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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第五章 隔絶の向こう側
33/60

 ■2■

 険しい山々を越え、ようやく辿り着いた中継要塞都市『ジェグヌ』の門前には、長い検問の列ができていた。


 海に浮かぶ皇都オーレルディアへ渡るには、このジェグヌを抜けるしかない。両都市を隔てる海は常に荒れ、まともな航路が存在しないのだ。


 皇帝殺しの大逆人を血眼で探していることもあり、人の出入りが激しい門前は、兵士たちの物々しい気配に包まれていた。

 ケセナは厚手のマントを羽織り、目深に被ったフードで顔と、そして眩い金髪を完全に隠している。グレンが先頭に立ち、ラルとプラークルウが左右を固めるようにして歩を進めた。

 順番が近づくにつれ、ケセナの心臓は警鐘のように激しく鳴り始めた。


「次の者、前へ。通行証を出せ」


 無機質で刺々しい兵士の声。

 グレンが懐から手形を差し出すと、兵士はそれを胡散臭げに眺め、それから顔を上げた。


「……っ! だ、団長!?」

「静かにしろ。俺はもう騎士団を辞めている。ただの民間人だ」


 グレンが低く制す。

 兵士は一瞬戸惑ったが、すぐに表情を引き締めた。


「……失礼しました。ですが、規則は規則です。そちらの後ろにいるお連れの方々も、顔をよく見せていただきます」


 鋭い視線が、グレンの背後に立つ小柄な人影――ケセナへ向けられる。


「そいつは酷い熱病に罹っていてな。見ての通り、立っているのもやっとだ。このまま通してやってくれないか」


 グレンが落ち着いた声で庇う。

 だが兵士は首を横に振った。


「怪しい奴を通すわけにはいきません。たとえ元団長のお連れでも、例外にはできません。……おい、そこのお前。フードを取れ」


 言うが早いか、兵士の無骨な手がケセナのフードへ伸びてきた。

 喉の奥で、引き攣った音が漏れる。

 視界に迫る『手』。


(嫌だ、触るな、やめて――!)


 反射的に後ずさろうとしたが、恐怖で身体が石のように硬直し、足は微塵も動かなかった。

 次の瞬間、兵士の手がフードの端を乱暴に引き上げた。


「あっ」


 ラルの短い声が漏れる。

 陽光の下に、隠されていた黄金の髪がさらりとこぼれ落ちた。


「……金髪?」


 兵士の目の色が変わる。

 手配書と一致したのか、周囲の兵士たちも一斉に剣の柄へ手をかけた。空気がぴんと張り詰める。グレンの手にも、わずかに力がこもった。


(終わった。見つかった)


 ケセナは絶望し、きつく目を閉じた。


「おい、お前……目を開けろ」


 鋭い声に促され、ケセナは震える瞼をゆっくりと開いた。

 フードの下から覗いたのは、恐怖に揺れる、透き通るような琥珀色の瞳だった。

 兵士はケセナの顔を穴の開くほど見つめ、手元の書状と何度も見比べる。やがて、舌打ちして緊張を解いた。


「……なんだ。髪の色は同じだが、眼の色が違う。手配の賊は『真紅の瞳』だ。人違いか」

「だから言っただろう。早く休ませてやりたいんだ」


 グレンが強引に会話を引き取り、通行証をひったくるように受け取る。


「……紛らわしいことをしないでください。通ってよし」


 兵士が顎でしゃくる。

 四人は重苦しい門を、ようやく潜り抜けた。


 だが街へ入っても、ケセナの動悸は一向に治まらなかった。

 活気に満ちた大通り。行き交う馬車、客引きの声、笑い合う人々。普通なら安堵を覚えるはずの喧騒が、今のケセナには脅威にしか思えない。

 人がすれ違うたび、その肩や腕が自分に触れる気がした。


「安いよ! そこのお兄さん、林檎はどうだい!」


 不意に差し出された果物売りの手に、ケセナは身を竦ませ、危うくその場へ倒れ込みそうになる。

 視界が歪む。

 迫ってくる無数の人々が、すべて地下室の黒い影に見えた。四方八方から伸びてくる幻の『手』に、息が詰まる。


「……ごめん」


 限界を訴える、震える声だった。

 ラルが振り返る。

 ケセナは自分の両腕を抱きしめるようにして、血の気のない顔で立っていた。


「宿屋……先で、いいかな」


 一刻も早く、誰の目もない場所へ。誰の手も届かない場所へ。

 その懇願に、三人は痛ましいものを見るような目をした。


「……ああ、わかった。すぐに見つける」


 グレンが周囲を見渡し、裏通りに近い比較的静かな宿を見定める。


「少し急ぐぞ」


 一行は逃げるように大通りを離れた。


 ------


「いらっしゃい。……おや、お連れさん、随分と顔色が悪いね」


 薄暗い宿屋の受付で、恰幅の良い主人が心配そうに声をかけてきた。

 ケセナはグレンたちの後ろに隠れるようにして、壁へ寄りかかりながら荒い息を吐いている。


「随分と酷い熱病みたいじゃないか。大丈夫かい?」


 主人がカウンターの奥から出てきて、ケセナの額へ手を当てようと無造作に腕を伸ばす。

 ケセナの瞳孔が限界まで収縮した。

 逃げなければ。だが、背中は壁だ。声すら出ない。

 眼前に迫る太い指先が、理性を焼き切ろうとした、その時。


「駄目ですっ! 触らないで!」


 プラークルウが、主人の手とケセナの間にさっと小さな身体を滑り込ませ、両手を広げて立ち塞がった。


「な、なんだいお嬢ちゃん。俺はただ……」

「だ、駄目なんです! この人、えっと、山で……あの、そう! 『触れると激痛が走る毒』を持った魔物にやられちゃって……! 少しでも人に触れられると、発作を起こしちゃうんです!」


 悲痛な、しかし淀みない嘘だった。

 主人は目を見開く。


「そ、そりゃあ大変だ! だからアンタたちも遠巻きにしてたんだな……」

「ああ。早く休ませてやりたい」


 グレンも即座に話を合わせる。


「わかった、わかった。一番奥の静かな部屋を用意しよう。ほら、鍵だ」


 主人はすっかり同情した顔で、グレンへ鍵を放った。


「助かる」


 グレンが短く礼を言い、ケセナを促す。

 ケセナは壁伝いに這うようにして階段へ向かいながら、小さく、しかし確かな声でプラークルウへ呟いた。


「……ありがとう、プラウ」


 プラークルウは、少しだけ泣きそうな顔をしながらも、力強く頷いた。

 彼らが選んだその触れられない距離は、不器用なかたちのまま、確かにケセナを外の恐怖から守っていた。

 部屋へ入ると、ケセナは椅子へ崩れ落ちた。


「買い出し、行ってくる」


 ラルが静かに告げ、プラークルウも後に続く。

 二人なりに、限界を迎えたケセナを休ませようとしたのだ。

 部屋へ残されたのは、グレンとケセナの二人だけになった。


「こんなに、怖いなんて」


 ぽつりと、ケセナがこぼす。


「黄金龍よりも……自分の中に植え付けられた、この『人に触れられる恐怖』が、一番怖い」


 そう吐露した直後。

 必死に繋ぎ止めていた緊張の糸がついに切れたのか、ケセナは机へ突っ伏したまま、気絶するように深い眠りへ落ちていった。

 グレンはその寝顔を、複雑な思いで見つめていた。


 ファルイーアと呼ばれていた頃。

 ベラルティル家の地下室から救い出して間もない頃、ガイアだったかキョウだったか、誰かがそんなことを言っていた。

 誰かが彼へ手を伸ばすと、その瞬間、彼の身体は石のように硬直する、と。

 ガイアやキョウと共に過ごした、あの温かく幸福だった五星霜の間でさえ、その傷だけは消えなかった。

 兵器として扱われるようになってからも、その反応だけは消えなかった。

 ただ、あの頃は硬直するだけだった。今のケセナのように、魂を掻きむしられるほど激しく乱れることはなかった。

 記憶を取り戻してからの彼は、何かに怯え続けているようにも見える。

 グレンには、それが心配でならなかった。


 ふと、思い出す。


 一度だけ。

 夜中、冷たい檻の中で眠るファルイーアへ触れたことがあった。

 あの時だけは、不思議と彼は硬直を見せなかった。

 無意識の底で、グレンの温もりだけは拒まなかったのか。

 それとも、眠りの中だけが、彼が『兵器』ではなく『子供』へ戻れる時間だったのか。


 グレンは躊躇うように、傷だらけの大きな手を伸ばした。

 目覚めている時には決して許されない、これもまた身勝手なエゴかもしれない、罪深い接触。

 指先が、さらりとした金髪に触れる。

 拒絶もない。

 あの忌まわしい硬直もない。

 柔らかな金糸が、グレンの無骨な指へ吸い付くように絡みついた。


(……温かいな)


 自分が彼から『人』であることを奪い、『兵器』へ作り替えてしまった。

 今さら、その罪悪感から逃れられるとも思っていなかった。

 眠りの中で、青年は今、何を夢見ているのだろうか。

 冷たい檻の感触か。

 それとも、今はもう失われたあの五星霜の温もりか。


(せっかく、笑えるようになったというのに……)


 グレンは、目覚めている時には決して見せない、痛切なまでの慈愛を込めて、その金髪を撫でた。

 指へ絡みつく髪は、檻の外から眺めていた頃よりずっと細く、そして残酷なまでに温かかった。


 恐怖を感じることなく眠るケセナの横顔を、グレンはただ、闇の中で見守り続けた。

 この手が彼を壊す凶器ではなく、せめて一時の安らぎを与えるものであることを、祈るように。

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