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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第四章 五千星霜が終わる刻
31/60

 ■8■

 外は夕暮れの緋色に染まっていた。


 家の裏手にある古びた見晴らし台で、グレンは一人、手摺りに両手を置いたまま地平線を眺めていた。沈みゆく陽が、大地を血のような赤に染め上げている。


 その色は、戦場の色だった。

 そして――ケセナが記憶の中で見たであろう、惨劇の色でもあった。

 背後で、枯れ葉を踏む音がした。

 グレンは振り返る。


「……ここにいたんだ」


 小さな声だった。

 その儚げな響きだけで、今、前に立っているのが『ファルイーア』の気配を色濃く帯びたケセナなのだとわかる。

 ケセナは、手を伸ばせば届きそうで届かない、そのぎりぎりの距離で立ち止まった。夕陽を浴びた金の髪が、不気味なほど鮮やかに光っている。

 グレンは手摺りから手を離し、静かに口を開いた。


「……化け物、と言ったな」


 掠れた声だった。自分でも驚くほど、喉が乾いていた。


「俺は、お前を一度たりとも、そんなふうに見たことはない。……それだけは信じてくれ」


 ケセナは意外そうに目を瞬かせ、それから自嘲気味に目を伏せた。


「知ってる」


 小さく答える。


「寝静まった僕の側で、時々、悲しそうな顔をしていたこと」


 グレンの心臓が、ひどく鋭く脈打った。

 懺悔をしたところで何も戻らない。言葉なら、いくらでも綺麗に言える。だが、ファルイーアを兵器にした過去は変わらない。


「ファル……!」


 衝動のまま、グレンはその細い肩へ手を伸ばした。


「……ッ!!」


 ケセナの身体が、弾かれたように後ろへ飛び退いた。


 喉の奥から漏れたのは、悲鳴とも息ともつかない音だった。琥珀色の瞳は大きく見開かれ、獣のような怯えに染まっている。

 グレンの手が、空中で止まった。


「……あ」


 ケセナは自分の肩を両手で抱きしめるようにして、荒く呼吸していた。視線は、グレンの“手”に縫い止められている。


 差し出されたそれは、温もりではない。

 過去へ引き戻すための、冷たい道具でしかなかった。


「……すまない」


 グレンはゆっくりと両手を下ろし、背中へ隠した。


「忘れていたわけじゃないんだ」


 忘れていない。忘れられるはずがない。

 ファルイーアは、触れられることを怖がっていた。昔は今ほど露骨ではなかったが、誰かの手が近づくたび、ほんのわずかに身体を強張らせていた。


 その時だった。


 嗚咽まじりの呼吸を繰り返していたケセナが、はっと息を呑み、自らの右腕を押さえた。


 内なる鼓動が、脈打つ。


「あ、あああっ……だま……れ……」


 右腕の紋章が、食い破ろうとするように暴れ出す。黄金龍の囁きと、『手』の記憶が一度に押し寄せ、ケセナの身体が崩れそうになる。


「ファルイーア!」


 グレンは叫んだ。

 触れずに。ただ、声だけで繋ぎ止めるように。


「ファル! ファル!!」


 何度も呼ぶ。

 焦点の定まらなかったケセナの瞳が、ようやくグレンを捉えた時、右腕の異常な脈動は、すっと静まった。

 残ったのは、荒い呼吸と、風の音だけだった。


「……ごめんなさい」


 半刻ほどして、ケセナがようやく言った。

 呼吸は細く、最小限だった。戦場で感情を押し殺すために叩き込まれた呼吸法が、今も彼を生かしている。


「頭ではわかってる。……貴方の手が、僕を傷つけないことくらい」


 胸元に手を当て、動悸を鎮めようとしながら、言葉を継ぐ。


「でも、体が……勝手に拒絶する……ごめんなさい……」


 グレンは、答えられなかった。

 ただ、背中に隠した拳を、血が滲むほど強く握る。

 あの地下室で彼を傷つけた“手”の記憶を、自分はさらに磨き上げて、兵器として扱いやすい反応へ書き換えたのだ。救うどころか、傷そのものを刃にしてしまった。


「そんなお前に、俺はまた剣を取れと言う」


 掠れた声で、グレンは言った。


「……救いようのない外道だな」

「……グレンさん」


 ケセナが、震えながらもまっすぐに彼を見る。

 一歩だけ、自分から歩み寄った。

 けれど、その足は手の届かない場所で止まる。


「僕が“兵器”だった時、唯一、身体が強張らなかった瞬間がある」


 夕暮れの光が、金の髪を透かしていた。


「貴方が僕の背後に立って、敵を睨んでいた時。あの時だけは、貴方の手が怖くなかった」


 グレンは息を呑む。


「その手が剣を握って、僕の隣で戦ってくれたから。あの時だけは、僕は『化け物』じゃなくて……隣に立つことを許された人間になれる気がしてたから」


 その言葉に、グレンはようやく、彼がどれほど必死に“人であろう”としていたのかを知った。


 触れることはできない。

 ならば、せめて。


「……ああ。約束だ」


 グレンは腰の剣の柄を、あえてケセナに見えるように握りしめた。


「お前の横に立つ。誰の手もお前に触れさせない」


 一拍、置いて。


「たとえ、俺自身の手であってもな」


 ケセナは安堵したように、細く息を吐いた。

 夜風が吹き、金の髪が揺れる。

 一瞬だけ、ケセナとファルイーアと、オウセイの残滓が、同じ輪郭の中で静かに重なったように見えた。


「行こう。みんなが待ってる」


 ケセナが先に歩き出す。

 グレンは、その背中との“一歩分”の距離を決して詰めなかった。


 それが今の彼に許された、最大限の誠実さだった。


 ------


 見晴らし台から戻ったグレンは、ラルとプラークルウを呼び出し、重い口を開いた。


 ケセナにとって『手』が、温もりではなく、解体と激痛の象徴になってしまっていることを。


「そんな……」


 プラークルウは、その場へへなへなと座り込んだ。顔から一気に血の気が引いていく。


「私、あんなに……何度も抱きついたり、手を引っ張ったり……」


 小さな身体が、目に見えて震えていた。


 ラルは、何も言わなかった。

 ただ一点を見つめたまま、硬く手を握りしめている。自分の不用意な接触も、同じように彼を傷つけていたかもしれない――その想像が、彼女の身体を静かに強張らせていた。


 夜が明け。


 森はまだ薄い霧の中にあった。湿った空気は冷たく、立ち並ぶ木々は影のように黒い。


 オウセイの亡骸は、家の裏手にある陽だまりの小さな丘へ運ばれた。

 土葬が当たり前のこの世界に、特別な儀式はない。ただ静かな場所を選び、土へ還すだけだ。

 グレンが黙々と土を掘っていた。湿った土を返す音だけが、朝の静寂に規則正しく響く。

 ラルは少し離れた場所で、無言のまま周囲を見張っている。気配は鋭いはずなのに、今朝はどこか散漫だった。

 プラークルウは、オウセイの身体を包んだ布の端を、何度も何度も丁寧に整えている。

 ケセナはその傍らに立ち、掘られていく穴を見つめていた。

 自分の内側にあるオウセイの記憶が、目の前の亡骸を“自分の一部”のように認識している。その感覚がひどく奇妙だった。


「……こんなものか」


 グレンの声が響く。

 掘られた穴の前に四人が並んだ。グレンとラルがそっとオウセイの身体を持ち上げる。

 ラルは一瞬だけ、手を添えることを躊躇した。

 だが、今、触れているのはケセナではない。


「どうした?」


 グレンに問われ、ラルは小さく首を振る。


「なんでも、ない」


 二人は静かに亡骸を土の中へ降ろした。

 その瞬間、ケセナの胸の奥を奇妙な感覚が掠めた。懐かしさでも、悲しみでもない。もっと名づけにくい何かだった。


「……変な感じ」


 グレンが顔を上げる。


「何がだ」

「自分を埋めてるみたいで」


 その言葉に、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。


「あー……それは確かに」


 プラークルウがかすかに呟く。ケセナも小さく笑った。


「でしょ?」


 土をかける作業が始まる。

 土の重い音が静かに積み重なっていく。


 何度目か、ケセナがスコップを動かした時だった。隣で同じように土を運んでいたプラークルウの手が、ほんのわずかに交差する。

 その指先が、ケセナの手の甲を掠めた。


「……っ!!」


 ケセナの身体が、ひどく不自然に跳ねた。

 視界が白く爆ぜる。地下室の光景が脳裏を掠め、スコップを握る手が一瞬で強張る。

 プラークルウは、弾かれたように手を引いた。


「す、すみません!」


 真っ青な顔で、慌てて両手を後ろに隠す。

 ラルもまた、その反応を見て身を強張らせた。胸の奥がざわつく。自分の何気ない接触も、同じ恐怖を呼び起こしていたのかもしれない。


「……大丈夫」


 ケセナは小さく息を吐き、震える指先をゆっくり解いた。


「ごめん、プラウ。俺の方こそ」


 プラークルウも、ぎこちなく笑う。


「はい……私も、ごめんなさい」


 それ以上は何も言わず、二人は再び土をかけ始めた。

 やがて穴は完全に埋まり、朝露に濡れた小さな土の盛り上がりだけが残る。

 グレンが剣を地面へ突き立て、静かに頭を垂れた。ラルも目を閉じる。プラークルウは両手を胸の前で組んだ。


 ケセナだけが、しばらくその墓を見つめていた。


「……ありがとう」


 過去の自分へ。

 自分を繋ぎ止めてくれた死者へ。

 その一言で、胸の奥にあった何かが少しだけ静まった気がした。

 しばらくの沈黙のあと、グレンが顔を上げる。


「……行くぞ」


 短い言葉だった。

 誰も反対しない。


 ラルが誰よりも早く荷を背負い、先に歩き出す。プラークルウがケセナの横へ並ぶが、その距離は以前よりほんの少し遠い。


 ケセナは最後にもう一度だけ、小さな墓を振り返った。

 風が吹く。

 森の葉が、さわさわと笑うように揺れた。

 まるで、誰かが笑ったような気がした。

 ケセナは小さく息を吐く。


 四人は、霧の晴れゆく森の道へと歩き出した。

 重なり合わない、けれど確かに同じ方角へ向かう足音だけが、朝の空気に静かに刻まれていった。

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