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外は夕暮れの緋色に染まっていた。
家の裏手にある古びた見晴らし台で、グレンは一人、手摺りに両手を置いたまま地平線を眺めていた。沈みゆく陽が、大地を血のような赤に染め上げている。
その色は、戦場の色だった。
そして――ケセナが記憶の中で見たであろう、惨劇の色でもあった。
背後で、枯れ葉を踏む音がした。
グレンは振り返る。
「……ここにいたんだ」
小さな声だった。
その儚げな響きだけで、今、前に立っているのが『ファルイーア』の気配を色濃く帯びたケセナなのだとわかる。
ケセナは、手を伸ばせば届きそうで届かない、そのぎりぎりの距離で立ち止まった。夕陽を浴びた金の髪が、不気味なほど鮮やかに光っている。
グレンは手摺りから手を離し、静かに口を開いた。
「……化け物、と言ったな」
掠れた声だった。自分でも驚くほど、喉が乾いていた。
「俺は、お前を一度たりとも、そんなふうに見たことはない。……それだけは信じてくれ」
ケセナは意外そうに目を瞬かせ、それから自嘲気味に目を伏せた。
「知ってる」
小さく答える。
「寝静まった僕の側で、時々、悲しそうな顔をしていたこと」
グレンの心臓が、ひどく鋭く脈打った。
懺悔をしたところで何も戻らない。言葉なら、いくらでも綺麗に言える。だが、ファルイーアを兵器にした過去は変わらない。
「ファル……!」
衝動のまま、グレンはその細い肩へ手を伸ばした。
「……ッ!!」
ケセナの身体が、弾かれたように後ろへ飛び退いた。
喉の奥から漏れたのは、悲鳴とも息ともつかない音だった。琥珀色の瞳は大きく見開かれ、獣のような怯えに染まっている。
グレンの手が、空中で止まった。
「……あ」
ケセナは自分の肩を両手で抱きしめるようにして、荒く呼吸していた。視線は、グレンの“手”に縫い止められている。
差し出されたそれは、温もりではない。
過去へ引き戻すための、冷たい道具でしかなかった。
「……すまない」
グレンはゆっくりと両手を下ろし、背中へ隠した。
「忘れていたわけじゃないんだ」
忘れていない。忘れられるはずがない。
ファルイーアは、触れられることを怖がっていた。昔は今ほど露骨ではなかったが、誰かの手が近づくたび、ほんのわずかに身体を強張らせていた。
その時だった。
嗚咽まじりの呼吸を繰り返していたケセナが、はっと息を呑み、自らの右腕を押さえた。
内なる鼓動が、脈打つ。
「あ、あああっ……だま……れ……」
右腕の紋章が、食い破ろうとするように暴れ出す。黄金龍の囁きと、『手』の記憶が一度に押し寄せ、ケセナの身体が崩れそうになる。
「ファルイーア!」
グレンは叫んだ。
触れずに。ただ、声だけで繋ぎ止めるように。
「ファル! ファル!!」
何度も呼ぶ。
焦点の定まらなかったケセナの瞳が、ようやくグレンを捉えた時、右腕の異常な脈動は、すっと静まった。
残ったのは、荒い呼吸と、風の音だけだった。
「……ごめんなさい」
半刻ほどして、ケセナがようやく言った。
呼吸は細く、最小限だった。戦場で感情を押し殺すために叩き込まれた呼吸法が、今も彼を生かしている。
「頭ではわかってる。……貴方の手が、僕を傷つけないことくらい」
胸元に手を当て、動悸を鎮めようとしながら、言葉を継ぐ。
「でも、体が……勝手に拒絶する……ごめんなさい……」
グレンは、答えられなかった。
ただ、背中に隠した拳を、血が滲むほど強く握る。
あの地下室で彼を傷つけた“手”の記憶を、自分はさらに磨き上げて、兵器として扱いやすい反応へ書き換えたのだ。救うどころか、傷そのものを刃にしてしまった。
「そんなお前に、俺はまた剣を取れと言う」
掠れた声で、グレンは言った。
「……救いようのない外道だな」
「……グレンさん」
ケセナが、震えながらもまっすぐに彼を見る。
一歩だけ、自分から歩み寄った。
けれど、その足は手の届かない場所で止まる。
「僕が“兵器”だった時、唯一、身体が強張らなかった瞬間がある」
夕暮れの光が、金の髪を透かしていた。
「貴方が僕の背後に立って、敵を睨んでいた時。あの時だけは、貴方の手が怖くなかった」
グレンは息を呑む。
「その手が剣を握って、僕の隣で戦ってくれたから。あの時だけは、僕は『化け物』じゃなくて……隣に立つことを許された人間になれる気がしてたから」
その言葉に、グレンはようやく、彼がどれほど必死に“人であろう”としていたのかを知った。
触れることはできない。
ならば、せめて。
「……ああ。約束だ」
グレンは腰の剣の柄を、あえてケセナに見えるように握りしめた。
「お前の横に立つ。誰の手もお前に触れさせない」
一拍、置いて。
「たとえ、俺自身の手であってもな」
ケセナは安堵したように、細く息を吐いた。
夜風が吹き、金の髪が揺れる。
一瞬だけ、ケセナとファルイーアと、オウセイの残滓が、同じ輪郭の中で静かに重なったように見えた。
「行こう。みんなが待ってる」
ケセナが先に歩き出す。
グレンは、その背中との“一歩分”の距離を決して詰めなかった。
それが今の彼に許された、最大限の誠実さだった。
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見晴らし台から戻ったグレンは、ラルとプラークルウを呼び出し、重い口を開いた。
ケセナにとって『手』が、温もりではなく、解体と激痛の象徴になってしまっていることを。
「そんな……」
プラークルウは、その場へへなへなと座り込んだ。顔から一気に血の気が引いていく。
「私、あんなに……何度も抱きついたり、手を引っ張ったり……」
小さな身体が、目に見えて震えていた。
ラルは、何も言わなかった。
ただ一点を見つめたまま、硬く手を握りしめている。自分の不用意な接触も、同じように彼を傷つけていたかもしれない――その想像が、彼女の身体を静かに強張らせていた。
夜が明け。
森はまだ薄い霧の中にあった。湿った空気は冷たく、立ち並ぶ木々は影のように黒い。
オウセイの亡骸は、家の裏手にある陽だまりの小さな丘へ運ばれた。
土葬が当たり前のこの世界に、特別な儀式はない。ただ静かな場所を選び、土へ還すだけだ。
グレンが黙々と土を掘っていた。湿った土を返す音だけが、朝の静寂に規則正しく響く。
ラルは少し離れた場所で、無言のまま周囲を見張っている。気配は鋭いはずなのに、今朝はどこか散漫だった。
プラークルウは、オウセイの身体を包んだ布の端を、何度も何度も丁寧に整えている。
ケセナはその傍らに立ち、掘られていく穴を見つめていた。
自分の内側にあるオウセイの記憶が、目の前の亡骸を“自分の一部”のように認識している。その感覚がひどく奇妙だった。
「……こんなものか」
グレンの声が響く。
掘られた穴の前に四人が並んだ。グレンとラルがそっとオウセイの身体を持ち上げる。
ラルは一瞬だけ、手を添えることを躊躇した。
だが、今、触れているのはケセナではない。
「どうした?」
グレンに問われ、ラルは小さく首を振る。
「なんでも、ない」
二人は静かに亡骸を土の中へ降ろした。
その瞬間、ケセナの胸の奥を奇妙な感覚が掠めた。懐かしさでも、悲しみでもない。もっと名づけにくい何かだった。
「……変な感じ」
グレンが顔を上げる。
「何がだ」
「自分を埋めてるみたいで」
その言葉に、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
「あー……それは確かに」
プラークルウがかすかに呟く。ケセナも小さく笑った。
「でしょ?」
土をかける作業が始まる。
土の重い音が静かに積み重なっていく。
何度目か、ケセナがスコップを動かした時だった。隣で同じように土を運んでいたプラークルウの手が、ほんのわずかに交差する。
その指先が、ケセナの手の甲を掠めた。
「……っ!!」
ケセナの身体が、ひどく不自然に跳ねた。
視界が白く爆ぜる。地下室の光景が脳裏を掠め、スコップを握る手が一瞬で強張る。
プラークルウは、弾かれたように手を引いた。
「す、すみません!」
真っ青な顔で、慌てて両手を後ろに隠す。
ラルもまた、その反応を見て身を強張らせた。胸の奥がざわつく。自分の何気ない接触も、同じ恐怖を呼び起こしていたのかもしれない。
「……大丈夫」
ケセナは小さく息を吐き、震える指先をゆっくり解いた。
「ごめん、プラウ。俺の方こそ」
プラークルウも、ぎこちなく笑う。
「はい……私も、ごめんなさい」
それ以上は何も言わず、二人は再び土をかけ始めた。
やがて穴は完全に埋まり、朝露に濡れた小さな土の盛り上がりだけが残る。
グレンが剣を地面へ突き立て、静かに頭を垂れた。ラルも目を閉じる。プラークルウは両手を胸の前で組んだ。
ケセナだけが、しばらくその墓を見つめていた。
「……ありがとう」
過去の自分へ。
自分を繋ぎ止めてくれた死者へ。
その一言で、胸の奥にあった何かが少しだけ静まった気がした。
しばらくの沈黙のあと、グレンが顔を上げる。
「……行くぞ」
短い言葉だった。
誰も反対しない。
ラルが誰よりも早く荷を背負い、先に歩き出す。プラークルウがケセナの横へ並ぶが、その距離は以前よりほんの少し遠い。
ケセナは最後にもう一度だけ、小さな墓を振り返った。
風が吹く。
森の葉が、さわさわと笑うように揺れた。
まるで、誰かが笑ったような気がした。
ケセナは小さく息を吐く。
四人は、霧の晴れゆく森の道へと歩き出した。
重なり合わない、けれど確かに同じ方角へ向かう足音だけが、朝の空気に静かに刻まれていった。




