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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第五章 隔絶の向こう側
32/60

 ■1■

 皇都オーレルディアは、一行にとってあまりにも遠かった。


 オウセイの森を出て二夜後、四人は険しい山道を進んでいた。

 以前、グレンが嬉々として手に入れた馬は山道を越えられず、麓の村に泣く泣く預けてきた。しばらくの間は恨み言が続いていたが、道の険しさが増すにつれ、さすがの彼も口を噤んだ。

 そもそも山道を選んだのは、評議会の放った追手を避けるためだった。整備された街道を行けば陽の半巡もかからず辿り着く距離だが、各所の警備は厳しく、強行突破など不可能だった。

 迂回のために選んだ幾つもの山と渓谷が、今、一行を激しく苦しめている。慣れぬ山道に、全員の顔へ濃い疲労が滲んでいた。

 さらに一の夜前の豪雨で地盤が緩み、足元はひどく不安定になっている。


 事故が起きるのは、こういう時だ。


 ケセナが踏み出した岩場が、嫌な音を立てて崩れた。


「あ――」


 体勢を崩し、ケセナの身体が大きく傾く。

 その先は、底の見えない深い崖だった。


「ケセナ!」


 叫んだのはラルだった。

 咄嗟のことだった。魔術を唱える暇も、槍を差し出す余裕もない。反射が思考を追い越した彼女は、思い切り手を伸ばし、転落しかけたケセナの右手首を直接掴んで、力任せに引き寄せた。

 岩場へ引き上げられ、二人は折り重なるように倒れ込む。


 だが、次の瞬間。


「……っあ、あああああぁぁぁぁっ!!」


 山々に響き渡ったのは、感謝の言葉ではなく、ケセナの絶叫だった。

 ケセナは狂ったようにラルの手を振り払い、地面を這うように後ずさる。

 瞳は焦点を失い、収縮しきっていた。


「やめて! 離して! 痛いっ!」


 彼は自分の右手首――ラルに掴まれた場所を、まるで毒でも塗られたかのように左手で擦り、地面に叩きつけ始めた。そこに残った『他人の手の感触』そのものを削ぎ落とそうとするかのように、皮膚が赤く腫れ、血が滲むまで、何度も、何度も。


「ケセナ……? 違う、あたしは……」


 ラルが凍りついたように、彼へ手を差し伸べようとする。


「嫌だ!!」


 ケセナの悲鳴まじりの怒号に、ラルは弾かれたように手を止めた。

 ケセナの視界は、すでに目の前の山岳を映していなかった。

 薄暗い地下室。四方から伸びてくる、黒い男たちの手。自分を兵器へ塗り替えようとした、あの冷たく残酷な手。

 その感触だけで、意識は一瞬にして地下室へ引き戻されていた。


「ケセナ、落ち着け。俺だ。グレンだ」


 グレンが低く声を出し、ケセナの視界を圧迫しないよう少し離れた位置で、ゆっくりと膝をつく。


「ラルは、お前を助けようとしただけだ。……ここは地下室じゃない。外だ。空が見えるだろう」


 ケセナの荒い呼吸が、喉をひくつかせる。

 誰も動けなかった。

 ラルは宙に浮いたままの自分の右手を、まるで罪を犯した凶器のように見つめ、ガタガタと震わせていた。

 プラークルウは口を両手で塞いだまま、涙を滲ませて立ち尽くしている。


「ケセナ、意識を戻せ。黄金龍が動いてしまう!」

「おう……ご……っ」


 ケセナの右腕が、どろりとした黒い熱を帯びた。

 紋章が獲物を狙う蛇のようにのたうち、皮膚を内側から焼き焦がそうとするように不気味に脈動し始める。

 グレンはその禍々しい光景に、かつての戦場を思い出し、背筋に冷たいものが走るのを禁じ得なかった。

 やがて、ケセナの瞳へ少しずつ光が戻った。

 彼はなお熱を持つ右腕を、震える左手でそっと握り直す。

 そうしてようやく平静を取り戻した時、自分が命を救ってくれたラルに向かって怒鳴り、拒絶したことへ気づいたのだろう。


「……ごめん」


 ケセナは逃げるように顔を伏せた。

 その背中は、あまりにも小さく、脆かった。


「謝らないで」


 ラルは、震える右手を左手で強く押さえつけた。


「あたしが悪い。わかっていたのに……ごめんなさい」


 彼女の目から、一滴の涙が地面に落ちる。


 グレンは重々しく立ち上がった。


「……休憩にしよう。今日は、これ以上歩けない」


 ------


 その夜、焚き火を囲む四人の間には、言いようのない沈黙が流れていた。


 ケセナは誰とも視線を合わせず、言葉も口にしない。ただひたすら、ラルに掴まれた手首へできた、自らの傷を反対の手で隠し続けていた。

 記憶を取り戻してから、光精霊はケセナを癒さなくなった。清浄な精霊たちは、脈動する黄金龍と、ケセナの深い傷跡が放つ拒絶の気配を恐れるように、遠巻きに見つめるだけで決して近づかない。元々光魔術が苦手なラルが、早々に治癒を諦めるほどだった。


(癒えないのは、身体の傷だけじゃないんだな……)


 ケセナは胸の内で自嘲し、じくじくと痛む手首をいっそう強く守るように握りしめた。

 焚き火の爆ぜる音だけが響く中、やがてプラークルウが努めて明るい声を上げる。


「はい、ケセナ様! 熱いので気をつけてくださいね」


 彼女は小さな両手で木製の盆をしっかり支え、その上に載せた熱いスープの入った木杯を、ケセナの前へ差し出していた。

 以前の彼女なら、直接木杯を手渡し、そのまま腕に抱きついていただろう。

 だが今は、一定の距離を保ったまま、決して指先が触れないよう盆という“橋”を挟んでいる。


「ありがとう、プラウ」


 ケセナがおずおずと手を伸ばし、木杯を受け取る。

 その指先が震えていないことを確かめて、プラークルウはふわりと微笑み、ぱたぱたと自分の定位置へ戻っていった。


「ねえ、ケセナ」


 スープを飲もうとした時、少し離れた場所からラルが声をかけた。彼女はまだ、ケセナの顔を真っ直ぐには見られていない。


「髪、少し伸びた?」

「え、そうかな」

「うん。邪魔そう。あとで、風で切ってあげる。……触らなくても、できるから」


 ぶっきらぼうな言い方だった。

 だが、それが彼女なりに必死に考えた、今のケセナとの関わり方なのだとわかった。


「お願いするよ、ラル」


 ケセナが微笑むと、ラルはわずかに耳を赤くして、小さく頷いた。

 二人の会話が途切れたところで、ケセナは木杯を両手で包み込み、温かなスープを少しだけ口に含んだ。


 いつもの量――壊れた身体でも、かろうじて受け付けるはずの、ごく僅かな量。

 けれど、予想よりも早く身体はそれを拒絶した。

 こみ上げる強烈な吐き気に、ケセナは咄嗟に飲むのをやめ、音を立てないよう木杯を地面へ置いた。口元を手の甲で覆い、込み上げるものを必死に飲み下す。


(だめだ……これ以上は、吐く)


 幸い、誰も気づいていない。

 ケセナは密かに息を吐き、背筋をそっと伸ばした。

 そしてふと、焚き火の向こうへ視線を向ける。

 グレンは焚き火の反対側で、黙々と剣を磨いていた。

 ケセナと視線が合うと、グレンは無意識に、剣を拭う大きな手を布で隠すように伏せた。

 自分の視線が彼にまで気を使わせているのだと察し、ケセナはなるべく自然を装って立ち上がり、ゆっくりとグレンの側へ歩み寄った。


「グレンさん、一夜明け後の行程だけど……」


 手が触れない絶妙な距離で声をかけると、グレンは静かに剣を鞘へ収め、重い音を立てて立ち上がった。


「ああ、険しい山道になる。だが、俺が前を行く。お前は後ろを警戒しろ」


 そう言って、グレンは黒塗りの硬い鞘を、ケセナへ向けて真っ直ぐ差し出した。


「何かあれば、迷わず掴め」

「……はい。ありがとう、グレンさん」


 ケセナはそっと鞘に手を置いた。

 人の肌の温もりが恐怖の対象になってしまった今、その冷たく硬い感触が、何よりの救いだった。


「みんな、ごめん。俺の我儘に付き合ってもらってるのに、俺がこんなので……」


 ケセナがぽつりと呟く。

 自分という存在のせいで、仲間たちに細心の注意を払わせ、不自由な距離を強いている。その申し訳なさが、夜の寒さと共に胸へ沁みた。


 すると、プラークルウがぱんぱんと服を叩いて立ち上がった。


「何言ってるんですか! 私たちは、今のケセナ様が一番好きなんです。髪が金色になっても、ちょっと難しいことを言うようになっても、ケセナ様はケセナ様ですから!」


「そう。これが私たちの『今の形』」


 ラルも、静かに言った。

 グレンは差し出した鞘を持ったまま、深く頷く。


「ケセナ。お前がその傷を抱えたまま進むと言うなら、俺たちはついて行く」


 一拍置いて、低く続ける。


「……それだけだ」


 ケセナは、焚き火の光に照らされた三人の顔を順番に見つめた。

 触れ合うことはできない。肌の温もりを感じることも、今の彼には耐え難い。

 けれど、この“一歩分の距離”を隔てて注がれる眼差しが、何よりも温かく、自分を人間として繋ぎ止めてくれていることを痛いほど感じていた。


「……うん」


 黄金龍の紋章が、微かに熱を帯びる。

 だが不思議と、今はその拍動が以前ほど不気味には感じられなかった。

 夜風が山を駆け抜け、四人の静かな休息を包み込む。


 触れられぬ絆は、皮肉なことに、どんな抱擁よりも深く彼らを結びつけていた。

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