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End of the Atonement  作者: 久野 龍
第四章 五千星霜が終わる刻
30/60

 ■7■

 プラークルウの鋭い問いの余韻が、部屋に満ちた。


 ケセナはしばらく黙ったまま、三人の顔を順に見渡した。金色に変わった髪が、かすかに揺れる。ひとつ、静かに瞬きをする。

 その瞬間、琥珀色の瞳に宿っていた“五千の星霜”の重みが、すっと薄れた。


「……俺は、ケセナだよ」


 グレンの眉がわずかに動く。ラルが喉を鳴らし、息を止める。

 けれど、ケセナの言葉はそれで終わらなかった。


「そして――」


 一度、目を伏せる。胸へ手を当て、困ったように笑いかけたかと思えば、すぐに苦々しさを滲ませる。その不器用な仕草は、三人のよく知る『ケセナ』そのものだった。


「オウセイでもあり、ファルイーアでもある」


 沈黙が落ちた。

 外で鳴く鳥の声だけが、かえってその言葉の異常さを際立たせる。あまりにも膨大な記憶と感情が、一人の青年の中に同居している――その事実に、誰一人すぐには言葉を返せなかった。

 最初に沈黙を破ったのは、グレンだった。


「説明してもらおう」


 低い声だった。地を這うように重く、それでいて決して目を逸らさないという覚悟が滲んでいた。

 ケセナは小さく、力なく頷く。


「……僕は、一度死んだんだ」


 消え入りそうな声だった。

 その一言で、空気の質が変わる。


「ベラルティル家で、“実験体”と呼ばれていた頃。まだ……齢三、四だったかな」


 視線は三人を通り越し、もっと遠い場所を見ていた。光も届かない地下室。湿った空気。石の冷たさ。血の匂い。そうしたものすべてが、今もその目の奥に焼き付いているのだとわかる。


「あの男たち……デメンス、そしてローケンスは、僕を人として見ていなかった。ただの、壊れても構わない玩具みたいに扱っていた」


 その名を口にした瞬間、ケセナの唇がわずかに歪んだ。憎悪とも嫌悪ともつかない、濁った感情が浮かんでは消える。


「ある陽の実験で、僕の心臓は止まった。……完全に、死んだんだ」


 ラルが、息を呑んだ。


「死んだ……?」


 信じられない、というより、信じたくないという響きだった。

 ケセナはゆっくり頷き、そして一度、瞼を閉じる。


「でも、その時、“彼”がいた」


 次に口を開いた時、その声から青年らしい柔らかさが消えていた。

 五千星霜を孤独に耐えてきた者だけが持つ、深く静かな響き。


「“俺”は、死なせたくなかった」


 プラークルウの肩が、目に見えて震えた。

 その声は、間違いなく彼女の知る『主』のものだったからだ。


「ファルイーアは、やっと見つけた、俺の夢だった。失うわけにはいかなかった」


 ラルは混乱に顔を歪め、グレンは息を潜めたまま、その声の主を見つめている。


「だから俺は、死にゆくファルイーアへ、俺自身の魂を植えつけた。欠けた魂の穴を、埋めた」


 ラルの唇がわずかに開く。生きるために魂を継ぎ足す――その禁忌の重みを、本能が理解していた。


「これは、ただの俺の我儘だ」


 そう言ったあと、ケセナはふっと息を吐いた。

 そして今度は、少し低く、けれど確かに人の痛みを知る声で続ける。


「その後は、グレンさん」


 名前を呼ばれた瞬間、グレンの表情が石のように固まった。


「貴方が一番よく知っているはずだ。心臓を動かされただけの肉塊だった僕に、言葉と感情を教えて……」


 そこで一度、言葉が止まる。

 次の一言は、静かだった。それなのに、刃よりも鋭く、グレンの胸へ突き刺さった。


「奈落に落とし、感情を殺す術を叩き込み……完璧な“兵器”に仕立て上げたんだから」


 グレンは何も言えなかった。

 拳を、血が滲むほど強く握りしめる。

 自ら作り上げた『最高傑作』を前にして、彼には反論の言葉など一つもなかった。あるのは、悔恨だけだ。


「……っ」


 プラークルウが顔を覆い、小さく泣き声を漏らす。彼女の脳裏には、炎と血の中で感情を捨てて魔術を振るっていた少年の姿が、鮮明に蘇っていた。


「兵器なんて……」


 ラルが、震える声で呟く。


「そんなの、間違ってる」


 その言葉は、まっすぐだった。

 ケセナはしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振り、ひとつ長い息を吐く。


「……でもさ」


 声が変わる。

 今度は、三人がよく知る『ケセナ』の声だった。少し頼りなくて、けれど誰かの痛みに気づける優しい声。


「全部ひっくるめて、今は……俺なんだ。オウセイの記憶も、ファルイーアの力も、全部、俺の中にある」


 琥珀色の瞳が三人を見渡す。

 その眼差しには、謝罪と、諦めと、それでもなお前へ進もうとする意志があった。


「キリエさんは、消えたよ。封印の鍵そのものだった彼女の役目は終わった。……ごめん。彼女の正体を知っていたのに、取り乱して、心配をかけた」


 誰もすぐには答えなかった。

 キリエの消滅という事実が、今さらのように重く沈んでいく。

 ケセナは、自分の右腕をそっと握りしめた。

 黄金龍の紋章が、皮膚の下で不気味に脈打っている。鈍い熱が走り、思わず顔が歪む。


「ただ、まだ終わってない。殺戮の根源である黄金龍が、まだここにこびりついてる」


 ラルが息を呑み、その右腕を見つめる。


「これを完全に抑えるには、まだ足りないものがある」

「……何だ、それは」


 ようやく、グレンが声を絞り出した。懺悔を終えた騎士のような、重い声音だった。

 ケセナは真正面を見据えたまま、その名を告げる。


「黄金龍を抑える『鍵』は――フィサルーアが持ってる」


 その名が落ちた瞬間、部屋の空気がまた変わった。

 グレンの整った顔が、はっきりと歪む。


「……フィサルーアだと?」


 その一言には、遠い日の郷愁と、喉元へ刃を突きつけられたような警戒が混ざっていた。

 グレンは深く息を吐く。視線は暗い床に落ちているのに、その意識はもう遠い宮廷へ飛んでいた。


 幼い頃のフィサルーアを、グレンは嫌というほど覚えている。


 帝国の皇太子。

 そして、グレンにとって唯一無二の親友だった皇帝リュウショウの、最愛の息子。

 陽光を弾く金の髪。右目を覆う黒い眼帯。その下には、生まれつき濁った灰の瞳があった。対照的に、左の瞳だけが燃えるような紅だった。


 その異質さゆえに、宮廷では『歪な皇子』『呪われた血』と囁かれていた。だが、当のフィサルーアはそんな陰口など風のように笑い飛ばしていた。


『おい、グレン!』


 耳の奥で、澄んだ子供の声が蘇る。


『この廊下、最高だぞ! つるつるで、走ると面白いように滑るんだ!』


 その直後に響く、侍女たちの悲鳴。

 高価な花瓶が砕け、歴史ある壺が倒れる。

 その騒動の真ん中で、フィサルーアはいつも楽しそうに笑っていた。

 いたずら好きで、手がつけられないほど自由で、少しばかり性格に難がある。それでも、どこか憎めない、眩しい子供だった。

 だが、その温かな回想を断ち切るように、ケセナが静かに言った。


「あいつが、奪ったんだ」


 グレンは現実へ引き戻される。


「奪った? ……何をだ」


 ケセナは視線を落とした。金色の睫毛が震え、琥珀色の瞳に複雑な感情が揺れる。


「……母が、持っていたものだ」


 母、と言っても、ケセナには実感がない。

 それはただの血縁上の情報でしかなかった。

 皇帝リュウショウの子を産んだのは、側妃である彼女だけだったのだから。


「陛下が、いつか来る未来のために、彼女へ託したのかもしれない。……そう、記憶にある」


 父、と呼べずに『陛下』と呼ぶ。その微かな距離感に、ラルが目を伏せた。

 ケセナの声が、さらに低く沈む。


「フィサルーアが、母を殺して……それを奪い去った」


 ラルの顔が強張る。プラークルウも、自分の肩を抱きしめるようにして息を潜めた。


「……どうして。どうしてそんなことが……」


 ラルの呟きに、ケセナは感情の抜けた声で答える。


「たぶん、魔人に唆されたんだと思う。……でも、その頃の“僕”は、ほとんど檻の中だったから、詳しくはわからない」


 こめかみを押さえ、苦しげに息を吐く。

 右腕の紋章が、意思を持つように不気味に脈打った。痛みに言葉を詰まらせ、ケセナは目を閉じる。


「……っ」


 空気がぴんと張り詰める。黄金龍の邪気がうっすらと漂い、ラルが身構える。

 だが、ケセナは数呼吸ののち、ゆっくりと目を開いた。

 その背筋は、すでに真っ直ぐだった。


「だから」


 熱を帯びた右腕を、今度は逃げずに強く握りしめる。


「取り返す。フィサルーアから、奪われたものを全部」


 ラルが顔を上げる。


「取り返す……」

「ああ。それまでは、この右腕に宿る黄金龍の恐怖に耐え続けなきゃいけない。飲み込まれないように」


 ケセナは少しだけ笑った。いつもの、頼りなげで、でも優しい笑みだった。


「だからさ……もし俺が道を踏み外しそうになったら、助けて。俺を、止めてほしい」


 ラルは迷わなかった。


「もちろん。迷う理由なんてない」


 プラークルウも、涙を拭いながら大きく頷く。


「当たり前です! 私、ケセナ様の盾になるって決めたんですから!」


 けれど。

 グレンだけは、黙ったままだった。

 大きな拳を白くなるまで握り締め、視線を床へ落としている。その胸の奥に渦巻く罪悪感は、もう隠しようがなかった。


(自分は、この青年を救うどころか、兵器として調教した。道具へ作り替えたのだ。……助ける資格など、俺にあるのか?)


 答えは出ない。


「グレンさん」


 ケセナが、穏やかに呼ぶ。

 グレンが顔を上げると、そこにはすべてを見透かしたような、静かな眼差しがあった。


「貴方が悪いわけじゃない。あの時、あの状況じゃ……誰だって、そうするしかなかったんだ」


 その声音は、どこかリュウショウに似ていた。

 そしてケセナは、ほんの少しだけ、泣き出しそうな顔で微笑む。


「だって……あの頃の僕は、もう、ただの化け物だったから」


 その一言に、グレンの喉が詰まる。


「化け物を、人の形に繋ぎ止めてくれたのは、貴方だ」


 グレンは、何も返せなかった。

 赦しの言葉は、ときに責める言葉よりも深く人を抉る。


「少し、風に当たってくる」


 それだけ言うのが、精一杯だった。

 これ以上、あの優しい瞳を見ていたら、自分は立っていられない。グレンは踵を返し、逃げるように家を飛び出した。

 夕暮れの緋色が、開け放たれた重い木扉から室内へ流れ込む。森の匂いを含んだ風が吹き抜けた。


 けれど、部屋に残された沈黙は、風では攫われなかった。

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