■7■
プラークルウの鋭い問いの余韻が、部屋に満ちた。
ケセナはしばらく黙ったまま、三人の顔を順に見渡した。金色に変わった髪が、かすかに揺れる。ひとつ、静かに瞬きをする。
その瞬間、琥珀色の瞳に宿っていた“五千の星霜”の重みが、すっと薄れた。
「……俺は、ケセナだよ」
グレンの眉がわずかに動く。ラルが喉を鳴らし、息を止める。
けれど、ケセナの言葉はそれで終わらなかった。
「そして――」
一度、目を伏せる。胸へ手を当て、困ったように笑いかけたかと思えば、すぐに苦々しさを滲ませる。その不器用な仕草は、三人のよく知る『ケセナ』そのものだった。
「オウセイでもあり、ファルイーアでもある」
沈黙が落ちた。
外で鳴く鳥の声だけが、かえってその言葉の異常さを際立たせる。あまりにも膨大な記憶と感情が、一人の青年の中に同居している――その事実に、誰一人すぐには言葉を返せなかった。
最初に沈黙を破ったのは、グレンだった。
「説明してもらおう」
低い声だった。地を這うように重く、それでいて決して目を逸らさないという覚悟が滲んでいた。
ケセナは小さく、力なく頷く。
「……僕は、一度死んだんだ」
消え入りそうな声だった。
その一言で、空気の質が変わる。
「ベラルティル家で、“実験体”と呼ばれていた頃。まだ……齢三、四だったかな」
視線は三人を通り越し、もっと遠い場所を見ていた。光も届かない地下室。湿った空気。石の冷たさ。血の匂い。そうしたものすべてが、今もその目の奥に焼き付いているのだとわかる。
「あの男たち……デメンス、そしてローケンスは、僕を人として見ていなかった。ただの、壊れても構わない玩具みたいに扱っていた」
その名を口にした瞬間、ケセナの唇がわずかに歪んだ。憎悪とも嫌悪ともつかない、濁った感情が浮かんでは消える。
「ある陽の実験で、僕の心臓は止まった。……完全に、死んだんだ」
ラルが、息を呑んだ。
「死んだ……?」
信じられない、というより、信じたくないという響きだった。
ケセナはゆっくり頷き、そして一度、瞼を閉じる。
「でも、その時、“彼”がいた」
次に口を開いた時、その声から青年らしい柔らかさが消えていた。
五千星霜を孤独に耐えてきた者だけが持つ、深く静かな響き。
「“俺”は、死なせたくなかった」
プラークルウの肩が、目に見えて震えた。
その声は、間違いなく彼女の知る『主』のものだったからだ。
「ファルイーアは、やっと見つけた、俺の夢だった。失うわけにはいかなかった」
ラルは混乱に顔を歪め、グレンは息を潜めたまま、その声の主を見つめている。
「だから俺は、死にゆくファルイーアへ、俺自身の魂を植えつけた。欠けた魂の穴を、埋めた」
ラルの唇がわずかに開く。生きるために魂を継ぎ足す――その禁忌の重みを、本能が理解していた。
「これは、ただの俺の我儘だ」
そう言ったあと、ケセナはふっと息を吐いた。
そして今度は、少し低く、けれど確かに人の痛みを知る声で続ける。
「その後は、グレンさん」
名前を呼ばれた瞬間、グレンの表情が石のように固まった。
「貴方が一番よく知っているはずだ。心臓を動かされただけの肉塊だった僕に、言葉と感情を教えて……」
そこで一度、言葉が止まる。
次の一言は、静かだった。それなのに、刃よりも鋭く、グレンの胸へ突き刺さった。
「奈落に落とし、感情を殺す術を叩き込み……完璧な“兵器”に仕立て上げたんだから」
グレンは何も言えなかった。
拳を、血が滲むほど強く握りしめる。
自ら作り上げた『最高傑作』を前にして、彼には反論の言葉など一つもなかった。あるのは、悔恨だけだ。
「……っ」
プラークルウが顔を覆い、小さく泣き声を漏らす。彼女の脳裏には、炎と血の中で感情を捨てて魔術を振るっていた少年の姿が、鮮明に蘇っていた。
「兵器なんて……」
ラルが、震える声で呟く。
「そんなの、間違ってる」
その言葉は、まっすぐだった。
ケセナはしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振り、ひとつ長い息を吐く。
「……でもさ」
声が変わる。
今度は、三人がよく知る『ケセナ』の声だった。少し頼りなくて、けれど誰かの痛みに気づける優しい声。
「全部ひっくるめて、今は……俺なんだ。オウセイの記憶も、ファルイーアの力も、全部、俺の中にある」
琥珀色の瞳が三人を見渡す。
その眼差しには、謝罪と、諦めと、それでもなお前へ進もうとする意志があった。
「キリエさんは、消えたよ。封印の鍵そのものだった彼女の役目は終わった。……ごめん。彼女の正体を知っていたのに、取り乱して、心配をかけた」
誰もすぐには答えなかった。
キリエの消滅という事実が、今さらのように重く沈んでいく。
ケセナは、自分の右腕をそっと握りしめた。
黄金龍の紋章が、皮膚の下で不気味に脈打っている。鈍い熱が走り、思わず顔が歪む。
「ただ、まだ終わってない。殺戮の根源である黄金龍が、まだここにこびりついてる」
ラルが息を呑み、その右腕を見つめる。
「これを完全に抑えるには、まだ足りないものがある」
「……何だ、それは」
ようやく、グレンが声を絞り出した。懺悔を終えた騎士のような、重い声音だった。
ケセナは真正面を見据えたまま、その名を告げる。
「黄金龍を抑える『鍵』は――フィサルーアが持ってる」
その名が落ちた瞬間、部屋の空気がまた変わった。
グレンの整った顔が、はっきりと歪む。
「……フィサルーアだと?」
その一言には、遠い日の郷愁と、喉元へ刃を突きつけられたような警戒が混ざっていた。
グレンは深く息を吐く。視線は暗い床に落ちているのに、その意識はもう遠い宮廷へ飛んでいた。
幼い頃のフィサルーアを、グレンは嫌というほど覚えている。
帝国の皇太子。
そして、グレンにとって唯一無二の親友だった皇帝リュウショウの、最愛の息子。
陽光を弾く金の髪。右目を覆う黒い眼帯。その下には、生まれつき濁った灰の瞳があった。対照的に、左の瞳だけが燃えるような紅だった。
その異質さゆえに、宮廷では『歪な皇子』『呪われた血』と囁かれていた。だが、当のフィサルーアはそんな陰口など風のように笑い飛ばしていた。
『おい、グレン!』
耳の奥で、澄んだ子供の声が蘇る。
『この廊下、最高だぞ! つるつるで、走ると面白いように滑るんだ!』
その直後に響く、侍女たちの悲鳴。
高価な花瓶が砕け、歴史ある壺が倒れる。
その騒動の真ん中で、フィサルーアはいつも楽しそうに笑っていた。
いたずら好きで、手がつけられないほど自由で、少しばかり性格に難がある。それでも、どこか憎めない、眩しい子供だった。
だが、その温かな回想を断ち切るように、ケセナが静かに言った。
「あいつが、奪ったんだ」
グレンは現実へ引き戻される。
「奪った? ……何をだ」
ケセナは視線を落とした。金色の睫毛が震え、琥珀色の瞳に複雑な感情が揺れる。
「……母が、持っていたものだ」
母、と言っても、ケセナには実感がない。
それはただの血縁上の情報でしかなかった。
皇帝リュウショウの子を産んだのは、側妃である彼女だけだったのだから。
「陛下が、いつか来る未来のために、彼女へ託したのかもしれない。……そう、記憶にある」
父、と呼べずに『陛下』と呼ぶ。その微かな距離感に、ラルが目を伏せた。
ケセナの声が、さらに低く沈む。
「フィサルーアが、母を殺して……それを奪い去った」
ラルの顔が強張る。プラークルウも、自分の肩を抱きしめるようにして息を潜めた。
「……どうして。どうしてそんなことが……」
ラルの呟きに、ケセナは感情の抜けた声で答える。
「たぶん、魔人に唆されたんだと思う。……でも、その頃の“僕”は、ほとんど檻の中だったから、詳しくはわからない」
こめかみを押さえ、苦しげに息を吐く。
右腕の紋章が、意思を持つように不気味に脈打った。痛みに言葉を詰まらせ、ケセナは目を閉じる。
「……っ」
空気がぴんと張り詰める。黄金龍の邪気がうっすらと漂い、ラルが身構える。
だが、ケセナは数呼吸ののち、ゆっくりと目を開いた。
その背筋は、すでに真っ直ぐだった。
「だから」
熱を帯びた右腕を、今度は逃げずに強く握りしめる。
「取り返す。フィサルーアから、奪われたものを全部」
ラルが顔を上げる。
「取り返す……」
「ああ。それまでは、この右腕に宿る黄金龍の恐怖に耐え続けなきゃいけない。飲み込まれないように」
ケセナは少しだけ笑った。いつもの、頼りなげで、でも優しい笑みだった。
「だからさ……もし俺が道を踏み外しそうになったら、助けて。俺を、止めてほしい」
ラルは迷わなかった。
「もちろん。迷う理由なんてない」
プラークルウも、涙を拭いながら大きく頷く。
「当たり前です! 私、ケセナ様の盾になるって決めたんですから!」
けれど。
グレンだけは、黙ったままだった。
大きな拳を白くなるまで握り締め、視線を床へ落としている。その胸の奥に渦巻く罪悪感は、もう隠しようがなかった。
(自分は、この青年を救うどころか、兵器として調教した。道具へ作り替えたのだ。……助ける資格など、俺にあるのか?)
答えは出ない。
「グレンさん」
ケセナが、穏やかに呼ぶ。
グレンが顔を上げると、そこにはすべてを見透かしたような、静かな眼差しがあった。
「貴方が悪いわけじゃない。あの時、あの状況じゃ……誰だって、そうするしかなかったんだ」
その声音は、どこかリュウショウに似ていた。
そしてケセナは、ほんの少しだけ、泣き出しそうな顔で微笑む。
「だって……あの頃の僕は、もう、ただの化け物だったから」
その一言に、グレンの喉が詰まる。
「化け物を、人の形に繋ぎ止めてくれたのは、貴方だ」
グレンは、何も返せなかった。
赦しの言葉は、ときに責める言葉よりも深く人を抉る。
「少し、風に当たってくる」
それだけ言うのが、精一杯だった。
これ以上、あの優しい瞳を見ていたら、自分は立っていられない。グレンは踵を返し、逃げるように家を飛び出した。
夕暮れの緋色が、開け放たれた重い木扉から室内へ流れ込む。森の匂いを含んだ風が吹き抜けた。
けれど、部屋に残された沈黙は、風では攫われなかった。




