 ラルが背後に立ち、一歩、十分な距離を取る。


「動かないで。すぐ終わるから」


 ラルが指先を動かすと、目に見えない風が柔らかな手のように働き、ケセナの長い金髪をさらさらと後ろへまとめていく。ひどく心地よく、それでいて少しだけくすぐったい。

 ラルは一切彼に触れることなく、繊細な硝子細工でも扱うような集中力で、その髪を革紐でしっかり結んだ。


「……終わった。ローブも羽織って」


 ケセナはローブを羽織り、フードを深く被る。

 疲れた顔も見えず、金髪がこぼれ落ちることもない。その姿に、ようやくほっと胸を撫で下ろした。


「ありがとう、ラル」


 ケセナが微笑むと、ラルは不器用に視線を逸らした。


「ラル、私も!」


 その空気を破るように、プラークルウがラルへ飛びつくように声を上げる。


「え、必要、ある?」


 困惑するラルに、プラークルウがなおも食い下がる。

 ケセナは、くすりと静かに笑った。

 だが、その穏やかな刻は、グレンが血相を変えて部屋へ飛び込んできたことで、あっけなく打ち砕かれた。


「……すぐに発つぞ。最悪の事態だ」


 低い声には、隠しきれない焦燥が混じっている。


「最悪の事態……?」


 フードを深く被ったまま、ケセナが首を傾げる。

 グレンは忌々しげに窓の外へ視線をやった。


「昨夜、宿の主人が広めた『触れると激痛が走る毒を持つ熱病の男』という話が、もう街の兵士たちの間で噂になっている。……それを聞きつけて、評議会から放たれた『一番厄介な老人』が、この街へ入り込んだ」


 もう、そこまで来ている。

 グレンの張り詰めた気配が、そう告げていた。


「急ぐぞ。裏口から出る」


 ケセナたちが慌てて荷をまとめ、部屋を出ようとした時だった。

 プラークルウの銀髪が、目に見えて震えている。


「私の……私の嘘のせいで……?」


 珍しく狼狽を隠せない彼女に、ケセナは静かに声をかけた。


「プラウのせいじゃない」


 そう言いながら、胸の奥で自分に言い聞かせる。


(俺のせいだ……)


 その言葉だけは胸の内へ押し込み、ケセナは逃げるように部屋を後にした。


 ------


 要塞都市の入り組んだ裏通り。

 朝の活気が嘘のように、そこだけが不自然な湿った冷気に満ちていた。

 グレンを先頭に、宿の勝手口から足早に影を縫って進む。

 迷路のような路地を抜け、見通しの悪い十字路に差しかかった時だった。

 不意にグレンが片手を挙げ、一行を止めた。

 鋭い視線で辺りを探る。張り詰めた沈黙が落ちる。

 わずかに間を置いて、グレンは小さく息を吐いた。


「……よし、進むぞ」


 背後の三人へ合図を送る。

 安堵して一歩を踏み出した、その瞬間。


「……まったく。評議会の連中も、老人の使い方が荒いのぅ」


 霧がかった路地の先から、しゃがれた声が響いた。

 グレンが弾かれたように足を止め、ケセナたちを背中で庇うように立ち塞がる。


 十数歩先。

 朝靄の中に立っていたのは、真っ白に整えられた長髪と長い髭を蓄え、杖をついた小柄な老人だった。深く刻まれた皺。今にも折れそうな細い身体。どこからどう見ても、百歳近いよぼよぼの老人にしか見えない。

 だが、その姿を見たグレンの口から漏れたのは、絶望に似た呻きだった。


「ツェヴァン様……」

「久しいのぅ、玄武の坊や」


 老人は、細めた目の奥で爬虫類のように冷たい光を放ち、くっくっと喉を鳴らす。

 東方地区を統治する四神の一角、青龍族長ツェヴァン・ロン。

 グレンに剣のすべてを叩き込んだ『師匠』でもある男だ。

 だが、ツェヴァンの濁った視線は、弟子であるグレンではなく、その背後へ隠れるケセナを捉えていた。


「そこの影におるのが、探し求めていた『大逆人』かのぅ」

「……」


 グレンが無言で剣を抜く。

 硬く冷たい鋼の擦れる音が、路地に響いた。


「なんじゃ、物騒な鉄の棒など抜いて。相変わらず血の気の多い奴だのぅ」


 ツェヴァンは一歩、また一歩と距離を詰めてくる。

 グレンの額に汗が滲んだ。


「大人しくその背中の男を渡してはくれぬかのぅ。この老体に、あまり無理をさせないでおくれ」

「……お断りします」


 グレンが剣を正眼に構えた、次の瞬間。

 鼓膜を破るような落雷の音とともに、ツェヴァンの姿が掻き消えた。


「なっ――」


 ケセナが瞬きをするより早く、ツェヴァンはグレンの懐へ潜り込んでいた。手にした杖が、精巧な仕込み刀であることが露わになる。

 雷の精霊による神速の踏み込み。

 水の精霊による流れるような剣閃。

 ケセナの目には、その動きすら捉えられない。

 甲高い金属音とともに火花が散り、グレンの巨体がわずかに後ろへ押し込まれた。


「くっ……!」

「どうした坊や。ずいぶんと剣の筋が悪くなっておるぞ」


 老人の皮を被った化け物が、笑いながら剣を振るう。

 一撃、二撃、三撃。

 グレンは完全に防戦一方となり、彼がこれほどまでに圧倒される姿を、ケセナは初めて見た。

 腕前は、完全にツェヴァンが上回っている。


(このままじゃ、グレンさんが……死ぬ!)


 胸の奥で、何かが冷たく弾けた。

 自分は、かつて何だった。

 応龍の、何と呼ばれていた。


 人形。

 化け物。


 ――『兵器』。


 そうだ。

 自分は、敵を殲滅するためだけに作られた殺戮兵器だったはずだ。


「プラウ」


 ケセナの低く、ひどく冷たい声が響く。

 その声音の変化に、プラークルウが肩を揺らした。

 彼女は瞬時に光の粒子となり、ケセナの手の中へ一本の『宝刀』として顕現する。


「ケセナ!?」


 前へ出ようとするケセナを止めようと、ラルが思わず手を伸ばした。

 だが、直前でその手は空を切る。


(触れちゃ、駄目……!)


 彼に触れれば、彼を狂乱させてしまう。

 その一瞬の躊躇いが、ケセナを物理的に引き止める唯一の機会を奪った。


「ケセナ! やめろ! お前に敵う相手じゃない!」


 グレンが血を吐くような声で制止する。

 だがケセナは、ツェヴァンの前に歩み出て、抜き身の宝刀を構えた。

 その琥珀色の瞳は、一切の感情を排したガラス玉のように澄み切っている。


「“僕”は――」


 その言葉を合図に、周囲の大気が爆発的に膨張した。

 魔術の詠唱などない。

 ケセナの意志ひとつで、火、水、土、風――すべての元素魔術が同時多発的に顕現し、猛烈な嵐となってツェヴァンへ牙を剥いた。


 路地が炎に包まれ、石畳が隆起し、水刃と真空の刃が老人の身体を削り取るべく殺到する。

 それは、戦時中に敵も味方も震え上がらせていた『化け物』の力そのものだった。

 けれど、届かない。


「……ほう。あの感情の抜け落ちた『人形』が、随分と人らしい顔をするようになったではないか」


 ツェヴァンは雷を纏い、凄まじい速度でそのすべてを躱し、水流の剣で難なく切り裂いてみせた。魔術の嵐を易々と潜り抜けた老人が、ケセナの眼前へ迫る。


「だが……ぬるい。誰かを守ろうとするその心が、お主の刃を鈍らせておる。あの絶対的な『兵器』としての殺意は、どこへいったのじゃ?」

「っ!」


 ケセナは咄嗟に宝刀を盾にした。

 ツェヴァンの重い一撃が、刀身へ叩きつけられる。


「くっ……!」


 桁外れの重圧だった。

 膝が砕けそうに折れ曲がり、石畳がめりめりと陥没する。刀を支える両腕の骨が軋み、今にも限界を迎えようとしていた。

 次に振り下ろされれば、確実に両断される。

 死を覚悟した、その時。


「ファルイーアッ!!」


 グレンの悲痛な絶叫が響いた。

 同時に、ケセナの胸元へ強烈な衝撃が走る。

 弾き飛ばされ、地面を派手に転がった。

 彼を突き飛ばしたのは、グレンの『手』ではない。

 硬く冷たい『剣の鞘』だった。

 極限の命のやり取りの最中でさえ、グレンは決して彼へ直接触れようとはしなかったのだ。


「あっ……」


 転がったケセナの目へ映ったのは、自分を突き飛ばしたグレンの大きな背中。

 そして――ツェヴァンの無慈悲な凶刃が、無防備なその胸を深々と斬り裂く光景だった。

 鮮血が、朝陽に照らされた路地へ赫々と舞い散る。


「グレンさん……っ!!」


 膝から崩れ落ちる巨体。

 それでもグレンは、剣を杖代わりにして倒れるのを堪え、振り返りざまに血反吐を吐きながら絶叫した。


「ラル! プラウ! ケセナを連れて逃げろ!!」


 ケセナが駆け寄ろうと身を起こすのを見て、グレンはもう一度、自らの命を削るように声を荒げる。


「嫌だ! グレンさん!!」

「いいから行けぇっ!!」


 グレンはツェヴァンの連撃を必死に弾き返し、自らの血塗れの身体を盾にして路地を塞ぐ。

 その絶叫とほぼ同時に、ラルが突風を巻き起こしてツェヴァンの視界を一瞬だけ遮った。


「ケセナ、早く!」


 ラルが声を飛ばす。

 彼に触れて引っ張ることができない以上、ラルとプラークルウが前を走り、ケセナがその後を追うしかない。

 背後で激しい剣戟の音と雷鳴が轟く。

 ケセナは何度も振り返りそうになる首を無理やり前へ向け、息がちぎれるほど裏通りを走った。


「逃げろたって、どこに行けばいいんですかぁ!!」


 走りながら、プラークルウが半泣きで悲鳴を上げる。


「とにかく、遠く!」


 ラルが叫び返す。

 だが、この見知らぬ迷路のような要塞都市で、当てもなく逃げ切れるはずがない。兵士に見つかれば終わりだ。

 その時、ケセナの脳裏に、かつてのジェグヌの風景が掠めた。


 オウセイの記憶だ。

 中継都市ジェグヌ。

 切り立った崖。

 絶え間なく荒れ狂う海。


(……ある!)


「待って! いい場所がある!」


 ケセナの叫びに、前を走っていたラルとプラークルウが同時に振り返った。


「「え? どこ!」」


 二人の声が見事に重なる。


「この街の西側、海に面した絶壁に『洞窟』があるんだ! 海からは波が荒くて入れないし、陸からは道がないから、たぶん今の時代の人たちは誰も知らない!」


 それは五千星霜前、オウセイがまだ『殺人鬼』として世界中から恐れられ、追われていた時代に身を潜めていた隠れ家だった。

 オウセイの記憶が、ケセナの脳内へ正確な地図を描き出す。


「こっちだ!」


 今度はケセナが先頭に立ち、西の崖を目指して駆け出した。

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