■6■
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、室内を白く照らしていた。
ケセナは眩しさに目を細め、小さく欠伸を漏らす。暖炉の火はすでに落とされ、煤の匂いだけが薄く残っている。その静かな空気は、これから始まる儀式の前触れのようでもあった。
部屋の中央からは食卓も椅子もすべて運び出され、代わりに床一面を埋めるように、複雑な紋様が描かれている。生々しいほど濃い赤で刻まれたそれは、朝の光の中にあってなお、呼吸するように淡い燐光を放っていた。
その中心に、ケセナは座していた。
部屋へ入った時、キリエはこれを『魔法陣』と呼んだ。ファミラスで行使される『魔術』とは異なる、魔人の力――『魔法』による儀式なのだという。
そのキリエは今、ケセナの正面で背を向けて立っていた。純白の儀式衣は彼女の神秘性をいっそう際立たせており、ケセナは思わず見惚れそうになる。だが、見とれている場合ではないことは、彼自身がよくわかっていた。
やがて、腰まで届く長い黒髪を揺らし、キリエが振り返る。牡丹色の瞳が、わずかに揺れていた。
見事な装飾の施された杖を、彼女は強く握り直す。
そして、ケセナの右腕を見た。
黄金龍の紋章が、皮膚の下で生き物のように脈打っている。まるで閉じ込められた獣が、檻の内側から暴れているかのようだった。そのたびに熱が走り、ケセナは無意識に顔をしかめる。
「……準備はいい?」
魔法陣の外側に立ち、キリエは静かに問うた。
声はいつも通り冷静だった。けれど、握りしめた杖の先がかすかに震えているのを、ケセナは見逃さなかった。
「これが、封印解放の儀式よ。もう、引き返せない」
ケセナは肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「わかっています。俺は……記憶を取り戻します」
そう言って見上げると、キリエは一瞬だけ目を伏せた。
「そう。あなたの本来の記憶。あなたが、自分を守るために捨てたもの」
唇が、ほんのかすかに震える。
「……辛さしか、ないかもしれないけれど」
ケセナは乾いた笑みを浮かべた。頬が引きつる。
「地獄を覗き込むような気分ですよ」
「当然よ。正気を保てる保証すらないわ」
キリエは淡々と返す。
「でも安心して。万が一の時は、グレンたちが容赦なく動く」
厚い扉の向こうには、待機している三人の気配がある。グレンの重い存在感。ラルの鋭い静けさ。そして、プラークルウの落ち着かない足音。
「何があっても、止める」
それはケセナへ向けた言葉であると同時に、キリエ自身への確認でもあるようだった。
「でも――あなたの魂が耐えている限り、私は止めない」
ケセナは、静かに頷く。
「逃げないと決めたんだ」
それが、昨夜あの暗い森の中で自分が出した最後の答えだった。
本音を言えば、今も怖い。足がすくむほどに。けれど、それでも求めてしまったのだ。自分という存在を形作った“記憶”の、その先を。
キリエが魔法陣の縁に立ち、両手をかざす。
「始めるわ。……抗いなさい、ケセナ」
刹那、室内の空気が一変した。
魔法陣が爆発するように光を放つ。床に刻まれた紋様が生き物のように蠢き、渦巻く白光が朝の明るさを一瞬で呑み込んだ。
ケセナの右腕に刻まれた黄金龍の紋章が、肉を焼き切るような熱さで激しく脈打つ。
視界が、砕けた。
まるでガラス細工が粉々に散るように。
次の瞬間、ケセナは別の場所にいた。
暗い地下室だった。
光の届かないその空間は、湿気に満ちた空気がねっとりと肌にまとわりつく。歪な巨大な石のまわりに、幾つもの黒い影が群がっていた。大人たちだ。誰もが不気味な笑みを浮かべ、何かを削っている。
がり、がり、と耳障りな音が響く。
赤い液体が、石の上から床へと流れ落ちていた。
声も出せないまま、その中心から小さな手が上へ伸びる。
助けを求めるように。
だがその手は、ぱたりと力なく落ちた。
鉄錆に似た、濃い血の臭いが鼻を刺す。
場面が変わる。
肌を焼く、猛火の熱。
崩れ落ちた町。
空を裂くほどの悲鳴が、何千、何万と重なって響いている。逃げろと誰かが叫んでいる。愛する者の声か、自分自身の絶叫か、それすらも判然としない。
炎。風。水。土。
底知れぬ力が、すべてを平等に灰燼へと変えていく。
誇りも、歴史も、愛も。
何もかもが、等しく無へ還っていく。
そして、その破壊の中心にいるのは――血まみれの、小さな影だった。
蹂躙される者と、蹂躙する者。
そのどちらの中心にいるのも。
他ならぬ、自分自身だった。
「……っ、が……あぁっ!」
ケセナの喉から、ひび割れた悲鳴が漏れる。
息ができない。視界が明滅する。魔法陣の光が室内で激しく脈打った。
「ケセナ! 耐えなさい!」
遠く、深い水底から響くようにキリエの声が聞こえた。
けれど、その声はもう届かない。
記憶の奔流は止まらない。
「あ……ああ……っ」
空気を求めて大きく口を開く。よだれが顎を伝う。
肉が裂ける痛み。骨を削られる感覚。
「やめろ……触れるな……っ!」
両手が宙を切る。迫り来る幻影を必死に払いのける。
目の前には、積み上がる死体の山。
悲鳴。
嗚咽。
血の匂い。
何もかもが赤かった。
「俺は……俺が、殺し……っ」
嗚咽が漏れる。
「もう、見せるな……っ」
両手で目を覆っても、脳裏へ焼き付いた光景は消えない。
そうして最後に訪れるのは、圧倒的な虚無だった。
だが。
その地獄の底から、まったく別の記憶が浮かび上がってくる。
柔らかな木漏れ日が差し込む、静かな森。
琥珀色の瞳を持つ、蒼い髪の男。
救世主と呼ばれながら、それを否定し続けた男。
オウセイ・カイラーヌ。
彼は、血に塗れ、心を壊したファルイーアを、ただ穏やかな目で見つめていた。
彼もまた、五千の星霜という途方もない苦痛の中を生き抜いてきたはずなのに。どうして、あんなふうに静かでいられたのか。
ファルイーアとも、ケセナとも異なる、オウセイの長すぎる贖罪の記憶が濁流となって流れ込んでくる。
「……なんで」
ケセナの呟きは、涙混じりの拒絶だった。
記憶が混ざっていく。
自分の中へ、オウセイの五千星霜が流れ込んでくる。
深い悲しみ。慈しみ。諦念。祈り。
そして、世界を救うために下した、あまりにも残酷な決断。
ケセナは理解してしまった。
オウセイが、なぜ滅びの力である黄金龍を応龍族の長の右腕へ託したのかを。
なぜ、こんな呪いのような運命を彼ら一族へ背負わせたのかを。
黄金龍が蠢く。
右腕の熱が、限界を超えて増していく。
「……やめろ、来るな……!」
ケセナの身体は、悪寒に襲われたように激しく震えた。咆哮する黄金龍。囁くオウセイ。二つの存在が、内側から自分を引き裂こうとしてくる。
(逃げない。ここで呑まれたら、俺は俺でなくなる!)
その時だった。
『――大丈夫。お前なら、この鎖を変えられる』
死んだはずの男の声が、耳元で響いた気がした。
ケセナは血が滲むほど歯を食いしばり、両目を見開く。
「……黙れ、黄金龍……!」
声を絞り出す。
「俺は、お前には屈しない!」
光が飽和した。
魔法陣が、真昼の太陽さえ呑み込むほどの白光を放つ。その光の向こうに、キリエの牡丹色の瞳が見えた気がした。
次の瞬間。
鼓膜が痛むほどの、完全な静寂が落ちる。
ケセナの髪が、開いた窓から差し込む風にさらりと揺れた。
視界に映った前髪からは、見慣れた茶色が消えている。
そこにあったのは、冷たい『金』だった。
しばらく、その髪を見つめたまま呼吸を整える。胸の上下がようやく落ち着き始めた頃、ケセナはゆっくりと自分の手を見下ろした。
「……終わった……?」
震える手を見つめる。返事はない。
「キリエさん?」
顔を上げる。
誰もいなかった。
魔法陣は煤ひとつ残さず消え失せ、部屋には自分一人だけが取り残されている。
「……キリエ?」
見回す。
だが、その姿はどこにもない。
ざらり、と嫌な予感が背筋を走った。ケセナはふらつく足で立ち上がり、勢いよく廊下へ飛び出す。
「グレンさん! ラル!」
隣室から、待機していた三人が弾かれたように顔を出した。
「終わったのか!?」
グレンが叫ぶ。
そして、次の瞬間、目の前の青年を見て言葉を失った。
ラルの紫の瞳が見開かれ、プラークルウは手にしていた菓子を床に落としたまま、ぽかんと口を開ける。
そこに立っていたのは、間違いなく金色の髪をした青年だった。
だが、グレンの知るファルイーアとは決定的に違う点が一つある。
その瞳は、狂気の紅でもなければ、偽りの茶でもなかった。
深い、琥珀色。
「……ファル、様……?」
プラークルウの口から、かつての名が漏れる。
だが、ケセナはそれに応じる余裕もなく、死人のように青ざめた顔で訴えた。
「キリエが……キリエがいないんだ」
三人が、不可解そうに顔を見合わせる。
グレンはケセナの口調と、『キリエ』という呼び捨てに引っかかりを覚えつつ、低い声で言った。
「何を言ってる、ケセナ」
「キリエは、どこだ?」
ケセナの声が低くなる。
琥珀色の瞳が、鋭い光を帯びた。
「お前が出てくるまで、俺たちはずっとここで扉を見張っていた。……キリエどころか、誰も部屋から出てきていない」
ラルもまた、無言で頷く。
その瞬間、ケセナの頭の奥で、オウセイの記憶が鋭く弾けた。欠けていた何かが、音を立てて噛み合っていく。
「……違う」
誰へ向けるでもなく、ケセナは呟いた。
「キリエは……彼女は……」
その声に、五千星霜の果てを生き抜いた者の、深く静かな響きが宿る。
プラークルウが震えた。
その声音を、彼女は知っている。
グレンもラルも息を呑んだまま、目の前の青年を見つめている。
ケセナは、いや――そこに立つ“誰か”は、冷酷な真実を静かに告げた。
「キリエは、消滅した」
グレンが一歩、警戒するように後ずさる。
「“俺”という存在を肯定し続けた彼女は」
琥珀色の瞳が、この世のものではない遠い場所を見ている。
「“俺”の希望を叶えるため、自ら封印の鍵になった」
部屋の空気が凍りついた。
プラークルウの金色の瞳が細くなる。
彼女は目の前の青年の中に、かつて仕えた主の気配を感じ取っていた。
複雑な眼差しで彼を見つめ、そして、震える声で問いかける。
「……ねぇ」
冷たい刃のような、決定的な問いだった。
「今の、貴方は……誰?」
窓から差し込む朝の光が、その異質な青年の輪郭を容赦なく照らし出していた。




